第8話:住処に迫る危機
朝の冷たい風が、川面を撫でて通り過ぎる。
与一の背中を追いながら、快はふと、自分がどこに向かっているのかを考えた。干物をかじる口の中に広がる塩気とは裏腹に、空気は次第に張りつめていく。
ただの旅ではない――そんな予感だけが、確かにあった。
*
与一は、手際よく草鞋わらじを編んでいた。
出来上がったそれは、靴のような形をしていて、足首までをすっぽりと包みこむ。あとは足の甲から足首にかけて、縄でぐるぐると巻いて固定する仕組みだ。
「こんな草鞋わらじ、初めて見た! すごい!」
快が目を輝かせる。
「わしの完全オリジナルや。すごいやろ」
得意げに言いながら、与一はもう片方もあっという間に編み上げ、快に手渡した。
「はやっ! 与一ミラクル!」
「うるさい。腰ひもにこれ、ぶら下げとけ」
そう言って与一は、手早く編み上げた替えの草鞋二足を、ひょいと快に差し出した。
快は目を輝かせながら、受け取った草鞋を大事そうに腰ひもに結びつけた。
「っていうか、俺、この格好で行くの?」
快が自分の姿を見下ろして、不安げに眉を寄せる。
「うん。時間ないからな。帰りに市で着物こうたらええやろ。そろそろ寒うなる時期やしな」
「おー! 着物デビュー!」
快はどこまでも能天気だ。与一はそんな様子に苦笑しつつ、風呂敷に包まれた弁当をひとつ手渡した。
「これ、おまえの分な」
「ありがとう! って、いつの間に準備してたの?」
驚きつつも受け取った快は、風呂敷をたすき掛けにして背負い、竹筒に水を満たす。
小さな荷物と、新しい草鞋。
それだけを携えて、快の旅支度は整った。
*
洞窟を出たところで、与一は一本の竹槍たけやりを快に手渡した。
「一応、それ持っとけ」
「え、なにこれ? 杖つえ?」
「武器や。ま、普段は杖として使うたらええ」
「……ってことは、危ないとこ行くってこと?」
快の声に、わずかな緊張が混じる。
「まぁ、念のためや。この時代は戦乱の真っ只中やぞ。忘れるなよ」
「あー……そうだった……」
ここ数日、与一の洞窟で平和に暮らしていた快は、すっかり現実を忘れかけていた。
ここは――戦国時代だ。
*
河原をすいすいと下っていく与一の背中を追い、快も黙々と歩く。
昨日は重たい桶を担いでいたぶん、今日は身軽でずっと楽――のはずだった。
けれど、与一の足取りはやけに早い。思ったよりも差がつく。
快はときどき小走りになって、ようやく追いつくのだった。
「……なあ、なんでそんなに急いでるの?」
声をかけかけて、やめた。能天気な快も、なんとなく空気を感じ取り始めていた。
何かあるのだろう――それだけは、わかった。
川を小一時間ほど下ったあたりで、与一はふと立ち止まった。
土手の斜面をすばやく登り、辺りの様子をうかがうと、合図もなくそのまま街道へと出る。
快も慌ててあとを追う。
そこからは、街道脇に伸びる細い小道へと足を踏み入れた。
道の先に、木立の中に静かに佇む寺のような建物が見えてきた。苔むした石段が斜面を登るように続き、その先に、板葺きの屋根を持つ小さな本堂がぽつんと建っている。鐘楼も山門もない。周囲を囲むのは、ただ風に揺れる木々の音だけだ。
人の気配はない――けれど、時おり誰かが訪れている痕跡はあった。
戸の隙間に、小さく折られた紙が一枚、差し込まれていた。
与一はそれを無言で抜き取り、代わりに持ってきた紙をそっと差し込む。
そして踵を返し、また来た道を戻りはじめた。
何かを聞きたい気持ちはあったが、快は直感的に「今は話さない方がいい」と感じた。
黙って与一の背を追いかける。
そのあと与一は、同じようなやり方で、さらに二か所の寺を巡った。
どの寺でも、紙を一枚抜き、用意してきた紙を差し込んでから、何も言わずに立ち去る。
合計三か所。
与一は何かの伝達役なのか、それとももっと別の――
快の中に、ささやかな疑問と緊張がじわじわと広がっていく。
*
「よし、この辺でいったん休憩しようか」
河原沿い、小さな洞穴の前に差しかかったところで、ようやく与一が口を開いた。
「めっちゃ質問たまってるんだけど!」
快が身を乗り出すと、与一は手をひらりと上げて制した。
「うん、ちょっと待て」
そう言って、手の中の紙を一枚ずつ開いていく。
さきほど寺々で交換してきたものだ。
目を走らせた与一が、小さく息を漏らす。
「やっぱりな……」
「やっぱりって、何が?」
「住処すみかの周りに、不穏な奴らが出入りしとる気配があってな。何か起きてると思てたんやが――落ち武者狩りが始まっとるらしい」
「……落ち武者狩りって、何?」
「戦から逃げた大将クラスの武士を追い詰めて、見つけて、捕まえる」
与一の声に、いつになく鋭さが混じる。
「石田三成が逃げてるらしい。ってことは、この辺りうろついてるのは三成捜索部隊ちゅーところやろ。佐和山の城も、無事では済まんやろな」
「……佐和山の城って?」
「三成の本城や。このあたり一帯は、あいつの領地や。けど――これからは、戦場になる。いや、もう戦場になってるか」
「ま、考えとってもしゃーない。百聞は一見に如かずや。行くぞ」
「うん!」
快は、おやつ代わりの干物を嚙みながら、のんびりと立ち上がった。
その瞬間、すぐそばにいたはずの与一の姿が、ふっとかき消えた――いや、擬態して見えなくなっただけだと、快はもう知っている。