第二章 【5】
レッドは王宮内に入ると、真っ直ぐウォルトの執務室へと向かった。ウォルトは一日の午後を執務時間に充てているため、この時間は大半が執務室にいる。
レッドは執務室の前まで来ると扉を叩き、中のウォルトに声を掛けた。
「レッド・エストールです。危急の要件があります」
「入れ」
レッドは中からの返事を確認すると、すぐに部屋へと入った。中には都合よく執務中のウォルト以外は誰もいなかった。
「どうした?」
執務机にいたウォルトは執務の手を休め、視線を机の上からレッドへと移した。
「先ほど、べルドラス帝国に派遣していた諜報部隊からの報告がありました。それによると、帝国の外征軍に不穏な動きがあるとのことです」
「不穏な動き?詳しく話せ」
ウォルトはレッドの言葉に怪訝な表情を返した。
「報告によると、一月程前から帝都ベルドに招集されていた外征軍が南下し、ダルリアとの国境方面に向かっているとのことです。状況が変わらなければ十日から十五日程でダルリアとの国境に到達します」
レッドは簡潔に現在の状況を報告した。それを聞いていたウォルトは、右肘を付きその手で眉間を押さえた。帝国の外征軍が動いたことは、国境を接する隣国の王として、楽観視できることでは
ない。
「帝国の目的は判明しているのか?」
「いえ、現在調査中です」
「帝国はここしばらく他国への侵攻を行っていない。お前の考えは?」
「なんとも言えません。帝国は過去にも演習目的で国境付近に軍を展開したことがあります。ただ、…」
「ただ、なんだ?」
「はい、外征軍の動員数が過去に前例の無い規模です」
「どのくらいだ?」
「正確の数字ではありませんが、三万から四万とのことです」
「四万っ!!帝国が南方展開している外征軍のほぼ全軍ではないか!!」
帝国軍は主に二つの軍に分かれている。一つは隣国との国境の防衛を主任務とする国境警備
軍、そしてもう一つは他国への侵攻を主任務とする外征軍である。
それぞれの規模は、国境警備軍十万、外征軍が南北に各四万、総勢十八万を誇る。また、それ以外に国王直属の親衛隊と、要人暗殺などを主任務とする暗殺部隊がいると言われている。
国境警備軍の数が膨大だが、帝国は国土が広大であり他国と接する国境線も長大であるため、過大というほどではない。
「帝国がそのまま侵攻してくれば、北方師団だけでは防ぎきるのは困難か」
ダルリア王国騎士団は帝国からの侵攻に備え、帝国との国境警備を主任務としている北方師団には他の方面師団に比べて倍の人員を配置している。しかし、それでも二万程である。
「おそらく。ですが……」
「先に動けば侵攻の口実を与えることになりかねない……か?」
「はい」
「確かに、それが帝国の狙いなのかもしれんな……。わかった、後はこちらで引き取ろう。お前は引き続き情報収集にあたってくれ」
「はっ、承知しました。失礼します」
国土防衛は近衛騎士団ではなく王国騎士団の責務である。レッドにはこれ以上深入りをする権限はなかった。
レッドが部屋を出た後にウォルトは侍従を呼ぶための呼び鈴を鳴らすと、程なく侍従が執務室に入ってきた。
「お呼びでしょうか?」
「ルークを呼んでくれ。それと三日後に緊急の元老会議を開く。元老達に連絡しておいてくれ。三日で来れない者たちには通信球を用意させよ」
「かしこまりました」
侍従は一礼すると部屋を出た。ルークとは、王国騎士団団長ルーク・バントエストである。
その日の夕方、レッドは待機部屋にいた。ウォルトはレッドからの報告の後、緊急展開師団は派遣せずにルークに状況を伝え、ルークは北方師団に警戒態勢を取らせた。ウォルトの権限だけでは北方師団を動かすことはできないが、状況を伝えればルークの王国騎士団長としての権限で警戒態勢を取ることができる。
レッドはその報告を先ほど聞き、その後は腕を組み目をつむって何かを考えていた。隣りの席ではシードが過去の帝国資料を整理している。レッドも少し前までは同じように帝国の資料を読んでいたが、今は手を止めていた。
(やはり、帝国には暗殺部隊が存在するとみるのが妥当か。我々も早めに警戒態勢と取ったほうがいいな…)
「シード、王宮の警備態勢も引き上げてくれ」
レッドは体勢を変えず、隣りの席に座るシードにだけ聞こえる声で伝えた。
「良いのですか?王宮内にはまだ事情を知らない者も大勢いるのでは?」
