#06 想うだけなら
「俺は理香先輩が好きです――好きになりました」
――なんで……。
異性を部屋に入れた緊張感も感じないままに、私は木瀬くんに送る言葉を選んでいたときだった。そこまでにしたいくつかの会話には、正直意識が向いていなかった。
ただ、痛恨の一撃というか、木瀬くんを抉る一言を探していたのだ。下手な同情心か何かでこんなところにまで来た木瀬くんを、傷つけてやりたいと切望していた。……そこまですれば、彼はちゃんと私を見限ってくれる。
半年前のあの日、木瀬くんの志織への恋心の美しさに魅せられたのを覚えている。
自分と結ばれることのない相手なのに、それでも笑顔でいられるならいいのだと言った、あの純粋すぎる気持ち。
私はそれに頷いたはずだった。その気持ちがわかるよと寄り添ったはずだった。
けれど、本当は違った。欠片も同じであるはずがなかった。
先生と志織と木瀬くんは舞台上の人間で、私はただの観客に過ぎなかった。登場人物に多少入れ込んでいるだけの、ストーリーに関わることのできない第三者。
それをあの日、私は一人の役者を引き抜いて、自分自身の舞台に無理矢理上げた。けれど私に恋を演じる自覚なんてなく、相手が懸命に向き合おうと努力してくれるごとに、自分の役不足加減に尻込みした。
私は嫉妬したんだ。観客でいられた頃に見た舞台の美しさに、それを演じていた役者たちの真剣さに。上手く回らない、それを放棄してしまった自分自身の舞台は、ひどくみすぼらしくて滑稽だった。
私は、叶わない恋の相手に、それでも違う誰かとの幸せを願うなんてできない人間だ。
いまさらながらそれを知って、醜い心根で木瀬くんに会っているこの瞬間が苦痛でたまらない。いつかそれを彼自身に暴かれる日を想像してしまうから。
だから今日は幕引きの日だったのに――木瀬くんは何を言った?
「ずっと理香先輩を見ていたいんです」
私は木瀬くんを見た。少し前まで、飽くことなく見つめ続けていた彼を見た。
一重で鋭利な輪郭の中、熱く熟れたような瞳が真っ直ぐに向いている。あの日みたいだ。木瀬くんが熱を出した、志織を想っていたとそう口にした、あの日。
「なに……」
「信じてくれませんか」
飲み込めない言葉がぐるりと頭の中をめぐる中で、身体だけは条件反射のように微熱を上げた。目元に溜まる涙の鬱陶しさに、私は小さく頭を振る。
それを見た木瀬くんは、自分の言葉の答えだとは取らなかったようだ。
「信じてください」
切なくなるほどの真剣さが、同情だとかなんだとか、事前に考えていたそれを打ち砕く。
「だってそんなの、少しも――」
「気付いたのは、牧田先輩に今回のことを聞いてからです」
言い募る木瀬くんは何かを噛み潰すみたいに苦い顔で、それはまるで自分ことを責めているようだった。
「俺は、理香先輩の事情を何一つ知りませんでした」
「……教えていないもの」
「そうですね。当たり前です。でも、その当たり前が嫌だと思ったんですよ」
「意味が、わからない」
本当に意味が分からない。
そんなにまで自分が鈍いという自覚はなかった。けれどさっきの言葉が告白だと言うのなら、本当にそれで間違いないというのなら、なおさらに意味が分からない。だって、何でいまなの? なんだってこんなときに、彼は私を好きになんかなった?
