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五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く  作者: 生サーモン


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15/20

【第15話】暗黒の火曜日

 1929年10月29日。火曜日。


 朝5時。天井を見ていた。

 鉄パイプのベッドの軋みは、パーク・アベニューの家具に慣れた身体でも同じ音で返る。裸電球はもうない。天井のシャンデリアの磨り硝子が、東の窓から届く灰色の光を弱く受けていた。手を持ち上げた。震えていなかった。昨日、月曜日の12.8パーセントの下げを一日中椅子の上で受け止めた身体は、震える閾値を一段上げていた。


(9年、と数えかけて、間違えた。9年半だ。この身体で目覚めたのが1920年の1月。あれから、10月末までの半端な月を、日ごと積んだ数だ)


 起きて、湯を沸かした。冷たいラジエーターが、遅れて蒸気を吐いた。剃刀を当てる時、頬に一度だけ切ってしまった。血が浮かぶまでの半拍を、鏡の中で見ていた。

 シャツの糊が首の後ろで擦れた。カフスを留め、ネクタイの結び目を二度直した。父の遺したコートに袖を通す。裏地の縫い目に「C.M.」の白い糸が今日も指の腹に触れた。指を止めなかった。今日はそれをする日ではない。





 二十八番街ではなく、パーク・アベニューの朝の通りに出た。

 空気は、いつもの十月と匂いが違った。排気ガスと石炭の煤と、その下に、汗の匂いがあった。冷えているのに汗をかいている男たちの匂いだ。地下鉄の入り口へ吸い込まれていく背中の、肩の張り方が普段と違う。誰も話をしていない。信号を待つ短い時間、革靴の底が石畳を打つ音だけが、道の両側から重なった。

 角のニューススタンドで朝刊を買った。銀貨を渡す時、少年の指が冷たかった。


 「市場に不安。銀行家グループの追加介入に期待」


 まだ「期待」と書いている。木曜日に買い支えた銀行家プールが、月曜の急落で自分たちの含み損を抱え込んだ話は、記事の五段目に、活字を一段落とした形で並んでいた。救い手が濡れている。今日、誰も助けには来ない。

 新聞を四つに畳んでコートの内側に押し込んだ。折り目の間で、活字のインクが指に一滴分だけ染みた。





 事務所は8時。

 ルーが先に来ていた。手にはコロムビアの契約書と、パールの録音日程の綴りがある。顔が強張っていた。頬の血の気が薄い。


「レオ。昨日のことは聞いたわ。12パーセント下がったって。クリフから電話があった。ハーレムでも話題になっているって」


「ハーレムでも株をやっている人間がいるのか」


「いるわよ。クリフの知り合いのドラマーが、コットン・クラブの給料を全額RCAに入れていたらしい。昨日で全部なくなったって」


 靴磨きの少年、楽団のドラマー、タクシーの運転手。誰もが同じ紙に自分の名前を書いた。今日、その紙が、名前の順番のまま焼ける。


「ルー。今日は事務所にいてくれ。何があっても、音楽事業の仕事を止めるな。コロムビアの契約書。クリフのレコーディング日程。パールの月次の分配計算。それが今日の俺たちの仕事だ」


「分かったわ」


 ルーが書類を抱えて奥へ向かいかけ、扉の枠に手を置いて、振り返った。


「レオ」


「何だ」


「あなたが正しかったのね。全ポジションを清算して、空売りに回って。私、去年の秋からあなたを疑っていた。ごめんなさい」


「疑うのはCFOとして当然だ。謝るな」


「……秋に何が起きるか、あなたはやっぱり知っていたのね」


 ルーの手が扉の枠を離れた。答えを待つ間、手は宙に残された。


「信用買いの残高が膨らみすぎていた。実体の何倍もの金が市場に流れ込んでいた。あれは持たない」


「それは分かるわ。バブルの一般論としては。でもあなたは、天井の時期まで読んでいた。信用残高だけでは、そこまでは説明できない」


(ルーの数字の目は、俺の言葉の隙間に十セント硬貨一枚落とすように、乖離を拾う)


