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五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く  作者: 生サーモン


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9/20

【第9話】トーキー革命

 1927年の一月は、フロリダの男の顔が消えないまま明けた。

 51歳の工場労働者。マイアミの沼地に退職金28,000ドルを突っ込み、ブローカーの机の縁を握って泣いた男。名前はハロルド。年末にモーの事務所で紹介された時、握手の指がひどく冷たかった。あの冷たさが、正月の松の内が過ぎても、レオの掌の中に残っていた。


(あと三年で、この何百倍もの規模のものが来る)


 机の抽斗から、去年の暮れに畳んで入れた紙束を取り出す。ペン先が、年末の締めの数字を追う。年末は27,235ドルで閉じていた。年が明けて、加減はほとんどない。じりじりと積み上げるだけの月に、フロリダの余熱で株式に流れ込んだ金が、市場の底を厚くしている。


 ————————————————

  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1927年1月


  【資産】

   チェース銀行預金  $10,200

   株式ポートフォリオ $18,400(時価)

   音楽事業(版権38曲、設備、在庫)

   月間余剰キャッシュフロー $650/月


  【負債】

   なし


  【純金融資産】

   $28,600

 ————————————————


 紙の下の欄外に、二行だけ書き足した。


   ※金利、下向きの匂い。マージン、まだ膨らむ。

   ※フロリダの熱が、株の窓辺に移った。窓は割れていない。まだ。


 鉛筆を置いて、電話を取った。モーの事務所を呼び出す。呼び出し音の間、指先が受話器の目盛の縁をなぞっていた。前世で、上司の内線を呼ぶ時にやっていた癖だった。


「フロリダの崩れは、株には来ていないな」


「来ていない」モーの声はいつもの乾いた響きだった。「ブローカーズ・ローンの残高が伸びている。フロリダで焦げた資金の、逃げ場が株になっている。『不動産はダメだったが、株は違う』。そう自分に言い聞かせる客が、机の向こうに何人も座った」


(燃料が動いただけだ。燃える場所が変わっただけで、火種は消えていない)


「金利は」


「連銀のストロングが下げる方向で動いている。ヨーロッパの金本位を支えるためだ。ストロング一人でアメリカ中の金利を決めているようなもんさ。あの男の胸三寸で、こっちの店の混み具合が決まる」


「下がれば、借りるコストが下がる。マージンで買うのが安くなる。もっと借りて、もっと買う」


「その通りだ。教科書のいちばん退屈な段落を、市場が一字一句そのまま読み上げてる」


(1927年の金利引き下げ。大恐慌の遠因。ストロングは確か、来年か再来年に消える。正確な月は覚えていない。だが彼が居なくなった後、連銀は遅れて引き締めに転じる。遅れた薬は、毒になる)


 受話器を置いた。窓の外、一月のマンハッタン。灰色の空の下を、外套の襟を立てた人々が笑って歩いていた。誰もまだ知らない。あるいは、知っていても、笑って歩くしかない。



 二月。


 余剰資金から、GEを三十株、AT&Tを十株、追加で拾った。指先で銘柄の欄を埋める作業は、前世でエクセルの行を足す作業と、感触がよく似ていた。手はもう震えない。震えていたら、この額の売買はできない。


 音楽事業の伸びが、投資に回せる原資を確保している。ラジオ局からの入金、レース・レコードのロイヤリティ、映画館へのBGMセット卸し。四本の柱のうち、三本が春先から少しずつ太くなっていた。四本目、映画音楽の柱を、これから立てる。


 モーの事務所の椅子で、レオは何気ない口ぶりで訊いた。


「映画関係で、動きのある銘柄はあるか」


 モーが書類の山から顔を上げた。眼鏡の下の目が、獲物の匂いを嗅ぐ時の光をしていた。


「映画? ワーナー・ブラザーズだな。去年の秋、ヴァイタフォンって音声付きの実験装置を披露した。試写会に何人か招かれたが、音と絵がろくに合わない。業界じゃ『玩具だ』と笑われている」


 レオの指が、椅子の肘掛けの縁を軽く撫でた。


(1927年10月。ジャズがどうとかいう題名の映画で、無声映画の時代が終わる。月まで覚えているのは、たぶん、教科書の脚注を一度だけ本気で読んだからだ。日付までは覚えていない。だが秋であることは、確信がある)


「今の株価は」


「八ドル前後。パラマウントの二十分の一もない、玩具箱みたいな会社だ」


「百株で頼む」


「百株?」モーの眉が上がった。「八百二十五ドル。ワーナーだぞ。なぜだ」


「映画に音が乗る日は、必ず来る。ワーナーは最初に走り出した会社だ。最初に走った奴が一番になるとは限らない。だが最初に走った奴の株は、まだ安い」


(正確な株価の推移までは覚えていない。上がると信じて持つ。それでいい。方角だけを頼りに渡る、これがこの時代のやり方だ)


 モーはしばらくレオの顔を見ていた。何も訊かず、注文票にペン先を落とした。数字を書く音は、乾いた紙の上で、一秒ほど続いた。


「ワーナー・ブラザーズ 100株 $8.25」


 ポートフォリオの一番下に、細い一行が加わった。



 三月。


 映画音楽。無声映画のBGMセット『Movie Moods』は、二年前から少しずつ映画館に売り込んでいた商品だった。ピアニスト向けの譜面束。一セット二ドル。安いが、量は捌ける。ただし、この商品は死ぬ。映画に音声が焼き付けられれば、映画館の隅のアップライトはいずれ物置に運ばれる。