近衛騎士団は王国騎士団とは違い王宮内で活動している。その為、常時王宮内の文官や侍従とも接している。近衛騎士団が警戒態勢に移行すれば王宮全体に動揺が走ることになるだろう。シードはそのことを気にしているようだった。
「そうだが、だからといって帝国に暗殺部隊がいる可能性がある以上、のんびり構えているわけにはいかない。その部隊が動けばここを直接狙って来る可能性が高い。近衛には箝口令を敷いておいてくれ」
「確かに。わかりました。王宮の警備態勢を警戒段階に引き上げます」
王宮を守護する近衛騎士団の警備態勢には平時態勢、警戒態勢、有事態勢の三段階が存在し、通常は平時態勢で警備を行っている。
「ジュリアは外しますか?」
「いや、まだいい。こういう経験も必要だ。それより、諜報部隊に引き続き帝国の情報を収集し、少しでも動きがあればすぐに報告を入れるようにも伝えてくれ」
「わかりました。大公宮はどうしますか?」
「同じ態勢を取らせる。それは俺の方から伝えよう。シードは王宮の態勢を整えておいてくれ」
「わかりました」
レッドはシードの返事を確認すると、大公宮への連絡のために通信室へと向かった。
通信室とは、遠く離れた場所と会話するために設けられている部屋であり、待機部屋からは少し離れているが、同じく王宮の一階にある。部屋の内部の床には魔法陣が刻まれており、その要所には魔石が埋め込まれている。そして、その中心には実際に通信を行うための通信球と呼ばれる水晶球が、石で作られた台座の上に置かれている。これと同じ設備がダルリア国内の主要な都市及び王国騎士団の各砦に設置してあり、この魔法陣による陣魔法によって遠隔地との会話を行うことができる。
レッドは、魔石の光を感知するために薄暗くなっている通信室に入ると中に常時待機している通信官に声を掛けた。普段通信球を使用する際は前もって通信官に連絡がいくが、今回はレッドが唐突に入ってきたため通信官は少し驚いたような顔をしていた。
「大公宮と繋いでくれ。それと、繋いだら少しの間席を外してくれるか」
「は、はい。少々お待ち下さい」
通信官はそう言うと床に描かれた魔法陣に手をかざし、『意味のある言葉』を唱え始めた。すると、魔法陣の要所に埋め込まれた魔石が言葉に呼応するように外側から内側へ順に青白く光り始めた。そして魔法陣にある魔石が全て輝くと最後に魔法陣の中央にある通信球が光を放ち、通信球より声が聞こえてきた。
≪大公宮です。接続を確認しました≫
くぐもった声ではあるが、言葉を聞き取るには問題はない。通信官は接続を見届けると部屋をた。
「近衛騎士団長、レッド・エストールだ。至急、副団長と話がしたい」
≪これは、レッド様。了解しました。ボスト様をお連れします。少々お待ち下さい≫
「わかった」
レッドがそう言うと、通信球の接続は一度切られた。
(便利なものだな)
使い慣れているとはいえ、魔力を持たず魔法を使えないレッドはたびたびそう感じていた。しばらくすると先ほどとは逆に魔法陣の内側から外側に向かって魔石が光り始め、最後に中央の通信球が光ると声が聞こえてきた。
<<ボスト・バンテス、参りました。>>
「ボスト殿、先に人払いを頼む」
「はっ、少々お待ち下さい」
通信球からボストが大公宮側の通信官に外に出るように伝えている声がかすかに聞こえてきた。レッドは通信球から聞こえてくる声と音で向こうの通信官が外に出たのを確認すると、レッドの方から声を掛けた。
「ボスト殿、至急の通達がある。既に伝え聞いているかもしれないが、帝国軍がダルリアとの国境付近に向けて軍を進めている。目的は未だ不明だが、近衛として警備態勢の段階を引き上げることにする」
<<帝国軍が?侵攻して来る気配があるのですか?>>
「まだわからない。通常の演習の可能性もある。ただ、規模が三万から四万と大きい。侵攻する意思があるとすると帝国の暗殺部隊が動かないとも限らな
い。近々元老会議が開かれるかもしれんが、移動の際も十二分に注意してくれ」
<<なるほど、わかりました。大公宮の警備態勢を急ぎ引き上げます>>
「ああ、よろしく頼む。以上だ」
<<了解しました。では、失礼します>>
そう言うと通信球の接続は切られた。レッドは外で待っていた通信官を呼び、礼をいうとそのまま通信室を出ていった。