「秋が終わったら、ゆっくり聞かせてもらうわ。CFOとして」


 ルーが奥に消えた。書類を置く音が、廊下の突き当たりで一度、鈍く聞こえた。





 9時半。電話が鳴った。

 受話器の向こうのモーの声は、昨夜の別人だった。低く、乾いて、抑揚を削いだ声。


「レオ。寄り付き前の板を見た」


「どうだ」


「終わりだ」


「終わり?」


「売り注文が山だ。追証を払えないという返答が夜中から殺到した。強制決済の注文が積み上がっている。寄り付きと同時に全部が市場に出る」


「買い注文は」


「ない。ほとんどない。売りたい人間は百万人いるが、買いたい人間は一人もいない。レオ、今日は取引が成立しない時間帯が来る。買い手がいなければ値がつかない」


 買い手ゼロ。市場の一番古い真実だ。誰かが買わなければ、誰も売れない。教本の欄外の一行が、今、電話線の向こうで音を立てて実現しつつあった。


「モー。俺の空売りポジションだが」


「何だ」


「決済を始める。今日から段階的に。まずRCAを500株、成り行きで買い戻す。既存1,200株と追加分60株のうち、四割を手仕舞う」


「分かった。皮肉だな。市場が崩れる日に、お前だけが買い注文を出す」


 短い沈黙の後、モーの声が別の温度に切り替わった。


「レオ。お前の友人——サルヴァトーレ・コスタンツォ。あいつは助かったぞ。八月にRCA50株を全株売却。清算済み。口座残高$8,250。マージン借入も完済している」


($8,250。元手$4,750に対して、$3,500の利益。二ヶ月前に、全部売り抜けた。土曜に少し減らしたとはいえ重いポジションを抱えたままのモーの側に、サルはいない。あいつは、俺の忠告の側に立ったまま、今日を迎えた)


「……そうか」


「土曜にあいつが俺の事務所に来て、『レオのおかげで助かった』と言ってた。俺の客の三分の一は、破産する。だがサルは助かった。それだけでも、お前の読みは、俺の30年のキャリアより正確なのかもしれない」


「モー。お前自身は大丈夫か」


 沈黙。受話器の向こうで、モーが何かを机の上に置いた音がした。金属だった。


「……俺の話は、後でする」


 声色がまた切り替わった。ブローカーの声だ。


「注文を執行する。RCA500株、買い戻し、成り行き」


 電話が切れた。





 10時。取引開始のベル。

 その音は事務所には届かない。届いたのは、ラジオの雑音の向こうで男が読み上げる、最初の一報だった。


「ニューヨーク証券取引所。ティッカーテープに遅延の兆候。処理が追いつかない模様」


 11時。ラジオの声が、乾いた紙を捲るように早口になっていく。


「取引開始から一時間で、出来高六百万株を突破。ティッカーテープの遅延は一時間半に拡大。株価は全面安。銀行家グループは、声明を、出していません」


 「声明を、出していません」の一節を、アナウンサーは一度読み間違えて言い直した。木曜日にはこの声が、銀行家プールの介入を高らかに読み上げていた。同じ声が、今、同じ組み合わせの単語を、否定形で並べていた。


 11時半。電話。


「レオ。RCA500株の買い戻し、約定した。平均$265。建値$485との差額で、1株あたり$220。500株で$110,000の確定利益」


「残りのRCA760株は」


「まだ持ってる。今のRCAは$260前後」


($110,000の確定。760株の含み益$171,000。RCAだけで$281,000。US Steel、GM、Montgomery Ward——全部合わせれば含み益は$500,000を超えている)


 紙の余白に鉛筆で書き付けた。線を引く手つきは、コンサル時代の癖から、二つの人生を挟んで、この火曜日の朝までそのまま残っている。


「モー。残りの決済は水曜と木曜に分ける。一度に決済すると、俺の買いが板を押し戻す」


「分かった。段階的にやる」


 受話器の向こうで、モーが息を吸って、止めた。何かを言いかけて、飲み込んだ音がした。


「モー。何かあるのか」


「……レオ。俺の顧客に、パーカー・インベストメント・トラストの口座がある」


「パーカーか」


「RCAを平均$490で1,500株。レバレッジ四倍。証拠金$183,000。昨日の引けで、証拠金残額$45,000。今日の寄り付きでマージン・コール。追加証拠金の通知を出したが、返答がない」


「強制決済か」


「今朝の寄り付きで。1,500株を成り行き売り。平均$265で売られた。売却代金$397,500。借入残高$547,500。差し引き、パーカーの口座はマイナス$150,000」


「マイナス」


「証券会社に$150,000の借金を負った。インベストメント・トラストの他の自己資金はゼロ。運用していた顧客の資金も全部飛んだ。パーカー個人の資産は、担保に入っていた分だけ全部押収される」


($505でRCAを買い、$265で強制決済。パーカー。あの時、俺の忠告を蹴った代わりに、お前は自分で自分の首に縄をかけた)


「モー。パーカーは、事務所にいるのか」


「いない。朝から連絡が取れない。弁護士が代理で出てくるだろう」


 電話が切れた。





 午後1時。ラジオ。


「ニューヨーク証券取引所。出来高は千万株を突破。史上最高記録を更新中」


 千万株。木曜日の午前に「異常な出来高」と呼ばれた数字が、今日の午後には既に過去の数字になっていた。歴史というのは、こうして、教本の欄外の但し書きが、日付の中心に躍り出る形で書き換えられていく。


