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熱視線  作者: 青生翅
微熱編
12/13

#08 心まじわる




 やわらかく雨の降る空を見上げて、私は抱えた洗濯物の籠を空き部屋の方へと運んで行った。

 大きな窓からの弱々しい光では乾きづらいことを承知の上で、部屋の梁に渡してある室内用の物干し竿に衣類をかけていく。襖と障子を締め切って、十年ほど前につけたエアコンをつけておくつもり。家族が多いと洗濯は毎日しないと間に合わないから。


 昨夜の電話の直後から、携帯電話の電源を落としたままだ。

 あんな態度を取れば、さすがの彼だってもうかけて来たりしないだろうと思っている反面で、保険をかけておくくらいには彼の執着心を甘く苦く感じているのだった。

 もう自分の中の矛盾を考えるのが億劫だ。恋なんてするものじゃない。


 ギィと鳴る車輪の音に目を向ければ、縁側から壮太がこちらを見ていた。


「どうしたの?」

「……それ、こっちのセリフだから」


 はぁと若者らしくない溜息をついて、壮太はバリアフリーで段差のない縁を越えて、私の隣に並んだ。車輪が畳を踏みつけるたび、青い草の匂いが経つ気がした。

 自分の体重を乗せた車椅子を動かすからか、意外にたくましい両腕が伸びて、私の足元の洗濯籠から靴下を手に取る。


「それ長さ調節できるでしょ。あともう少しだけ下げて」


 言われるままに、小物などを干す洗濯物干しの長さを伸ばして、壮太の腕が届くぎりぎりだった高さを下げてやる。

 てきぱきとした手つきで靴下や下着を干していく壮太。どうでもいいことだけど、妹のショーツを恥じらいもせずに平然と取り扱うのは、男子高校生としていかがなものだろうか。まぁ、同じことは妹の那美にも言える。構いもせずに洗濯物を混ぜこぜにするのだから、崎本家の兄妹関係は平和だ。


 私が至極どうでもいいような、意外に重要なようなことを考えていると、壮太が手を動かしながら口を開いた。


「昨日の晩、電話の人は彼氏?」

「……どうして?」

「最近の理香姉は見たことない顔してる」

「見慣れた顔でしょう」

「そういう意味じゃない、ばか」


 もちろんそれはわかっているけれど、ばかとは酷い。

 でも冗談なんか言う雰囲気じゃないくらい、壮太は実に淡々としている。


「溜息は多いしぼんやりしてるし、なんていうか迷子の子供みたいな顔っていうか」


 俺にも上手く説明できないな、と顔を向けないままに壮太が呟く。


「最初は性質の悪い男に付きまとわれてるとかだったらどうしようって思ってたけど、そうじゃないんだろ」

「うん」

「別れ話でもめてるとか?」


 女だらけの家の中で、壮太がこういう話をするのは珍しかった。姉にしろ妹にしろ、恋愛話に下手に足を踏み入れると牙をむかれる。興味のない顔で愚痴る二人に相槌程度で済ますことが多かったのに、今日はいったいどうしたというのか。


「理香姉は顔に出ない方だけど、落ち込んでるのくらいはわかるよ」

「そっか」

「そうだよ」

「……彼氏じゃ、ないよ」

「ふうん?」


 中身のなくなった洗濯籠を持ち上げると、それに促されるようにして壮太が車椅子を進める。なんとなく背後のハンドルに手を添えて押すと、案外素直に壮太は身を任せてくる。

 ゆるゆると長い縁側を一緒に進んでいる途中で、壮太が軽く笑んだ。

 さーっと降り注ぐ雨音や、通りを往くエンジン音が窓越しに聞こえる中で、その微細な空気の揺れが耳をくすぐった。


「何? 面白いことある?」

「ん、いや別に」

「嘘だ。言いなさい」

「いいけどさ。理香姉はその人が好きなんだなぁと思って」


 何を急にと思って、私は足を止めた。肩越しに振り返った壮太の瞳に、すべて見透かされている気分になる。


「それで、その人も理香姉が好きだろ」

「知らないくせに何でそんなに自信満々なの」

「知っている理香姉は何でそんなに弱気なの」


 切り返された言葉に、咄嗟に息をつめた。


「諦めるとか、そういうの駄目だよ。後悔するから」

「……生意気なこと言って」

「経験論だよ。俺は他人よりずっと出来ることが少ない気でいたけど、案外そうでもないって気が付いたからさ」


 軽く腕を広げて自分の不自由な下肢を示す壮太は、暗いものなど一つも背負ってないような笑顔を見せた。


「平気だよ」


 怖くないよ、と変換されそうな一言を残して、壮太は自分の手で車椅子を進めた。


 置いて行かれた私は縁側に座り込んで、膝を抱えた。ひんやりとした温度を感じつつ、うーっとうなり声が漏れる。

 情けない。弟にああまでかっこよく振る舞われるなんて。


 でも恨み言みたいな言葉で電話を切ったのは私で、彼の番号を消し去ったのも、そのあとに電源を落としたのも私だ。二重三重に振り下ろした彼への刃が取り消されることはない。




