#01 君のまなざし
何でみんな、気づかないんだろう――。
ランチプレートをつつくふりをしながら、私はいつもの視線に意識を向ける。顔を向けなくてもわかる。私はいま、右半身のすべてが敏感になっている。
私を含めて七人で座っている長テーブルの、向かい側の右奥。対角線上で一番遠い位置に座っている彼は、二年生の木瀬くん。私の後輩。
私たち七人が所属するゼミの先生が若いお嫁さんをもらったという話題で、席は盛り上がっている。私も頭の半分その会話に混ぜ込んで、ときおり相槌を打ち、軽く笑う。
でも一番に集中してしまうのは、木瀬くんの視線にだ。
彼はときどきひどく静かな存在になる。周囲から頭一つ分高い背丈や、鋭角なラインの顔立ちなんかは目立つ方だと思うのに――今みたいに、熱っぽい視線で他人をみるときには、まるで獲物を狩る直前の肉食動物みたいに気配が薄くなって、みんないつの間にか木瀬くんを意識しなくなる。
それが私は不思議でならない。
穴が開くほど、身を焦がすほど。そんな言葉が似合ってしまうこの視線に、気づかないなんて嘘みたいだ。
「ねー、理香。先生みたいにさぁ、幸せオーラ全開の人間を見ればさ、理香だって彼氏というモノに興味を持たないかね?」
私の親友みたいな存在である志織が、けたけたと小気味よく笑いながら私をつついた。
素面なのに酔っ払いみたいな志織に、苦笑いでやめてよと手を振る。
同時に、木瀬くんの視線がついに逸らされたのを感じた。
「いつ私が興味ないなんて言ったのよ」
「だっておかしいもん。理香って一部にすごく高い需要があるはずなのに、ぜんぜん彼氏作らないじゃない」
需要なんて人を商品みたいに言う志織には何の悪気もないし、私たちの会話なんてときにこういう遠慮のないものが普通だった。
お互いに思ってもいないのに「可愛い」とか「すごい」とか、そんな言葉は使わずにいれる関係を、私は志織としか作れていない。それでいい。一人いれば、それで。携帯電話に登録された無数の知人の中、志織の名前が他と比べようもないくらいに最強だということ。
「そうですよね、何でなんですか、崎本先輩。違うゼミの子も先輩のこと綺麗で落ち着いてて憧れるって言ってましたよ?」
「そういうのって高嶺の花とか言うんじゃねーの? 崎本って才色兼備っていうかさ、男がちょっと尻込みするくらい自分で何でも出来そうに見えるじゃん」
女子の後輩と、男子の先輩が本人を置き去りにして盛り上がる。
またか、と思った。
実際には、私は特別綺麗な顔をしているわけじゃないし、才女だなんて程遠い。謙遜や何かではなく、冷たそうに見える切れ長の目や、筋の通った鼻筋、薄い唇が、少し今時の可愛い女の子たちの顔立ちと遠いだけ。青いほどに色白で痩せた体つきや、なかなか異性に甘えることのできない性格と合わせて、志織は『需要』と言ったのだ。
一般に「女の子」を形作っていると思われている成分からは程遠い。
「あー、ごめんごめん。あたしが妙な話題出したからだけどさ、やめようよ。理香はねぇ、なかなか可愛い性格だし面倒見はいいし一途だし、私が男だったら惚れちゃう子なのよ。その魅力が簡単にわかっちゃたまらないわ」
その場の空気がぱっと霧散した。私が瞬間的に持ったどろりと湿った感情を、志織はさっぱりとどこかにやってしまう。こういうところは本当にかなわない。
「志織、その言い方だと最初と矛盾するんだけど」
「だってさー、理香が寂しがったりするのは嫌だけど、そこらの男に理香をとられるのは私が寂しいっていうか悔しいっていうか……。つまりは独占欲なのよ! 愛なのよ!」
「キモチワルイ」
「ひっどい。この志織様のありがたみをわかっていないな?」
「ありがた迷惑っていうの?」
「違うでしょー!」