 午後2時。電話。モーの声だった。


「レオ。パーカーが、俺の事務所に来てる」


「来たか」


「外套も着ていない。シャツのボタンが一つ外れてる。目が、焦点が合っていない。レオ、お前と話したがってる」


「俺を?」


「お前の名前を、繰り返し呼んでる。『モレッティは知っていた。モレッティに会わせろ』」


 受話器を持ち替えた。反対の手を、机の縁に軽く置いた。掌の下で、木目のわずかな盛り上がりが、指先に一つずつ数えられた。


「モー。電話をパーカーに渡してくれ」


 数秒の沈黙。受話器が渡される音。荒い呼吸が耳に届いた。


「モレッティ」


 昨日までの、少し鼻にかかった滑らかな声ではなかった。砂利が混じったような、擦り切れた声だった。


「パーカーさん」


「モレッティ。お前は、知っていたのか」


「何をですか」


「全部だ。暴落が来ることを。空売りで儲かることを。お前は、最初から知っていたのか」


(知っていた。マクロの型として、記憶の中の欄外に、うっすら残っていた。「秋。二段の底。ピークからおおむね九割落ちる」。それだけだ。10月24日と29日の、日付の並びは、教本の余白に印刷されていなかった。俺は、その方角だけを、この身体で九年半、頼りに歩いてきた)


「パーカーさん。私は音楽屋です。投資のことは、何も」


「嘘をつけ」


 声が裂けた。息継ぎの位置が、単語の途中で入った。


「お前は去年の秋に全部売った。空売りまで入れた。FRBの警告を引用して、俺にポジションを減らせと言った。俺は『靴でも磨いていろ』と言った。だがお前は、あの時、全部知っていた。なぜ教えなかった」


「教えましたよ。去年の秋に。FRBの警告を引用して、ポジションを減らせと」


 パーカーが黙った。受話器の向こうで、指がテーブルを叩く音がした。三度、間を置いて、二度。


「あなたは何と言いましたか。『靴でも磨いていろ』。そう仰いましたね」


「……」


「私の忠告を聞いていれば、傷は半分で済んだ。聞かなかったのは、あなたです」


「知っていたのか。暴落が来ることを、最初から」


(知っていた。数字は覚えていない。名前は覚えていない。パーカー・インベストメント・トラストという固有名も、教科書のどこかに載っていたかどうかは、今となっては霞んでいる。ただ、この時代のインベストメント・トラスト全般が、恐慌で連鎖倒産する。その方角は、覚えている。それだけを、今、お前に説明する義理はない)


「パーカーさん。ブローカーズ・ローンの残高と、配当利回りの乖離。どちらも公開情報です。私はそれを読んだ。あなたは読まなかった。それだけの話です」


 受話器の向こうで、パーカーの呼吸が止まった。長い沈黙が来た。冷めた蒸気のような息が、また戻ってきた。


「モレッティ」


「何ですか」


「お前は、人間じゃない」


「そうかもしれません。でもパーカーさん、人間じゃない私の忠告を聞いていれば、今日こうはなっていなかった」


 電話が切れた。ツーツー、という音が、しばらく耳の底に残った。


 受話器を置いた。窓の外を見た。秋の空は、腹の立つほど晴れていた。青い空の下で、地獄が起きていた。





 午後3時。取引終了のベル。

 ティッカーテープはまだ午後1時頃の売買を印字していた。二時間の時差の中で、市場は既に閉まっていた。


 最終値が出揃ったのは、午後8時。


 DJIA引け値、230.07ドル。前日比マイナス30.57ドル。下落率11.7パーセント。出来高は1,600万株。NYSEの史上最高記録。


(下二桁の端数まで、俺の記憶にはなかった。1割強。史上最高の出来高。方角だけは覚えていた。距離は、ティッカーが遅れて刻んだ数字が、今、俺の霞んだ輪郭を後ろから埋めていく)


 机に紙を広げた。鉛筆で、含み益と確定利益を並べていく。



  RCA 760株 × 建値$485、現在値$260:含み益 $171,000

  US Steel 1,000株 × 建値$248、現在値$174:含み益 $74,000

  GM 1,500株 × 建値$69、現在値$38:含み益 $46,500

  Montgomery Ward 500株 × 建値$128、現在値$61:含み益 $33,500

  追加RCA 60株 × 建値$415、現在値$260:含み益 $9,300


  RCA 500株(決済済):確定利益 $110,000


  含み益合計 $334,300

  確定利益 $110,000

  合計 $444,300



 鉛筆を置いた。線を引いた指の腹に、芯の油の匂いが一瞬だけ残った。


(来週以降、残ポジションを段階的に決済すれば、さらに$200,000程度が上乗せできる。市場は11月、12月と下がり続ける。空売り決済の最終合計は$700,000前後。プラス手元の現金と債券$330,000。純資産は$1,000,000を超える)