 それでも、会いたくなった。都合のいい夢でもいいから、いま会いたい。どんな感情を向けられてもいいから、あの目で見つめられるならどれほど満たされるだろう。


『諦めるとか、そういうの駄目だよ。後悔するから』


 諦め切れない今でさえ後悔の念が濃すぎる。もう取り返しがつかないくらいに私は最低な行いをしていてなお、木瀬くんが欲しくて仕方がなかった。


 立ち上がる足先の冷たさを叱咤するように、私は一度だけ腿を強く叩いた。鈍い音とともに上がってくる痛みのせいで、涙なんか浮かんでくるのだ。


 私は居間で財布と携帯電話を掴んで、玄関に向かった。自分の靴はヒールしかなかったから、サイズが一緒の妹のスニーカーを無断で借りる。

 誰のかわからない紺色の傘と一緒に転び出るように玄関から外へ出て、私は駆け出した。


 木瀬くんへ向かって、走る。






**********






 雨脚は少し強まって、灰色の分厚い雲が空を覆っている。それでも目指す方向には切れ間から青空がのぞいていて、私の足を速めてくれた。

 走る先にあるのは駅だ。そこから電車で新幹線のある町まで行って、二時間かけて彼に会いに行く。財布の中の金額は詳しく思い出せないけど、もしかしたら足りないかもしれない。


 ATMで下ろすことも考えて、コンビニの場所を思い浮かべていたとき、車道を走る車が跳ねた水しぶきが派手に左足を濡らした。

 その冷たさに足を止めたとき、切れ切れの息苦しさに襲われる。こんなに全力疾走をしたのは、一体いつぶりだろうか。伏せた瞳に握りこんでいた携帯電話の存在が留まって、私は電源を入れる操作をした。

 そこに例え着信の報せがなくとも、私は駆けることをやめない自信があった。呆れられて嫌になられていても、私が木瀬くんを好きだという言葉を、直接言わないことには終われない。


 画面が白く立ち上がるのをじりじりと待っていたとき、その声が聞こえたのを幻聴だと思った。私が脳内で考えすぎて、リアルな質感で浮かび上がってきてしまったのだろうと。


 けれど水が跳ねる騒々しい音とともに私の名を呼ぶその声が、たしかに近づいてくるのを知って顔を上げた。

 前方じゃない――振り向いた先にいた人物の姿が、信じられなかった。


「理香先輩……!」


 少しばかり私とすれ違ったんだろう。道端に寄せたバイクにヘルメットを鬱陶しそうに放りながら、木瀬くんが私を呼んでいた。

 ぐっしょりと全身を濡れ鼠にしている。張り付いた長めの前髪の奥で、私を射殺さんばかりに強い輝きを持った瞳が、真っ直ぐにこちらを向いていた。


 私が数歩まろぶように踏み出した足が距離を稼ぐ前に、木瀬くんが長い脚で駆け寄って、私の手首をきつく握った。冷たい雨に打たれているはずなのに、その掌の熱さに驚いた。


「木瀬くん、何で」

「八時間です!」


 私のどんな言葉も聞かないとばかりに木瀬くんは顔を寄せ、私に言い聞かせるようにそう言った。


「ここまでバイクで八時間。それだけ待ってもらえればいつだって来れるんだ。意味わかんない不安なんか感じないで、俺を待っててください!」

「八時間て……」


 それじゃあ昨夜の電話の後、夜通し運転してきたというのか。なんて無茶をするの。


「俺と理香先輩の距離なんてそんなもんです。電話もメールもある。それでも理香先輩は足りないですか。俺が先輩を好きだってことを信じられませんか!」

「そんなわけない」

「だったら、もういいじゃないですか。いい加減に負けてくださいよ……」


 眉間に酔った皺が、木瀬くんが途方に暮れていることを知らせている。思いつく限りのことを全部してくれたんだろう。その懸命さに胸が熱くならない人間なんていない。


「八時間か」


 私が家を飛び出す八時間も前に、木瀬くんはバイクに飛び乗ったのか。本当に、どこまでも私は彼に甘えている。まさか来てくれるなんて思ってもみなかったから、彼を驚かせて言葉を尽くすのは自分だと思っていた。

 この突然の事態に湧き上がる感情を、どう表現すればいいというの? 何を言ったってきっと物足りないに違いないのに。


「理香先輩は俺が好きじゃないですか?」


 昨晩は「好きでしょ」とそう言った口が、弱々しい響きで私に縋っていた。

 ああ、もう駄目だ。いろいろ我慢が利かない。


 固く握られていた手首を強引に外して、私は背伸びをするように木瀬くんの首に両腕を回した。ひらりと落ちた傘と同時に雨が頬を打ったけれど、もう何の問題にもならなかった。濡れ鼠の木瀬くんとはけして心地いい温度の触れ合いじゃないのに、その伝染する冷たさも首筋の熱さも、すべてが愛しかった。

 目尻からこぼれた水が濡れそぼった木瀬くんの上着にさらに染みる。

 ぶら下がるような危なっかしい体勢の私を支えるべく、木瀬くんの手が背中の下の方に添えられた。


「うわっ……理香先輩?」


 濡れますからと慌てる木瀬くんがおかしかった。そんなの構いはしないのに。


「好きだよ」


 身をこわばらせる木瀬くんを、ぎゅっと抱きしめた。怯える動物を宥めるみたいに、私のすべてで抱きしめる。


「木瀬くんが好きです」


 この想いさえあればと、私はようやく思えた。どんな不安や恐怖も、今この腕の中にあるもの以上に価値などない。


 恐る恐る抱きしめなおす木瀬くんの腕に力がこもって、私の肩口に頭が埋まってきた。濡れた髪の奥で密やかに吐かれた言葉だけは、志織にだって言わないでおこう。




 

 

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