 その代わりに、映画そのものの側で、音楽が要る。制作段階で発注される映画音楽。ハリウッドが、まだそう呼ばれる前のその産業を、レオは静かに待っていた。


 事務所に、クリフを呼んだ。


「映画のための曲を書きたい」


「映画? もう出してるだろう、BGM集を」


「あれとは違う。音の焼き付いた映画のための曲だ」


 クリフは椅子の背に体を預け、コーヒーカップの縁を人差し指で叩いた。三月のマンハッタンの、まだ埃っぽくない風が、窓の隙間から二人の間を通り抜けた。


「音が焼き付く映画」


「一年以内に本格的なトーキーが出る。それが当たれば、他の映画会社は追随する。トーキーになれば、映画館のピアノは不要になる。だが制作の側で、シーンごとに合わせた楽曲が要る。今までの相場は一セット二ドルだ。映画会社が制作の一部として買う楽曲は、一曲七十五から百五十ドル、当たれば五百まで行く。桁が違う」


 クリフはコーヒーを一口飲んで、カップを机に置いた。


「業界は懐疑的だ。ヴァイタフォンは玩具だと笑ってる」


「笑うのは今のうちだけだ」


「なぜ言い切れる」


 通りの向かいに、映画館の看板が見えた。「無声。ピアノ伴奏付き」。夕方になれば、あの中でピアニストがスクリーンに合わせて鍵盤を叩く。その仕事が、あと一年で消える。


「これは技術の話じゃない。経済の話だ。客が音のある映画に金を落とす。落とせば映画館は設備を入れる。設備を入れるためには借金をする。借金をした映画館は、翌週から音のある映画を上映しなければ回収できない。音のある映画を作る会社は、追いつかない需要の中で音楽を発注する。連鎖だ。技術の完成度が上がるのを待つのは、投資家じゃない。設備業者だ」


 クリフの目が、しばらくレオの顔にとどまった。


「お前は、いつからそういう言い方をするようになった」


「モーの事務所に、椅子が一つ用意されてからだ」


 クリフが低く笑った。カップの縁を、また指で叩いた。


「わかった。何を書けばいい」


「シーンで分ける。追跡。恋愛。喜劇。サスペンス。ラスト。五種類、二曲ずつ。十曲。ただし譜面じゃない。録音を前提にする。電気録音のマイクの前で仕上げて、フィルムに焼き付けられる形を想定する。半年で仕上げる」


「半年。まだ映画は喋ってもいないのにな」


「喋ってから走り出したら、遅い」


 クリフはコーヒーを飲み干した。カップの底に、乾いた輪ができた。


「それで、俺の取り分は」


「録音は共同。版権は六対四でお前が四だ。今までの共作と同じ条件で回す。売れなくても、俺は損切りしない」


「損切りしない、か」クリフの口の端に、微かな笑いがのぼった。「お前が『損切りしない』と言う時は、たぶん、売れる算段の八割まで見えている時だ」


「八割まで見えていても、二割は外れる。だから、俺は自分の側で先に払うと決めている」


 クリフはうなずかなかった。ただ立ち上がり、上着のポケットからトランペットのミュートを取り出して、机の縁に置いた。話は続きだ、という意思表示だった。



 三月から四月にかけて、二人はスタジオに籠もった。


 最初に手をつけたのは追跡シーン用の曲だった。レオが左手でオスティナート、同じ低音の型を繰り返し叩き、右手で短い旋律を切り込んでいく。Dマイナー。BPMは140で置いた。等間隔の鼓動。四小節ごとに一段ずつ調を上げる。


 三回通しで弾いた後、クリフがトランペットを膝に下ろした。


「テンポが等分すぎる」


「揺らすか」


「揺らすんじゃない。曲の中で、心臓が一度、止まる場所を作れ」


 クリフがトランペットを構え直した。フレーズの頭を、意識的に半拍だけ遅らせて吹く。その半拍の遅れの中に、路地の角を曲がる直前の、走者が壁に肩をぶつける音が入っていた。同じ旋律のはずなのに、映像が見えた。


「……それだ」


「映画の音楽は、画面の中の人間の心臓の音だ。等間隔じゃない。恐怖で速くなる。角を曲がる瞬間に止まる。止まった後の一拍で、音が息を吸い直す」


 レオは楽譜にクリフのフレージングを写した。ルバートの指示を細かく書き込む。譜面だけでは伝わらない類の指示だった。だから録音で残す。譜面で売るのが楽譜出版の商売なら、録音で売るのが映画音楽の商売だ。売る「物」の形が、根本から変わる。


(前世のDAWの画面で、トラックの一つに『心拍』とラベルをつけて、ベロシティを一音ずつ手で書き直していた作業と、指の中身は同じだ。道具が違うだけだ)


 電気録音のマイクを、二人の距離を測りながら配置した。レオのピアノを一本、クリフのトランペットを一本。恋愛シーン用のスローバラードを録音した夜、テイクの二本目を終えたクリフが、譜面台に載せた楽譜をしばらく黙って見ていた。


「どうした」


「……映画の音楽なんて、添え物だと思ってた」クリフが、静かに言った。「だがこうやって弾いてみると、曲が場面を作る。音が先にあって、映像は後からついてくる」


「映画音楽が添え物じゃなくなる時代が、これから来る」


「来る、と言った奴の後ろについていくのは、悪くない」


 スタジオの隅で、コーヒーサイフォンの弱火が青く揺れていた。四月の夜のマンハッタンは、まだ冬の匂いを引きずっていた。二人は椅子の上で、しばらく黙ってその音を聞いていた。



 五月十五日。日曜日の午前。


 教会帰りの家族連れがまばらに歩く二十八番街を、レオは事務所へ向かって歩いていた。乾いた朝の光が、建物の壁を白く抜いていた。


 事務所のビルまで、あと半ブロック。


 路地の角から、男が出てきた。


 フランク・マッシモ。


 仕立てのいいグレーのダブル。靴は黒のコードバン。爪先が、朝の光を鏡のように弾いていた。偶然を装うのが上手い男だ。だが偶然ではないことを、レオはすでに一度知っていた。二年前の秋、事務所を訪ねてきた時と、身体の構え方が同じだった。