(数年先の夏、DJIAは40ドル台まで落ちるはずだ。正確な月日は覚えていない。底値で優良株を拾えば、純資産は$1,800,000近辺に届く。それが、俺が方角だけを頼りに置いた着地点だ)


 鉛筆の腹で、紙の下に線を引いた。線を引いた指の癖の残り方が、九年半前の一月の朝、二十八番街のアパートで引いた線と、同じだった。





 夜。事務所に一人残って、帳簿を閉じた。

 電話が鳴った。モーだった。声は、朝より一段擦り切れていた。


「レオ」


「モー」


「俺の顧客、半分が破産した。31人のうち15人。残りの多くも、怪我が深い」


「モー、お前自身は」


「俺自身は、何とか持ってる。お前が三月から何度も勧めてくれた現金化分が、今残ってる。懐中時計は、まだある。だがレオ、土曜に少し減らしたが焼け石に水だった。残りのポジションは全部吹っ飛んだ。現金化しておいた分だけが、俺を救った」


「どれくらい残ってる」


「$30,000ほど。全盛期の運用資産$850,000に比べれば、焼け野原だ。だがゼロじゃない」


(焼け野原。ハンブルクから船で来た男の父が、この国でモーに残した最後の切り札は、あの銀の懐中時計だ。$30,000は、事務所を半年持たせるための現金であって、モーの30年ぶんではない)


「モー。お前は、ブローカーとして続けられるか」


「……続ける。顧客は減ったが、生き残った連中は、お前みたいに慎重な投資家だ。これからは、慎重な投資家だけが生き残る時代だ」


「そうだな」


「レオ。俺は、間違えていた。お前の忠告を聞くべきだった。RCAは600に届くと信じていた。市場は嘘をつかないと。……市場は嘘をついた。あるいは、俺が市場の言葉を、聞き間違えていた」


「モー。今回の市場は、誰が読んでも狂っていた」


「……優しくしてくれるな、レオ。俺は30年のブローカーとしてのプライドを、今日失った。お前の読みは、俺の30年より正確だった。それが、悔しいより情けない」


「モー。お前の懐中時計、まだ持ってるか」


「持ってる。だがレオ、俺の状況が悪くなれば、質に入れることになるかもしれない。顧客への補償、事務所の経費、家族の生活。$30,000じゃ、半年持たない」


「モー。質屋に入れるな。俺が金を貸す。時計は、担保として俺が預かる」


 長い沈黙。


「……レオ。担保、なのか」


「担保だ。だが、質屋とは違う。質屋は数ヶ月で期限を切る。返せなければ流れる。利息もつく。俺はどちらもつけない」


「期限も、利息も、なし」


「$10,000貸す。当面の運転資金には足りるはずだ。時計は俺が預かる。いつになってもいい。お前が這い上がった時、金を返せば、時計は返す」


 受話器の向こうで、モーが何かを堪える音がした。ハンブルクの霧のような、乾いた粘りのある呼吸だった。


「レオ。ただの友人の金なら、担保は要らないだろう。なぜ担保を取る」


「担保がなければ、お前は借りを引きずる。返す当てがないまま、俺の顔が見られなくなる。だから物を挟む。金と担保の交換だ。取引の形にする。友情の話じゃない」


「……取引か」


「取引だ。ただし条件は俺が決める。期限なし。利息なし。お前が這い上がるまで、俺は待つ。親父から受け継いだ誇りを、お前自身で取り戻せ。それだけだ」


「……分かった。懐中時計は、お前に預ける。金は借りる。必ず買い戻す。親父の時計だ。俺が這い上がった時に、必ず」


「待ってる。何年でも」


 電話が切れた。





 11月初め。

 空売りポジションを、段階的に決済した。市場が反発した日に買い戻し、下がった日に一部を残す。慎重に、少しずつ。板を刺激しないように、注文を三本、四本に分けた。数年前、モーの事務所で最初に教わったやり方だ。師匠のやり方で、師匠の30年より正確な数字を、俺は積んだ。


 最終的な空売り決済益は、$1,127,350に達した。RCAの暴落が最大の収益源だった。10月末から12月にかけて、市場は下がり続け、そのたびに、俺は一枚ずつ、含み益を確定利益に変えた。





