バルドスという国
◆
バルドス王国の将軍ラインハルト・フォン・グラオは、王都の執務室で届いたばかりの密書を見つめていた。
震える手。
血の気が引いていく顔。
『東部戦線は既に敵の手に落ちた。至急援軍を』
三日前に送ったはずの援軍三千は、どこへ消えた?
いや、知っている。
偽の命令書に従い、全く関係のない西の荒野へ向かったのだ。
誰が偽造した?
分からない。
信頼していた副官か、あるいは──
「閣下! 大変です!」
部下が血相を変えて飛び込んできた。
「財務大臣が、国庫の金を持ち逃げしたとの報せが!」
またか。
この一ヶ月で、これで何人目だ?
◆
王都の市場。
商人のヨハンは、空っぽの棚を呆然と見つめていた。
小麦粉、一袋もない。
塩も、砂糖も、香辛料も。
すべての交易路が、なぜか同時に機能不全を起こしている。
「旦那、いつになったら品物が入るんだ?」
痩せこけた女が問いかける。
彼女の腕の中の赤子は、もう三日も泣いていない。
泣く力さえ失ったのだ。
「分からない……分からないんだ」
ヨハンは頭を抱えた。
隣国アストレアとの国境は封鎖され、海路は何故か海賊が跋扈し、山道は山賊に占拠されている。
まるで、見えない手が王国の首を絞めているかのようだ。
路地裏では、飢えた者たちが残飯を巡って争っている。
つい一ヶ月前まで、バルドスは豊かな国だったはずなのに。
◆
宰相ディートリヒは、玉座の間で国王に報告していた。
「陛下、また将軍が一人、暗殺されました」
老いた国王の顔が、さらに青ざめる。
「誰だ? 今度は誰なのだ?」
「北部方面軍のシュタイン将軍です。毒殺の模様」
これで七人目。
主戦派の要人が、次々と不審な死を遂げている。
犯人は分からない。
いや、分かっているのかもしれない。
疑心暗鬼が宮廷を支配し、昨日の味方が今日の敵となる。
「陛下、このままでは──」
「分かっている! だが、どうしろというのだ!」
国王の怒鳴り声が響く。
その声には、恐怖が滲んでいた。
次は自分かもしれない。
その恐怖が、判断を誤らせる。
「アストレアとの和平を──」
「馬鹿な! 向こうが応じるはずがない!」
実際、アストレアからの返答はいつも同じだった。
『バルドス王国の内政には干渉しない』
ただそれだけ。
援助もしない。
攻撃もしない。
ただ、じっと見ている。
獲物が弱り切るのを待つ、冷酷な捕食者のように。
◆
スラム街の片隅。
かつて王国軍の誇り高き騎士だったアルベルトは、泥水をすすっていた。
部隊は解散し、給料は支払われず、家族は飢えで全滅した。
「くそっ……くそっ……」
涙も枯れた。
怒りさえ、もう湧いてこない。
ただ、なぜこうなったのか分からない。
戦争が始まったはずだった。
アストレアの辺境を攻めるはずだった。
それがいつの間にか、内輪揉めが始まり、物資が途絶え、指揮系統が崩壊し──
気がつけば、国そのものが死にかけている。
隣では、元商家の娘が春を売っている。
その向こうでは、貴族の子供が残飯を漁っている。
階級も、誇りも、すべてが無意味になった。
ただ生きるため。
それだけのために、人間が獣に堕ちていく。
◆
国境の監視塔。
哨兵のクラウスは、双眼鏡でアストレア側を観察していた。
向こうは平和そのものだ。
農民が畑を耕し、商人が行き交い、子供たちが笑っている。
まるで、こちらの地獄など存在しないかのように。
「なあ、クラウス」
同僚が話しかけてきた。
「もう、逃げないか?」
「どこへ?」
「どこでもいい。ここよりマシならな」
クラウスは答えなかった。
逃げた者の末路を知っているから。
国境警備隊に捕まれば処刑。
運よく逃げ延びても、行く当てはない。
そして何より──
「家族が、人質に取られている」
同僚は黙り込んだ。
皆、同じだ。
逃げたくても逃げられない。
戦いたくても敵が見えない。
ただ、見えない何かに締め上げられ、ゆっくりと窒息していく。
◆
王宮の秘密会議室。
生き残った重臣たちが、最後の相談をしていた。
「もはや、国家として機能していない」
「民は飢え、軍は崩壊し、経済は死んだ」
「このままでは、本当に滅びる」
誰もが分かっていた。
これは計画的な破壊だと。
アストレアの新しい辺境公爵。
ユージン・フォン・アストレア。
彼が就任してから、すべてが狂い始めた。
「奴は悪魔だ」
誰かが呟いた。
「一度も剣を交えることなく、我が国を滅ぼそうとしている」
沈黙が落ちる。
そして──誰かが言った。
「降伏しよう」
と。
◆
三日後。
バルドス王国は正式に降伏を申し出た。
条件は過酷だった。
領土の三分の一を割譲。
賠償金は国庫の十年分。
軍備の完全放棄。
だが、それでも受け入れるしかなかった。
これ以上続ければ、国民全員が餓死する。
降伏文書に署名する国王の手は老人のように震えていた。
「これで……終わりか」
窓の外では、飢えた民衆が王宮を取り囲んでいる。
パンを求める声。
正義を求める声。
だが、もう何も与えるものはない。
国庫は空。
軍は壊滅。
希望は潰えた。
ただ一つ確かなことは──
バルドス王国は、ユージン・フォン・アストレアという一人の男に、完膚なきまでに破壊されたということだった。
剣を交えることすらなく。
ただ見えない糸で操られ、内側から腐り落ちていった。