「レオ。いい天気だな」


「マッシモさん。おひさしぶりです」


 マッシモが笑った。二年前の秋にレオに見せた、値踏みの笑いだった。ただ目の温度が、あの時より半分に落ちていた。


「散歩がてらだ。お前の事務所は、この辺だったな」


「上がっていってください。ちょうどコーヒーを淹れるところです」


「いや。ここでいい」


 マッシモが路地の壁にもたれ、上着の内側から煙草を取り出した。銀のケース。爪でひとつ弾いて、慣れた手つきで火をつける。白い煙が、日曜の朝の空気に、まっすぐ立ち上って消えた。


「お前のところは、ずいぶん景気がいいらしいな」


「まあ、なんとか」


「レコードが売れてる。ラジオで流れてる。映画のほうにも手を伸ばし始めたそうじゃないか」


(どこから聞いた——聞く必要もない。ティン・パン・アレーは狭い。楽譜が一枚売れれば、その代金が右から左へ流れる時に、必ず誰かの掌を通る。掌の記憶は、酒場に運ばれる)


「準備の段階です。まだ形にはなっていません」


「謙遜するな」マッシモが煙を細く吐いた。「俺の耳に入ってる数字は、月に千二百ドルを超える。二十九の若造にしちゃ、大したもんだ」


 月収の額だった。しかも、ここ二ヶ月の平均に近い額だった。誰が漏らしたか、を考えるのは無駄だった。楽譜屋、印刷屋、酒場のピアノ弾き、ラジオ局の会計係。どこで漏れても不思議はない。


「マッシモさん。今日は、何のご用ですか」


 マッシモが煙草の灰を、路地の反対側の縁石に落とした。丁寧な、几帳面な仕草だった。


「前に話しただろう。同郷の人間は助け合うものだ、と」


「覚えています」


「お前は去年、帳簿を通す話を断った。規模が小さい、税務局に目をつけられる、と言った」


「断った、とは言っていません。今は難しい、と申し上げました」


「そうだったな」マッシモが微笑んだ。「『今は難しい』。器用な断り方だ。あれから半年経った。お前の会社は大きくなった。もう『今は』とは言えないだろう」


 レオは答えなかった。答える言葉を選ぶ時間が、路地の日陰に少しだけ延びた。


「帳簿の話は、もういい。あれはお前の言う通り、面倒が多い。代わりに、簡単な話をしよう」


 マッシモが煙草を路上に落とし、コードバンの爪先で、丁寧に踏み消した。潰し方に、癖があった。踏んだ後、爪先で一度、灰を路地の縁に寄せる。他人の路地でも、自分の店の前のように振る舞う癖だった。


「月に百ドル。保険料だと思ってくれ」


「保険料」


「そうだ。この街で商売をするなら、保険は要るだろう。火事、盗み、窓ガラスが割れる、従業員が夜道で足を挫く。月に百は安いもんだ」


 みかじめ料。


 去年の秋は、帳簿を通せ、という複雑な話だった。あの時、レオは「税務局が」と返した。あの一語が引き金を引いた。マッシモは撤退したのではなく、簡単な形に組み直しただけだった。ひと月に百ドル。断りにくい額。断りにくい理由。


(月に百ドル、年に千二百ドル。今の月間余剰の一割強。払える。だが、一度払えば、来月は百五十になる。半年後には二百になる。一年後には五百になる。マフィアのみかじめには天井がない。天井は、払う側が「もう出せない」と口にした時にだけ、初めて見える。その時には、もう払わない選択肢は残っていない)


「マッシモさん。少し、考えさせてください」


「また、それか」


 マッシモの声の音程が、半音落ちた。五月の朝の空気の温度が、その半音分だけ下がった。


「レオ。俺はお前が好きだ。頭が回る。指も回る。だが、この街で俺の申し出を三度断った人間を、俺は知らない。三度目はないと思ってくれ」


 喉の奥が乾いた。乾いたことに自分で気づいて、乾かないふりで喉を鳴らした。


「一週間。一週間だけ、考えさせてください」


「一週間」


「事業の月次締めが、今週の水曜です。毎月そこで支出の帳尻を合わせています。百ドルという枠を、他のどの支出と入れ替えるかは、経理と相談しないと即答できません。三度目にしたくないのは、私の方です」


 マッシモがしばらく、レオの目を見ていた。


「経理」マッシモが言った。「あの眼鏡のユダヤの女か。ルーとかいう」


 レオは答えなかった。答えなかったことが、答えだった。マッシモの情報網の目盛が、また一つ、レオの中で更新された。


「一週間だ」マッシモが煙草の銀ケースを内ポケットに戻した。「来週の日曜、サルの従兄弟のトニーを、事務所に寄越す。トニーに百ドル渡してくれ。それが答えだ。渡さなかった時の答えの形は、俺は言わない」


 マッシモが背を向けて、路地を出て行った。コードバンの靴が石畳を叩く音は、行きと同じ間隔だった。振り返らなかった。


 レオは路地に一人残された。


 五月の朝の光が、さっきと同じ白さで壁を照らしていた。教会帰りの家族連れが笑いながら通り過ぎた。世界は何も変わっていなかった。ただ、レオの胸の底で、一つ、氷の芯のようなものが生まれていた。


(一週間で、何ができる)



 事務所の鍵を閉めて、デスクの前に座った。帳簿を開いた。数字を眺めた。数字は、こういう時、何も答えない。


(払えば、当面は死なない。だが終わりはない。来月は二百、半年後には五百。マッシモの要求には天井がない。金額だけの話じゃない。やがて、帳簿を通せと言い始める。ラジオ局のリストを見せろと言い始める。ワーナーの契約書に、うちの名前を刷り込めと言い始める。モレッティ・ミュージックの看板が、マッシモの出先の看板になる。看板が変われば、コロムビアもラジオ局も、みんな引く。事業は、その時に死ぬ)