 パールから電話が来たのは、11月半ばの夜だった。


「レオ」


「パール。どうした」


「あたしのレーベル、来月の新譜を中止するって。ヴィクターから通知が来た。レコード部門を縮小するって。あたしの全国ツアーも、キャンセル」


(第一波だ。レコード産業のピークが、この火曜日の暴落と重なる形で、腰から折れる。1927年の$104Mが、この先の数年で$6Mまで縮む。パールの専属契約は、遠からず、紙のままの契約書になる)


「パール。ラジオの生放送枠は、NBCと来年の契約を結んである。レコードがダメでも、ラジオが残る」


「ラジオ、か」パールの声が沈んでいた。「レコードの方が、お金になったのにな」


「レコードは死んだ。だがラジオは残る」


「……あんたは、最初から分かってたんだろう。レコードが死ぬことを」


「ラジオの広告収入が、毎年倍になっていた。レコードの出荷は横ばい。数字が教えてくれた」


「数字、ね」


 パールが少し笑った。笑いの中に、疲労の粒が混じっていた。


「でも、あたしの声を盤から電波に変えることを、あんたは一年前から準備してた。あたしは怒っていた。でも今となっては、あんたがラジオ枠を確保していてくれて、よかった」


「パール。来月、NBCの生放送に出演してくれ。レパートリーは、俺が書いた三曲を軸にする」


「あんたの曲を、電波に乗せる」


「そうだ」


「……分かった。歌うわ。レコードの夢は消えたけど、ラジオが残ってる。あんたが一年前に選んだ道を、あたしは歩く」


 電話を切った。





 翌週、ヴィクターの倉庫に行った。パールの盤の在庫状況を、目で確かめるためだった。

 倉庫の裏手に回ると、作業員が黒い塊を台車で運んでいた。シェラック盤。売れ残りのレコードだ。ラベルが見えた。パールの名前。クリフの名前。『Midnight in Harlem』。『Harlem After Hours』。

 盤は、回収されて、シェラック原料に戻される。バケツに投げ込まれるたび、かちん、と乾いた音がした。シェラックが割れる音だった。溶解炉の匂いが、湿った鉄と甘い焦げの匂いを混ぜて、倉庫の裏手にまで届いていた。


(前世では、一度録音した音楽は、消そうとしても消えなかった。サーバー、クラウド、バックアップ。コピーがコピーを生み、世界中に分散した。だがこの時代では、原盤を失えば、その中の振動は永遠に戻らない。パールの声のあの瞬間のビブラート。クリフのトランペットの、あのテイクだけの一音。溝の中にしか存在しなかったものが、熱で溶けて、黒い液体に戻っていく)


(数字がティッカーテープから消えていくのと、同じだ。数字も音楽も、この時代では物理的に消滅する。前世の「永遠に残るデジタル」は、まだ100年先にある)


 レオは倉庫を離れた。作業員は振り返らなかった。次のバケツに、次の盤が、また、かちん、と落ちた。


(盤は溶ける。だが電波は、届いた瞬間にリスナーの記憶になる。記憶は溶けない。パールの声は、盤の溝ではなく、リスナーの記憶の中で生き続ける)





 12月中旬。

 アンジェロの店を訪ねた。

 地下室の扉を開けると、アンジェロがカウンターの中にいた。客はまばらだった。火曜日の暴落以降、街の誰もが金を使わなくなった。スピークイージーには、閑古鳥の羽音が沈んでいた。


「レオ。来てくれたか」


「アンジェロ。客が少ないな」


「ああ。火曜日の後、客が激減した。みんな金がない。株で飛んで、酒を飲む金もない」


「店は大丈夫か」


「大丈夫だ」


 アンジェロが瓶を布で拭きながら言った。布は、生地の目が使い込まれて薄くなっていた。父の仕立て屋の布を思い出させる薄さだった。


「マッシモが消えてから、みかじめ料を払わなくてよくなった。仕入れも自分でできる。客が少なくても、利益率はいい。搾り取られていた時に比べれば、今の方がずっと楽だ」


「そうか」


「レオ。俺はな、マッシモが消えてから、人生が変わった。客が減っても、俺は自分の店の主人だ。自分で酒を選び、自分で値段を決める。それが、どれほど嬉しいことか」


「分かる」


 カウンターの上に、琥珀色の液体を注いだグラスが置かれた。琥珀の底に、店の灯りが小さく畳まれて映っていた。


「飲め。今の俺の店で、一番いい酒だ」


 レオはグラスを傾けた。アルコールの刺激の奥に、麦の甘みがあった。マッシモの卸していた酒には混ぜられていた香料が、この一杯にはない。素の味だった。


「……いい酒だ」


「これから恐慌が来る。客は減る。だが俺の店は生き残る。マッシモのいない店で、自分で選んだ酒を出す。それが、俺の第二の人生だ」


 アンジェロが、瓶の口の栓を親指で戻した。指の関節が、五月に見た時より、少しだけ丸くなっていた。





 11月末の土曜日。

 サルが事務所に来た。久しぶりに、顔に緊張がなかった。


「レオ」


「サル」


「俺のRCA、全部売った金が、口座に戻ってきた。$6,075。元手の$4,750より、$1,325多い」


(モーの口座台帳では$8,250と$8,250の残高が並んでいた。マージン借入の完済分と決済のずれで、サルの手元まで戻ってきた現金は$6,075になる。数字の差は帳簿の癖だが、サルの家計にとっての実額は、この$6,075の方だ)


