第十話 他国の王子はまだ妹を思っているのかもしれません
何人かの生徒は目を覚ましたが、アルデーヌ達はまだ目を覚まさない。
だから、仕方なく私は一人で次の授業に向かおうとした。
その時、遠くにセティルド様のような人影が見えた。
「……セティルド様?」
心臓が大きく跳ねた。
訓練場の隅、校舎の影に消えていく後ろ姿。
見間違えるはずがない。
「待って……!」
私は無意識に駆け出していた。
今の私は一人だ。
危険だって怒られるかも知れない。
でも、今追いかけなければ、もう二度と会えないような気がした。
校舎の裏手に回り込むと、そこは人影のない静かな中庭だった。
セティルド様は待っていたと言わんばかりに私を見た。
「不用心ですね。敵である私の元へ、護衛もつけずに来るなんて」
「……お願いです、セティルド様。ヴァニタスを抜けてください」
「嫌です」
「どうしてですか!セレーネはあなたを待っているんですよ!」
私は必死に訴えた。
セティルド様は冷たい目で私を見つめている。
「関係ない」
「関係あります!あなたの妹でしょう!」
「…………」
セティルド様は黙り込んだ。
私はその隙を逃さず、さらに言葉を続けた。
「セレーネはあなたのことを心配しています。あなたが帰ってくることを信じて、待っているんです」
私はセティルド様の目を見つめた。
その目には迷いが見えた。
「でも、私はもう戻れません」
「戻ります!まだ遅くありません!」
「遅いんだよ……。私は影を殺した。私情で国や家族を裏切った。もう、あの頃には戻れない」
セティルド様の声は絶望に満ちていた。
私は歯を食いしばった。
どうすれば彼を救えるのか。
どうすれば彼の心に届くのか。
「……セティルド様」
私は静かに口を開いた。
「あなたは、本当にセレーネのことが嫌いになったんですか?」
「……っ」
セティルド様の顔が歪んだ。
あの日、セレーネやルナリア様をわざと冷たく突き放したように見えた。
……昔のエルディーお兄様と同じような感じがしたんだ。
「あなたが影を殺したのも、家族を裏切ったのも、全てセレーネやルナリア様を守るためだったんじゃないんですか?」
「……なぜ、それを」
セティルド様はそれ以上何も言わなかった。
ただ、じっと私を見つめている。
その目には、涙が浮かんでいるように見えた。
「セレーネを悲しませないでください。あなたの家族を悲しませないでください」
「…………」
「帰って話をすればきっと大丈夫ですよ」
私はセティルド様に手を差し出した。
「理由があったんですよね?ヴァニタスに逃げたくなるような、深い理由が」
セティルド様はためらいがちに私の手を取ろうとした。
しかし、その手は黒色のツルのようなものに弾かれてしまった。
「……っ!」
「……おやおや。随分としおらしい顔をしているじゃないか、セティルド」
頭上から降ってきた、軽薄だが氷のように冷たい声。
見上げると、時計塔の屋根の上に二人の人影が立っていた。
一人は、漆黒のローブを纏い、顔の半分を銀の仮面で隠した男。
もう一人は、幼さの残る少女だ。
「ヴァニタス……!」
私は杖を構え、二人を睨みつけた。
二人は時計塔の上から飛び降りて、私の元へ来た。
「リディール・セア・メッチャツオイ。君が、太陽なら、彼は影だ。光が強ければ強いほど影は深く、濃くなる」
仮面の男が指を鳴らすと、黒いツルが彼を拘束し、ツルに電気を流す。
「ああああ……!」
「セティルド様!」
「あっははっ!可哀想〜!ボスを裏切ろうなんてバカなことを考えるから痛い目にあっちゃうんだよ〜?」
少女が無邪気に狂気を孕んだ笑顔で笑う。
彼女は手に持っている鎌を何かに刺すように、動かした。
すると、空間がガラスのようにひび割れた。
「……彼女には手を出すな……!」
セティルド様が意識を失いかけながらも、必死に声を絞り出す。
「安心して、彼女にはまだ手を出さない。君の家族にもね。でも、自由時間は終了だ。君には早く完成してもらわないといけないからね」
仮面の男が優雅に一礼した。
「リディール王女。彼を取り返したければ、王都を血で染める覚悟をしておくといいさ。……もっとも、その時彼が君を覚えているかは保証しかねるがね」
「待ちなさい!」
私が放った光の魔法は、彼らの周囲に展開された闇の障壁に虚しく弾かれた。
空間の亀裂が広がり、セティルド様を飲み込んでいく。
「セティルド様!!」
「リディール様…………妹を…………」
私の叫びも虚しく、三人の姿は闇の中へと消えていった。
「……っ、あ……」
膝から崩れ落ちる。
守れなかった。
助けられなかった。
目の前にいたのに。
ハイスペックだなんて嘘だ。
私はただ、彼の苦しみに気づくことさえできなかった、無力な子供に過ぎない。
「……リディール様!」
遠くから、アルデーヌの声が聞こえる。
ようやく目を覚ました彼らが、こちらへ駆けつけてくる足音。
でも、今の私には、彼らに向ける笑顔なんて、一欠片も残っていなかった。
「……ヴァニタス」
私は拳を血が滲むほど強く握りしめた。
ヴァニタスとの和解なんて、もういい。
セティルド様を傷つけ、操り、その心を壊そうとする全てのものを私は許さない。
「……絶対に取り戻す……!」
夕闇が完全に世界を包み込む中、私の瞳にはかつてないほど激しい怒りが宿っていた。