(払わない選択は、もっと早い。サルの父の八百屋がリトル・イタリーにある。マッシモの手下が店の前に一週間立つ。それだけで、あの店は死ぬ。サルの家族が死ぬわけじゃない。だが、店が死ねば、サルは俺の隣にいられない)


(暴力では勝てない。金だけでも勝てない。だが——)


 帳簿の上に両手を置いた。ちょうど掌の下に、去年からの月ごとの合計欄が並んでいた。数字の背中に、前世で叩き込まれた思考の癖が、静かに動き出した。


(カポネは、何で捕まる)


 前世の記憶が、断片で答えた。


(脱税だ。確か、弾丸でも密造酒でもなく、帳簿の不整合で有罪になったはずだ。年までは覚えていない。だが確実に覚えているのは、あのアル・カポネが、鉛の玉ではなく、数字に殺されたということだ)


 マフィアを倒す方法は、暴力ではない。数字だ。帳簿だ。


(マッシモにも同じ弱点がある。スピークイージーの売上。密造酒の仕入れ。みかじめの徴収。全部現金だが、どこかに記録がある。人間は、金の流れを紙に書かずにはいられない。書かなければ、部下の裏切りを防げないからだ。書けば、書いた紙が、いつか漏れる)


(一週間で、そこまでは手が届かない。今週の日曜には、トニーが取りに来る。百ドルを渡す。渡しながら、道を作る。時間を買う。それが、今週の仕事だ)


(負けじゃない。時間を買う。買った時間で、帳簿を武器に変える)


 その夜、モーに電話した。株の定期報告を装って、話の最後の三分だけ、方向を変えた。


「モー。新聞で、シカゴのカポネに対する連邦の動きが載っていた」


「載っていた」モーの声はいつも通りだった。「あの男の年収は六千万ドルとも言われている。税金を、一ペニーも払ってない。さすがに、連邦も無視できなくなってきた」


「殺人でも密造酒でもなく、税金で追い詰められるのか」


「理論上はな。マフィアは現金商売だ。銀行口座もない、正規の帳簿もない。だが逆に言えば、帳簿さえ出てくれば、一撃だ。証拠を掴むのが難しいだけで、法の網目は張ってある」


「その帳簿は、どこから出てくる」


「たいていは、内側だ。連中の中で不満を抱えた人間が、一人、線を越える。連邦の検察は、その一人を待っている」


「なるほど」


 電話を切った。受話器を戻す指が、心臓の鼓動より、ほんの少しだけ、速かった。


(内側の人間。トニー。サルの従兄弟のトニー。マッシモの帳簿を握っている、若い経理係)


 まだ動けない。まだ、遠い。だが、方角は書けた。二十九年の秋、と同じで、方角だけを頼りに渡る類の話だった。



 翌日の朝、サルが事務所に来た。目の下に薄く隈があった。


「レオ。マッシモが来たのか」


「来た」


「何を言われた」


「月に百ドル。保険料だと」


 サルの顔が、一瞬、灰色になった。事務所の窓から入る光が、その顔の色を、余計に灰色に見せた。


「……くそ」サルが小さく言った。「トニーから、匂わせる話は聞いてた。だが直接お前に、とは思わなかった」


「路地で待ち伏せだ。日曜の朝にな」


 サルが拳を握って、指の関節を、机の縁で軽く鳴らした。


「断れないのか、レオ」


「断ったら、お前の親父さんの店の前に、マッシモの手下が立つ」


 サルが息を止めた。息を止めたことに自分で気づいて、無理に吐いた。息の音の中に、リトル・イタリーの路地の湿った石畳の匂いが、混じった気がした。


「……親父は、関係ないだろう」


「関係ないさ。だがマッシモには関係がある。サル。来週の日曜、トニーが取りに来る。百ドルを渡す。異論はないな」


「異論はない。だが、来月は二百になるんじゃないのか」


「たぶん、なる。それでも今月は百で始まる。始まってから、考える」


「何を考える」


「マッシモの弱点だ」


 サルが眉を寄せた。


「弱点。マッシモに、そんなもんがあるのか」


「ある」レオは、静かに言った。「誰にでもある。ただ、見えている場所が違うだけだ」


 サルはしばらく、レオの顔を見ていた。それから、椅子の背にゆっくり体を預けた。


「……お前が『ある』と言う時は、たいてい、俺の頭では見えていない場所だ。俺は、お前の目を信じるしかない」


「今回も外さない」


(外せない。外したら、俺だけの首の話じゃない)



 翌週の日曜。


 トニー・ファルコーネが、事務所に来た。


 サルの従兄弟。二十八歳。安物のスーツ。ポマードで撫でつけた髪。目つきはサルに似ていたが、目の奥の疲れの色は、サルの目の中には無い色だった。仕事の疲れではなく、何かに叱られ続けた人間の目の色だった。


「レオ。……久しぶりだ」


「トニー。座ってくれ。コーヒー、淹れる」


 湯を沸かした。トニーの前に、ソーサーに載せたカップを置いた。ルーが去年、事務所に置いた挽き方だった。細く挽くと、酸味の角が丸くなる。安い豆でも、それなりに飲める味になる。


「百ドルだ」


 レオは封筒をテーブルに置いた。トニーが封筒を取り、中を確かめた。二十ドル札が五枚。トニーの指の動きは、慣れていた。数える時の指の動かし方が、この一年で染みついた動きだった。