「そうか」


「俺、この暴落で、利益を出したんだ。信じられるか。お前が『売れ』と言って、俺が従って。その結果、利益が出た」


「お前が決めたんだ。俺の忠告を聞いて、自分で決めた」


「ああ。俺が決めた。でもレオ、お前が言わなかったら、俺は50株を持ったまま、火曜日を迎えてた。そうしたら、今頃は全額飛んでた」


(サルは、追及しない。「なぜ8月だったんだ」と、あの日から一度も聞かない。マッシモの時に、俺の判断で助かった記憶が、今日の判断への信頼の裏張りになっている。俺は、その裏張りに支えられて、この火曜日を渡った)


「サル。ロザリアと子供たちは」


「元気だ。ロザリアがな、レオ、お前を感謝祭の夕食に呼んでる。ベイ・リッジの家の頭金は消えちゃったけど、ブルックリンの借家はある。今年は感謝すべきことが多いから、腕によりをかけるって」


「考えとく」


「嘘つけ。お前はいつもそう言って来ない。ロザリアが、お前を『命の恩人』って呼んでる。恩人が来なかったら、あいつ泣くぞ」


「命の恩人、大げさだ」


「大げさじゃない。もし8月に売ってなかったら、50株抱えたまま火曜日を迎えてた。ロザリアは子供たちを連れて実家に帰ってただろう。お前が、俺たち家族を救ったんだ」


 サルの目が、湿っていた。レオは目を逸らして、机の端の鉛筆を、真っ直ぐに置き直した。


「……分かった。土曜に行く」


「そうこなくっちゃ。ロザリアが七面鳥を焼くってさ」


 サルが出ていった。ドアが閉まった後、事務所の空気に、しばらく安葉巻の匂いが残っていた。サルの父親の八百屋で、伯父たちが吸っていたのと同じ銘柄の匂いだった。





 11月末。

 月次の資産台帳を作成した。



——————————————————————

  レオナルド・モレッティ 資産台帳

  1929年11月末


  【資産】

   現金         $390,000

   銀行預金チェース $1,082,000

   米国債        $200,000

   音楽事業資産     $70,000

    (版権カタログ72曲、グランドピアノ2台、事務所設備等)

   モーへの貸付金    $10,000(担保:懐中時計預かり。期限・利息なし)


  【負債】

   なし


  【ポジション】

   株式(買い) なし

   空売り(売り) なし(全決済)

   国債 米国債 $200,000


  【確定利益】

   空売り決済益 $1,127,350(10月末〜12月段階決済、最終集計)


  【月間収入】

   ASCAP演奏権料           $1,800/月

   レコード版権料           $400/月(レコード縮小で減少)

   映画音楽契約料           $650/月

   楽譜売上(ブレナン流通分含む)   $100/月(恐慌で減少)

   ラジオ局供給料           $200/月(ラジオは好調)

   演奏料               $150/月

   米国債利子             $500/月

   合計                $3,800/月


  【月間支出】

   家賃パーク・アベニュー     $200

   食費                $50

   サル給与              $300/月

   ルー報酬              $180/月

   クリフ報酬             $160/月

   ゴールドバーグ楽譜店        $30/月

   印刷・郵送費            $30/月(縮小)

   録音スタジオ費           $50/月(セッション大幅減)

   事務費・通信費           $40/月

   雑費                $50/月(縮小)

   合計                $1,090/月


  【純資産】$1,752,000(11月末時点。12月末には$1,952,100に到達見込み)

   (現金・預金$1,482,000 + 米国債$200,000

    + 音楽事業資産$70,000 + 諸調整)

   前章比: +$1,352,000(空売り決済益反映。11月から12月にかけて段階決済)

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 鉛筆を置いた。

 九年半前、47ドル23セントを二度数え直した机の縁と、今、$1,752,000の下に線を引いた机の縁とを、指の腹が同じ動きでなぞった。


($1,800,000。方角の先に置いた、うっすらとした着地点の数字。俺の勝利)


(その勝利の隣に、敗者がいる。モーは自己資金の九割を失った。名も知らない無数の人々が、昨日と今日で全てを失った。パーカーは自業自得だが、巻き込まれた顧客には罪がない)