私の混乱を見透かしているように、または無視するように、木瀬くんは私を見つめ続け、そして言葉を紡ぐ。
「理香先輩が強い人だって知ってます。友達や家族想いで、けして自分が犠牲になったなんて思わないことも知ってる。周囲に気づかせないように優しいことが出来る人だって。……そうわかってても、俺は理香先輩が少しでも寂しいとか、つらいとか感じることが嫌なんです。そういうときに何の力にもなれない自分が嫌だ。何でもいいから、頼ってほしいし、支えにしてほしい。そう出来るように頑張りたい。そんなことばっかり考えました。俺は理香先輩の特別になりたい……誰の前でも強い理香先輩の、例外になりたい」
もどかしさを滲ませた木瀬くんの表情から、本当はもっともっと言いたいことがあるのかもしれないと思った。
けれどもともと木瀬くんは、あまり口数が多くないはずだった。みんなで話していても輪の中心より少し外側で、ふとした瞬間に一石を投じるような。あまり長文を話すところは見たことがなかった。私もそんなに話す方じゃない。いま思えば、あの医務室での会話が最長だったかもしれない。
特別。例外。
その響きは間違いようもなく、木瀬くんの私に向ける好意なんだ……。
木瀬くんが、膝の上で固く拳を作ったのがわかった。
「好きです」
感動を通り越して、寒気を感じるほど。私はこんな展開を予想なんてしてなかった。
だからきっといま流れている涙は、ぜんぜん美しくも可愛らしくもない。木瀬くんの心に訴えるものであってはならない。
なぜなら私にとって、順序が違ったとしても、彼に伝える言葉は決まっていたから――。
「――ごめん……」
正しくないって、わかってても、私はこう言うしかない。こんな風な自分でしかいられない。
恋愛する状況じゃないだとか、余裕がないだとかは言い訳で、来年には社会人になる私とまだ学生でいられる木瀬くんの差とかも関係なく、ただ――怖い。
ようやく交わされ始めた視線に浮かれたときもあった。けれど父親が倒れて、じきにこの町を離れることが決まって。私は親友である志織とでさえ距離が開くことを嫌だと思ったのに、それがもし好きな異性なら、恋人なら、きっと耐えられない。
寂しさに負けてみっともない姿を晒す未来が簡単に予想出来て、それは駄目だと頭の中が警鐘を鳴らす。
だってそんなのは「崎本理香」らしくない。
「……私の気持ち、届いたことはすごく嬉しい。でも、ごめんなさい」
「っどうして、先輩は……!」
木瀬くんはくしゃくしゃに顔を歪めて、私に手を伸ばした。それから逃れる反応は出来ずに、大きな手が私の肩を掴む。けして乱暴な仕草じゃなかったけれど、私は痛いと思った。実際にはそう強く力が入っているわけでもないのに、火傷をしたような痛みが走った。
「俺のことが嫌いになりましたか?」
「ちが……」
「だったら何をそんなに怖がってるんですか!」
「何も怖がってなんか!」
「嘘だ! じゃなきゃ何で、そんな怯えたみたいな顔してるんだ」
ぼろぼろとみっともなく零れる涙を木瀬くんが指先で拭おうとして、私は嫌だと顔をそらした。袖口でこすって染みたそれは、情けなくて仕方がない。また彼の前で泣くなんて。
木瀬くんを想っていることが楽しかった。想うだけなら楽しい。
でも手に入れてしまったなら。その温かさを間近で感じた後に、ぽっかりと空いた距離に私はそれまで以上の不安を感じるだろう。熱っぽい視線が徐々に冷めていく様子に気づいてしまえば、きっと立っていることすら難しい。打ちのめされて、もうダメだと思ってしまう。
いままでに恋をしたことがないわけでもないのに、なぜこうまで私は木瀬くんに縋りたがるんだろう。そんなことは一度だってなかった。出来る限り自分で立っていることを好んだし、好き勝手に入り込まれるのは嫌だと感じていたはずだった。
こんなにまで長い時間見つめた相手は初めてで、手に入れたくて仕方がないと思ったのも初めてで、終わる日を想像して恐怖に竦んだのも初めてだ。
私が木瀬くんに恋した理由を、明確にはわかっていない。ただ、あの視線が好きだと思った。振り向かせたかった。私だけの特別で、例外にしたかった。
けれど彼の視線の行く先をもう見られない場所に行く私は、「好きだ」の言葉だけを頼りにはいられないと思った。
「何でですか、理香先輩……」
何の言葉も出ない私に、繰り返し木瀬くんはそう尋ねた。その言葉は責める風にも、懇願する風にも聞こえた。
私が泣いて、泣いて、泣き続けて――その間ずっと木瀬くんは私の肩を掴んだまま、途方に暮れた顔でいた。
彼を気遣うこともできず、もう最後とばかりに甘えた私を、何でもいいからもっと罵ってくれればよかったのに。
――結局、木瀬くんは私を責めないままに、静かに部屋を出て行った。