「月に一度、月の最初の日曜に、俺が取りに来る」


「わかった。急ぐか」


「……いや、別に」


「なら、座ってろ。コーヒーが冷める」


 トニーが座り直した。カップを両手で包んだ。指が細くて、白かった。帳簿を書く手だった。


 二人で、しばらく黙ってコーヒーを飲んだ。事務所の窓の外を、日曜の遅い午前の光が、通りに斜めに差していた。


「……サルは、元気か」


「元気だ。営業で走り回ってる」


「あいつは、ガキの頃から走り回ってた」トニーの目元が、一瞬、緩んだ。「マルベリー・ストリートの路地を、ばあさんに『こら』と怒鳴られながら、走ってた」


(この男は、マッシモの下にいたくているわけじゃない。金がなかった。頭は悪くない。だが選択肢が、マッシモからの誘い一つしか、この街には残っていなかった)


 レオは、湯を注ぎ足した。急がなかった。


「トニー。帳簿の仕事は、大変か」


「……まあな」


「マッシモは、いい雇い主か」


 トニーのカップを持つ指が、一瞬、白く力んだ。それから、ゆっくり緩んだ。


「仕事だよ。いいも悪いもない」


(今日はここまでだ。この一言で十分だ。もし本当に「いい雇い主だ」と即答していたら、この道は閉じていた。閉じなかった。ならば、開いている)


「また来月な、トニー」


「ああ」


 トニーが出て行った。ドアが閉まった。閉まった後、レオはしばらく、閉まったドアの木目を見ていた。父の遺したコートを掛けたフックの、隣の位置だった。


 デスクの帳簿を開いた。支出欄に一行、書き加えた。


   「雑費」 $100


(嘘の記帳だ。この帳簿の中で、これだけが、俺の書いた嘘だ。この嘘を、いつか、俺の手で終わらせる。終わらせるまで、この行は、俺の背中の後ろで冷たいままだ)



 八月二十三日。


 その日の夕刊は、一面に、こう刷ってあった。


   「サッコとヴァンゼッティ、処刑」


 新聞を持つ手の、親指の側だけが、震えた。他の指は震えなかった。


 ニコラ・サッコと、バルトロメオ・ヴァンゼッティ。一九二〇年に強盗殺人の容疑で逮捕され、翌年に有罪判決。それから六年、控訴と再審請求と、国際的な抗議運動。今夜、マサチューセッツ州チャールズタウン刑務所の電気椅子で、二人は殺された。


(七年。世界中が抗議をした七年間、この国は、殺すために時間を使った)


 記事は、ヴァンゼッティの、あの言葉を引用していた。


  「もし、これらのことが無かったならば、私は街角で、蔑まれる人々に語りかけながら、生涯を終えていただろう……」


 無名で死ぬはずだった靴屋と、魚売り。二人の名は、無実の証拠と共に歴史に刻まれた。


 裁判長は、法廷で、イタリア系移民のことを「卑しい人種」と呼んだと伝えられていた。陪審員は十二人ともアングロサクソン系だった。証拠は不十分だった。判決だけが、揃っていた。


(前世なら、教科書の脚注だった。試験の問題の中に、二人の名前が二行で出て、二行で答えて、それで終わった。今、この身体でこの記事を読むと、脚注ではない。二行では終わらない。この身体が、脚注の側の顔をしているからだ)


 新聞を畳んだ。畳んだ手つきは、いつもと変わらなかった。表情を変えなかった。表情を変えても、この記事の中の二人は戻ってこない。それを、レオナルド・モレッティで生きた七年で、身体は覚えていた。


 その夜、レオは事務所に一人で残った。灯りを一つだけつけて、机の前に座った。父の遺したコートの襟の、白い糸で刺した「C.M.」の二文字を、しばらく指で撫でた。糸の結び目の砂粒ほどの高さが、指の腹に、いつもと同じ形で残った。


(親父。この国は、俺と同じ顔の男を、七年かけて殺した。あんたは、あんたの店を、堅気の意地で守り抜いた。俺は、あんたと違うやり方で生きる。だが、生き延びる、という一点だけは、同じにする)



 翌日の夜、クリフとスピークイージーの隅で、安物のジンを飲んだ。


「レオ。サッコとヴァンゼッティの件、聞いたか」


「聞いた」


「七年だぜ、七年」クリフの声はいつもより低かった。「フランスの知識人までが署名した。何十万人がデモをした。それでもこの国は、二人を殺した」


「殺した」


「お前は、どう思う」


 レオはグラスの縁を、指の腹でなぞった。透明な酒の中で、裸電球の光が、ゆっくり揺れていた。


「クリフ。俺は今、月に百ドルを、マフィアに払ってる」


 クリフがゆっくり、レオの顔に目を向けた。目の光は、責める色でも、驚く色でもなかった。ただ、静かに聞く色だった。


「……マフィアか」


「フランク・マッシモ。リトル・イタリーで顔の利く男だ。この街でイタリア人が商売をすれば、あの手の男は必ず来る。警察に行くか? 行けない。イタリア人が警察に行けば、サッコとヴァンゼッティと同じ目で見られる。犯罪者か、犯罪者の仲間か。どちらにしても、公の目には人間として見えない」


 クリフは何も言わずに、ジンを口に運んだ。


「クリフ。黒人は、もっとひどい目に遭ってる」


「比べるな」クリフが静かに言った。声を上げなかった。だから、余計にはっきり聞こえた。「苦しみを比べるな。イタリア人が七年で殺されたことと、俺たちが毎週日曜にリンチで吊されていることは、別の話だ。だが同じ根から出てる」


「同じ根」


「この国が、白いプロテスタント以外の人間を、人間の勘定に入れないという根だ」


 二人は、しばらく黙ってジンを飲んだ。安物のジンは、喉に触れる時にだけ焼けた。腹の底に落ちると、少しだけ甘かった。


 胃に落ちた熱が、怒りと混ざって、胸の底に静かに溜まった。溜まった熱の中から、二つの決意が、順番に浮かんだ。


 一つ。金を稼ぐ。金があれば、裁判官の目は少しだけ公平になる。陪審員の耳は少しだけ慎重になる。差別は消えない。しかし、金は盾になる。


 もう一つ。マッシモに払う百ドルを、いつか、こちらの手で止める。イタリア人がイタリア人を食い物にする構造を、この身体の指と、この頭に残った数字の記憶で、壊す。


(それが、俺にできる、この夜の、ただ一つの抗議だ)