賑やかしくて明るい志織に、私はきっといつまでも助けられる。私に足りない多くのものを補ってくれる志織に、何か返せているのかと、ときに思うほど。
少しほっとしたその緊張感の緩んだ。だというのに。
「俺、理香先輩の――」
志織の手腕ですっかり新しくされたはずの空間に紛れたその異物みたいな呟きを、私は信じられない思いで拾い取った。
ふと顔を上げれば、何か考え込むような目が私を見ている。私を見ている――木瀬くんだ。
「理香先輩の、面白い一面を知ってます」
どういえばいいのかと本人こそが手探りで紡ぐ言葉を、みんな固唾を飲んで待っていたけれど――。
「んん?」
「へ?」
「おい……大丈夫か、木瀬」
「相変わらずマイペース……」
仲間たちは呆気にとられたような飽きれたような顔で、まるで残念な失敗をした子供を見るような目で木瀬くんを見た。
当の木瀬くん本人だけが、周りがどういう空気なのかをやっぱり理解していないように見える。というより、どうであってもいいという感じ。泰然としているというべきか、ぼんやりというべきか。確かにマイペースだ。
「崎本の何が面白いんだ?」
「ああ……理香先輩って、物に“さん”って付けるんですよ。普段は言わないけど、俺このあいだ偶然聞いたんですよね。『パソコンさんを修理に出さなきゃいけないのに』ってぼやいてるの」
うっわ……。
「え、まじ? 何でそんなメルヘンなセリフ」
「先輩かわいいですね!」
「何でですか? ねぇ、何で『パソコンさん』なんですか?」
かーっと顔に血液が上ってくるのがわかる。熱い。何のいじめなんだろうか、これは。フォローになったと思っているのなら、少し違うんじゃないのと抗議したい。
「あー、それかぁ。パソコンだけじゃないよ。電子機器類はたいてい頭の中で“さん”を付けてるんだよねー。こう見えて意外と機械音痴だからなのか、苦手意識で粗雑な扱いが出来ないの。そんでもって油断すると日常会話にこぼれ出すという……。ちっ、木瀬くんってば私にならぶ理香マニアになるつもりか!」
「いや、そういうわけじゃ……」
「志織、何言ってんの!」
半ば叫んだ私に志織はニヤニヤ笑い、木瀬くんは困ったような顔をする。
わざわざこの時に放り込む必要のないネタだというのに、何を考えているんだろう。
「俺、これ友達に言っとくわ」
「いや、言わなくていいですから」
「絶対イメージアップだって。今までが悪いとかじゃねぇよ? 親しみやすさがさ」
「たしかに。想像したらちょっと可愛いなってクスッと出来ますもん」
言いたい放題なゼミ仲間たちへの反論はもう諦めざるを得ないみたいだった。
実物とはるかに乖離した人物像ももちろん戸惑うけれど、隠しておきたい部分を晒されるのはそれ以上だ。自分語りなどしないのだから、なおさら明かされる瞬間の恥ったらない。
「それにしても木瀬ってよくそういうとこ聞いてんのな」
「だねー」
私の内面に起こした嵐なんか気づきもしないで、周囲の人間が感心するように頷く中を、木瀬くんは常と変らない表情でいた。
お開きになった昼食。
空になったランチプレートを返却口に戻して食堂を出るとき、ちょうど前をのそりのそりと歩いていた木瀬くんに一瞬並んで、彼にだけ聞こえるよう言葉を紡ぐ。
「駄目だよ」
予想よりずっと低い、かすれたような声が出た。
不思議そうに見下ろしてくる木瀬くんの顔が、あどけなく見える。
何か計算で物事を言ったり、受け取ったりするのが得意そうには見えなくて。そんな純朴そうなところを、気に入ってはいるけれど。
「――駄目だよ。勘違いされるから」
もう一度繰り返して、私は木瀬くんを追い抜いた。
先を歩く志織に追いついて、そのまま立ち止まってしまった気配の木瀬くんを振り返ることもなく、歩いた。