 帳簿を閉じた頃、奥の部屋からルーが出てきた。手帳を持っていた。革の表紙の角が擦れて、白く光っていた。


「レオ」


「ルー」


「あなたが正しかった。去年の秋に。あなたが全ポジションを清算した時、私は疑っていた。CFOとして。でも、あなたは正しかった。今、私が管理している会社の現金は、無傷だ。ASCAPの分配金は来月も入る。コロムビアの契約も守った。音楽事業は生き残る」


「ルー。ありがとう」


「ありがとうじゃないわ」


 ルーが手帳の頁を親指の腹で捲った。数字を読む目に、朝より一段深い明かりがあった。


「私はCFOとして、あなたの判断の根拠を知りたい。秋に何が起きるか、あなたは知っていた。どうやって」


「……バブルには型がある。1907年の恐慌も、フロリダの地価暴落も。膨張、乖離、崩壊。俺はその型を見ていただけだ」


「型、ね」


 ルーが手帳を閉じた。表紙の角が机の縁に軽く当たり、乾いた音がした。


「バブルの一般論としては正しいわ。でもあなたはパーカーの破産まで予見していた。銀行破綻のリスクを先読みして、資金を分散していた。レコード産業の崩壊を、一年前から見越して、ラジオに舵を切っていた。それは型の認識じゃない。もっと具体的な何かを、あなたは知っている」


(言えない。「前世の記憶で歴史を知っている」とは。ルーは有能なCFOだ。数字の裏の論理を見抜く。だが、俺の論理は、この世界の論理ではない)


「ルー。俺は——」


「言わないで」


 ルーが手を上げた。掌が、事務所の灯りを一瞬遮った。


「『今は言えない』でしょう。聞き飽きたわ」


 レオは口を閉じた。


「聞かない。もう聞かない」


 ルーの声は静かだった。責めているのではなかった。数字の頁の下に、線を引くような静かさだった。


「音楽事業の今月の売上、落ちてるわ。レコードのロイヤリティが半減。でもラジオは好調。あなたがラジオ枠を厚くしておいてくれたから。来年はラジオが柱になる」


「……そうなる」


「会社の数字は、私が守る。あなたは市場を見ていて」


 ルーが背を向けた。ドアの前で足を止めた。


「——今は、ね」


 出ていった。





 電話が鳴った。ブレナンだった。


「モレッティ君」


「ブレナンさん」


「月曜と火曜の市場、見たかね」


「見ました」


「君の指示、覚えているか。君が『月曜の朝、楽譜の在庫を確認しろ』と言った。私はその通りにした。デパートに置いてある委託在庫を、金曜のうちに引き揚げた。月曜の朝、デパートから楽譜の委託契約解除の通知が出た。私以外の楽譜出版社は、在庫を押し付けられた。返品されて、在庫の山で倒産する出版社が、この冬、続出するだろう」


「それは、ブレナンさんが指示に従ってくださったからです」


「君の指示のおかげで、私は生き残る。モレッティ君。君は、私が見てきた中で、最も慎重で、最も正確な男だ」


(25ドルの男が、俺に「最も慎重で、最も正確な男だ」と言った。この電話線の向こうに、あの葉巻の煙の匂いを、俺は今も嗅ぐ気がする)


「ブレナンさん。私はただ、運が良かっただけです」


「運だけじゃない。君は去年の秋に、全ポジションを清算した。空売りに回った。その判断を、俺に伝えなかった。だが流通網の在庫調整は、伝えてくれた。私を救うために。なぜだ」


「ブレナンさんは、俺のビジネスパートナーだからです」


 ブレナンが沈黙した。長い沈黙だった。受話器の向こうで、葉巻の灰が皿の縁に落ちる、乾いた音が一度した。


「……モレッティ君。君は、私が25ドルで君の曲を買い叩いたことを、忘れていないだろう」


「忘れていません」


「忘れていないのに、私を救ったのか」


「ビジネスパートナーだからです。25ドルのことは、恨んでいます。だが、パートナーを失えば、ビジネスも失います」


「……そうか。君は、搾取される側から、搾取しない側に回ったんだな。私が君にしたことを、君は私にしなかった」


「……」


「25ドルで買い叩いた側が、そう言わせてすまない。モレッティ君。来年の恐慌の中で、私の楽譜事業は縮小するだろう。だが君との流通契約は、守る。君のカタログは、私の流通網に乗せ続ける。それが、君に返せる唯一の礼だ」


「ありがとうございます」


「ありがとうは俺の方だ。モレッティ君。今後とも、よろしく頼む」


 電話を切った。


(25ドルの恨みは消えない。だが、恨みの隣に、別の項目が一行だけ書き足された。信頼、と書いても、まだ弱い。取引の相手として、対等になった、と書いても、まだ足りない。名前をつけないまま、その一行を、来年に持ち越す)