 翌週。


 投資家の集まりで、パーカーに会った。


 パーカーは、この年、一段と羽振りがよかった。仕立ての良いタキシード、鏡のような靴、内ポケットから覗く、金の煙草ケース。ラジオ株で二倍にしたと、周囲に自慢したがっている顔つきだった。


 レオは、意図的に、話題を振った。


「パーカーさん。サッコとヴァンゼッティの処刑について、いかがお考えですか」


 パーカーはシャンパングラスに口をつけて、一拍だけ、間を置いた。


「当然の判決だよ」


 腹の底で、何か冷たいものが、位置を変えた。


「当然、ですか」


「殺人犯は電気椅子に座る。それが法だ。彼らがイタリア人であることは関係ない」パーカーが軽く肩をすくめた。「むしろ、彼らがアナーキストであったことは、情状酌量の余地を狭める要素だろう。社会秩序を脅かす者は、相応の場所に落とされる」


「証拠の不十分さは」


「裁判所が判断した。我々が口を挟むところではない。モレッティ、君がイタリア系であることは知っている。感情的になるのは、まあ、理解できる。だが法は法だ」


 法は法。


 裁判長は法廷で「卑しい人種」と口に出した。陪審員は十二人ともアングロサクソン系だった。しかしそれは、法ではなく、法を運用する人間だった。パーカーはその区別に、興味がなかった。区別する必要のない側に立っている、と信じていた。


(この男は、自分の靴の光り方を、法の公平さの証拠だと思っている。俺の靴の泥を、法の不公平の証拠だとは思わない。理由は簡単だ。この男の靴は、他人が磨いているからだ)


「パーカーさん。RCAは、いかがですか」


 話題を変えた。パーカーの目の光が、瞬時に切り替わった。金の話になった途端、この男の身体は生き生きした。


「絶好調だ。八十ドルを超えた。去年の倍だ。ラジオはアメリカの未来そのものだ。RCAはGEとウェスティングハウスの背中がある。NBCのネットワーク放送も動き出した。天井は、まだ先だ」


「マージンは」


「証拠金二割。レバレッジ五倍で回してる」


(レバレッジ五倍。RCAが八十から六十四に落ちれば、追証。だが、今は落ちない。八十から、確か、五百前後まで、上がる。パーカーは大儲けをする。ピークで売れない。その後で、ほぼ全額が消える。この男の口ぶりの伸びは、下り坂の急さと同じ角度になる)


「大胆な戦略ですね」


「大胆ではない。合理だ。RCAはアメリカの未来そのものだと言ったろう」


 レオはシャンパンの中の細かい泡を、しばらく見ていた。それから、薄く、微笑んだ。


「そうですね。法は法だ、と先ほど、おっしゃいました。市場も、法のようなものですね。誰にでも等しく、適用される」


「その通りだ」パーカーが満足そうにグラスを掲げた。


(「当然の判決」——覚えておきます。法は、等しく適用される。あなたが二年後、レバレッジの清算で口座を吹き飛ばされる日にも、同じことを言うのかどうか。俺には関係のない話です。ただ、覚えておきます)



 九月。


 クリフとの映画音楽のデモは、十曲のうち八曲まで、録音が済んでいた。残り二曲は、十月の初めに仕上がる予定だった。


 同じ週に、新聞広告が出た。


   『ジャズ・シンガー』

   出演 アル・ジョルスン

   ヴァイタフォンによる音声付き

   十月六日 ワーナーズ・シアター


 広告のインクの黒の中で、「音声付き」の四文字だけが、少しだけ、他の活字より太かった。印刷所が、その四文字だけを、意図して太い活字で組んだのだった。


 レオは新聞をデスクの上に広げたまま、しばらく動かなかった。


(あと一ヶ月。映画に音が乗る一夜まで、あと一ヶ月)


 ルーを呼んで、指示した。


「ルー。ワーナーの配給部門に接触を頼む。映画音楽の楽曲提供の、提案書を出す」


「ワーナーに? まだジャズ・シンガーは公開もされてないわ」


「公開されてから接触したら、遅い。提案書は、明日の朝、配給部門の机の上に届いていてほしい」


「成功するかどうか、まだ誰にも分からないでしょう」


「成功する」


「なぜ、そう言えるの」


「ジョルスンが画面の中で歌う。今のアメリカで、あの歌手より客を集められる歌手はいない。彼が画面で歌えば、客は劇場を埋める。埋まれば、映画館は設備投資をする。次のトーキーが必要になる。次の音楽が必要になる。その次の音楽の候補に、うちの十曲を、来週までに置いておく」


 ルーが眼鏡の縁を、指で押し上げた。


「あなたと仕事してると、私の心臓の耐用年数が、目に見えて減っていくのを感じる」


「悪いな」


「心配してないでしょう」


「心配してる。お前がいなくなったら、この帳簿は俺の頭では回らない」


「……その心配の対象は、私? 帳簿?」


「両方だ」


 ルーが呆れた顔をした。呆れた顔の口元は、少しだけ笑っていた。



 十月六日。ブロードウェイ、ワーナーズ・シアター。


 初日の夜。


 劇場は満席だった。ジョルスンの人気と、「画面が喋る」という噂と、その両方が、席を最後の一つまで埋めていた。ビロードの座席は既に体温で湿り、香水と煙草の残り香とポマードの匂いが、暗闇の中で層を作っていた。


 レオは、隣にルーとサル、その隣にクリフを置いて座った。四人分の外套の重みで、椅子の背が少しだけ後ろに傾いだ。


 映画が始まった。


 最初は、通常の無声映画と、大差はなかった。字幕。伴奏の音。ただしピアノの生演奏ではなく、フィルムに焼き付いた音だった。ヴァイタフォンの、円盤に刻まれた音。


 そして、その一瞬が来た。


 スクリーンの中で、ジョルスンが口を開いた。


「Wait a minute, wait a minute. You ain't heard nothin' yet!」


 劇場が、揺れた。


 文字通りの意味で、揺れた。客席が一斉に声を上げた。笑い声。驚きの声。拍手。隣のルーの手が、思わず口元に上がった。サルは前の席の背もたれを掴んで、身を乗り出した。クリフは、椅子の上で微動だにしなかった。映写機の白い光が、その横顔の頬の高さで、静かに動いていた。


(映画が、音を得た)


 映画が終わった時、劇場は割れんばかりの拍手に包まれた。


 外に出ると、ブロードウェイの夜の風が、外套の襟を叩いた。ネオンサインの光と、車のクラクションと、興奮した顔の人々の声が、通りの空気を熱で膨らませていた。


 最初に口を開いたのは、クリフだった。


「……映画が、変わったな」


「変わった」


「音は不完全だ。ジョルスンの声は歪んでた。円盤の同期も、あぶなかった」


「それでも、客は、金を払った」


「払った」


 ルーが眼鏡を直した。


「レオ。あなた、これを知ってたでしょう。三月から、あの十曲を書かせていた。私は、あなたの予測に、もう驚かなくなってきた」


「予測しただけだ」


「予測、ね」ルーは追い詰めるのを、途中でやめた。「……あなたの予測は、いつも、当たる」


 サルが肩をすくめた。


「レオ。ワーナーへの売り込みは、いつだ」


「明日」


「明日?」


「今夜の客の反応は、ワーナーの経営陣も見ている。明日の朝、次のトーキーの企画会議が開かれる。その机に、うちの提案書が既に載っていなければ、話は始まらない」


 サルが低く口笛を吹いた。ルーは眼鏡の下で、静かに微笑んだ。クリフは、通りの向かいの映画館の看板を、しばらく黙って見ていた。


 帰り道、サルが並んで歩きながら、声を落とした。


「レオ。今月分のマッシモの百は、トニーに渡した」


「ああ」


「トニーが、口を滑らせた」


「何を」


「マッシモが、ミッドタウンに新しい店を開く準備をしてるらしい。金がかかる。つまり、俺たちのところに来る額も、そのうち変わるかもしれない、と」


 レオは歩調を変えなかった。歩調を変えたら、この夜の高揚を、路上に取り落とすことになる。取り落としてはいけない夜だった。


「変わるだろうな」


「レオ」


「サル。俺たちは、稼ぐ側の速さで、走る。マッシモの側の速さで、走らない。稼がなければ、百も二百も払えない。稼ぐ額を、あの男の想定より、常に一段、上に置く。それだけだ」


 二正面。金を稼ぎながら、暴力から身を守る。トーキーの音楽で事業を伸ばし、同時に、マッシモの帳簿の一端を、いつか手にする。片方だけでは、たぶん、間に合わない。



 十一月。


 ワーナーとの交渉は、こちらの想定より速く動いた。


 ジャズ・シンガーは全米で当たった。客が押し寄せ、ワーナーの週次の売上が、他社の月次を追い抜いた。パラマウント、MGM、ユニバーサル、FOX。各社が慌てて、設備投資と楽曲仕入れの発表を打ち出した。市場は、この一ヶ月で、丸ごと形を変え始めていた。


 ワーナーの音楽部門の責任者、アーロン・コーエンから、連絡が来た。事務所の応接に通された時、コーエンは机の上のデモ盤を、指の腹で、静かに撫でていた。


「モレッティ。この十曲のデモを、俺は水曜からずっと聴いている。うちの社内で作ったものより、音質がいい。電気録音の経験は、いつからだ」


「二年前からです」


「二年前? 二年前に、電気録音で映画音楽を仕込んでいた出版社が、いたのか」


「うちだけです、たぶん」


 コーエンは、低く笑った。笑い方に、業界の疲れが混じっていた。


「変わってるな、お前は」


「もう一つ、変わっていることを」レオは、続けた。「モレッティ・ミュージックは、ワーナーの株主でもあります。百株。ヴァイタフォンの発表の直後に買いました」


 コーエンが、煙草を持ちかけて、火をつける手を、途中で止めた。


「株主か」


「規模は小さい。だが、御社の未来に、一年前に、お札を張ってあったということです」


 コーエンは、しばらくレオの顔を見ていた。それから、火をつけて、煙をゆっくり吐いた。


「変な奴だが、嫌いじゃない。次のトーキー映画二本、お前の楽曲を使わせろ」


 交渉は、机の上で、その日のうちに大枠が決まった。


   使用料 一曲七十五から百五十ドル(尺と重要度による)

   版権  モレッティ・ミュージックが保持

   クレジット エンドロールに「Music by Moretti Music Publishing」


 単価は、BGM集の四十倍から百倍。しかし本当の意味は、単価ではなかった。映画に楽曲が乗れば、全米の劇場で何百万の耳が、その旋律を聞く。ASCAPの演奏権料が、そこに乗ってくる。映画館での上映は「公衆の演奏」に該当する。使用料、知名度、演奏権料。一つの契約から、三筋の水が流れる。


(映画音楽で伸ばした事業の重みで、マッシモの百ドルの下に、まず、地盤を置く。地盤の下で、いつか、マッシモの帳簿の一端に、手を伸ばす。両方だ。片方だけでは、間に合わない)



 十二月。


 DJIAは、年末に向けて、また速度を上げた。年初の157から、200を超えた。二割八分の伸び。街の窓の内側で、シャンパンが例年より二本多く抜かれていた。


 年末のポートフォリオを、机の上に並べた。


   AT&T 43株 @$174(取得平均$152)