 12月末。

 空売りの最終決済が完了した。市場はさらに下がり、DJIAは200ドルを割った。俺の純資産は、現金・債券中心で、約$1,952,000に到達した。

 だが、これで終わりではない。数年先の夏の底値で、さらに買う。


 夜、事務所の窓の外を見た。冬のマンハッタン。通りを歩く人々の足取りは重かった。新聞は連日、破産と自殺の記事で埋まっていた。角の靴磨きの少年は、もう駅前に立っていなかった。どこかへ消えた。


(俺の勝利は、他者の絶望の上にある。モーの損失。名も知らない人々の悲劇。俺はそれを知っていて、空売りで儲けた。倫理的な重みは、消えない。ただし、パーカーに同情する気はない。警告を蹴ったのはあいつ自身だ)


(だが、俺の勝利は、友人を犠牲にした上ではない。サルは助かった。ルーは会社を守った。クリフはラジオで生き残る。パールはラジオで歌い続ける。モーは痛手だが、自殺も破産もしていない。$10,000の融資と、担保の懐中時計で、質屋への道を塞いだ。アンジェロはマッシモのいない店で、独自の酒を売っている。ブレナンは流通網を守った)


(俺の仲間は、生き残った。嵐の中で、全員が。それだけでいい)


 ピアノの蓋を開けた。

 Cmaj7。Fmaj7。Bm7(b5)。E7。Am7。

 ジャズのターンアラウンド。解決に向かう和声進行。だが最後のAm7の後に、Cmaj7に戻さなかった。Amのまま、止めた。短調のまま、鍵盤から指を離した。


(まだ、終わっていない。底値が来るまでは)


 ピアノを閉じた。

 棚の奥に、二冊の白いノートが並んでいた。今年の秋に書いた、出口戦略のノート。マッシモへの支払記録のノート。両方とも、もう役目を終えた。だが捨てなかった。あの夜の覚悟を忘れないために。





 電話が鳴った。モーだった。声は、落ち着いていた。事務所の椅子の上で、時計を見ている男の声だった。


「レオ」


「モー」


「懐中時計を、お前に預けにいく。明日、事務所に持っていく」


「分かった」


「レオ。俺は、必ず立ち直る。必ず、時計を買い戻す」


「待ってる」


「ありがとう、レオ」


「ありがとうは、いらない。友人だろう」


 モーが、長く黙った。受話器の向こうで、机の縁を指で軽く叩く音が一度した。


「……友人か。俺には、似合わない言葉だ。だがレオ、お前になら、その言葉を使わせてもらう」


「モー。ゆっくりでいい。焦るな」


「ああ。……おやすみ、レオ」


「おやすみ」


 電話を切った。





 窓の外を見た。マンハッタンの冬の夜。ビルの窓には、まだ灯りが点っていた。だがその灯りは、半年前より、明らかに少なかった。倒産した会社の窓は、まっすぐ暗かった。


(暗い窓の数だけ、人が失敗した。俺だけが、暗い窓のない側にいる。それが、知っている人間の運命だ。知っていること自体が、倫理的な重みを背負う。だが、知っている人間だけが、友人を救える)


 灯りを消した。革靴を脱いだ。ベッドに横になった。天井の染みを、しばらく見つめた。九年半前、二十八番街のアパートで見上げた漆喰の剥がれと、パーク・アベニューの天井の染みとが、暗さの奥で一度だけ重なった。


(数年先の夏、DJIAは40ドル台——底。その時に、すべてのカードを切る。それが、俺の次の勝負。恐慌の中で、俺の仲間は成長する。音楽、ラジオ、版権。それらは恐慌の中でこそ、輝く)


(パーカー。お前は俺に『靴でも磨いていろ』と言った。俺は忠告を返した。お前は蹴った。結果がこれだ。……俺は靴を磨く代わりに、$1,952,000を手にした。どちらの靴が光っているか、答えは出た)


 目を閉じた。


 1929年が終わる。1930年が来る。底値は数年先。その先に、禁酒法廃止と、ニューディールと、さらにその先の、大陸の向こう側の足音が、うっすらと控えている。方角だけを頼りに、俺は次の一歩を置く。


 そのページの間で、俺と俺の仲間は、生き残る。


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― 新着の感想 ―
ルーの叔父さんとか株に手を出していたような
底辺で搾取される期間が長かったからスッキリ!
ブレナンさんはビジネスパートナーだから手を差し伸べて貰えたが、ビジネスパートナーだけだったからこそ空売りや暴落について教えて貰えなかったの悲哀を感じるな 望外に安く買い叩かれたレオナルドの25ドルの授…
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