   GE  175株 @$56(取得平均$42)

   GM  50株 @$170(取得平均$145)

   ワーナー 100株 @$18(取得$8.25)


   時価 $22,952

   マージン借入 $7,800

   純資産 $15,152


 ワーナーの一行が、八ドル二十五セントから十八ドルに跳ねていた。ジャズ・シンガーの余波が、翌月の株価の欄に、正確に映っていた。まだ序の口だった。


 年末の帳簿を締めた。


 ————————————————

  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1927年12月末


  【収入の柱】

   楽曲版権   $450-550/月

   録音関連   $600-700/月

   ASCAP    $400-500/月

   映画音楽   $200-350/月(契約開始直後)

   月間合計   $1,650-2,100


  【支出】

   事務所経費・人件費等 $700-900/月

   マッシモへの支払い  $100/月

   月間余剰  $650-1,100


  【資産】

   チェース銀行預金  $12,300

   株式ポートフォリオ $15,152(純資産)

   音楽事業(版権42曲、設備、在庫)


  【負債】

   マージン借入 $7,800


  【推定総資産】

   約$80,000(音楽事業の推定価値含む)

 ————————————————


 年初の$40,000から、倍。四本柱の三本目までが、確かに回り始めていた。四本目、映画音楽の柱は、今月から立ち上がった。


 だが同じ帳簿の、支出の欄の中に、一年で八行、$100×8ヶ月=$800の「雑費」が並んでいた。マッシモへの、嘘の記帳だった。この八行だけが、レオナルド・モレッティの一年の帳簿の中で、彼の書いた嘘だった。



 大晦日。


 モーの事務所で、年末の酒を飲んだ。


「一九二七年は、悪くない年だった」モーがグラスを掲げた。「DJIAは二割八分。お前のポートフォリオも、悪くない」


「悪くない。だが、来年はもっと上がるだろう」


「上がる」モーは、静かに言った。「ストロングの金利は、当面下向きだ。全員が買っている。全員が儲けている」


 レオの背筋を、フロリダの秋の風が、一瞬、通り抜けた。全員が儲けている時は、天井が近い。天井が近い、と誰も言わない時は、もっと近い。


「モー。一つ聞いていいか」


「何だ」


「RCAは、今、いくらだ」


「八十前後だ。去年の倍だな。パーカーは四十で仕込んだ。倍になっている」


「追加しているか」


「追加どころか」モーがグラスを揺らして氷を鳴らした。「先週のパーティでも自慢話をしていた。『レバレッジ五倍が、プロの投資というものだ』とな。八十が六十四に落ちれば追証だ、と俺は言った。あの男は、そんなことは起きないと信じてる」


(八十から、確か五百まで上がる。パーカーは、ピークで手放せない。売り抜けられない性格を、あの靴の光り方が、全部語っている)


 レオは、ウイスキーの氷を、指で回した。


「モー。お前は、RCAを持ってるか」


「少しだけ。五十株。ラジオは成長産業だ。持っておいて、悪くない」


「……そうだな」


 モーの手の中で、懐中時計が、蛍光灯の光を弾いた。銀の蓋が、モーの掌の熱で、少しだけ曇っていた。あの時計は、モーの父がドイツから船で持ち込んだ、たった一つの財産だった。この男は来年、再来年、その時計の重みで、自分を市場に縛り続けるのだろうか。「数字は嘘をつかない」。モーが繰り返す言葉の意味が、レオの喉の奥で、少しだけ苦く感じた。


 ウイスキーを一口、飲んだ。喉が焼けた。焼ける前より、腹の底が、ほんの少し、冷えた。


「モー。もう一つ、聞いていいか」


「なんだ」


「マフィアの帳簿を持ち出す人間の身の守り方だ。実際に、そうした人間の話を、この街で聞いたか」


 モーがグラスを机に置いた。ゆっくりと、レオの顔を、正面から見た。


「……また、『知人の話』か」


「知人の話だ」


「守る方法は、一つしかない」モーは、静かに答えた。「連邦の検察に行くんだ。帳簿を渡して、司法取引を組む。制度の名前はまだ無いが、検察側が証人の安全を保証する慣行はある。名前を変えて、街を出る。実際に、そうして生き延びた男を一人だけ、知っている」


「その男は、生きているか」


「生きている。名前を変えて、シカゴを離れた。故郷には二度と帰れない。だが、生きている」


 レオはグラスの中の氷を、しばらく見ていた。氷が、グラスの縁で、小さく音を立てて、動いた。


(帳簿を持ち出して、連邦の検察に渡す。トニー。この街の路地の奥に、その道は続いている。まだ、遠い。だが、方角は書けた)


 窓の外で、タイムズ・スクエアの方角から、新年のカウントダウンの声が、風に乗って届いていた。歓声が、いくつも重なって、一つの海のような音になっていた。


 1928年が、来る。


 トーキーの音楽が、映画の商売の一部として、動き出す。株式市場は、ストロングの金利の下で、もう一段、加速する。事業の四本柱が、初めて、四本とも同時に回る年になる。全ての柱の下に、1929年の秋への時計が、静かに動いていた。


 そしてもう一つの時計。マッシモの百が、二百に、五百に、上がっていく時計。その針が動き切る前に、こちらの側の針を、先に動かさなければならない。


 新年の花火が、ウォール街の窓から見える夜空に、赤と白の光を散らした。火薬の匂いが、風に乗って、事務所の窓の隙間まで、届いた。


(音が、映画館を支配する。マッシモの帳簿の一端が、いつか、俺の手に届く。二つの戦線を、同時に走る。片方だけでは、たぶん、間に合わない)


 1928年。


 あと二十一ヶ月。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。 本作の世界観や物語をお楽しみいただけましたら、ページ下部より評価やブックマークをいただけますと、今後の執筆の大きな支えとなります。 次回もよろしくお願いいたします。

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