アリウスという男
◆
アリウス・フォン・アストレアは、朝の光が差し込む自室で目を覚ました。
十九歳。
王子として生まれ、王子として育った。
だが王になることなど考えたこともなかった。
その役目は生まれた時から兄のものだと決まっていたから。
身支度を整えながら、アリウスは今日の予定を思い返す。
午前は古典の講義、午後は騎士団の訓練。
そして夕方には兄との面会。
兄上。
ユージン・フォン・アストレア王太子。
アリウスにとって、兄は憧れそのものだった。
◆
「兄上、おはようございます」
執務室に入ると、ユージンは書類の山に埋もれていた。
疲労の色が濃い。
「おはよう、アリウス。少し考え事をしていただけだ」
兄の言葉に、アリウスは心配そうに眉を寄せた。
「また徹夜をされたのですか?」
「いや、そういうわけでは──」
ユージンの否定も、アリウスには言い訳に聞こえた。
兄はいつもそうだ。
自分を犠牲にしてまで国のために働く。
「兄上は本当にご立派です。いつも国のことを第一に考えていらっしゃる」
心からの賞賛。
アリウスは幼い頃から、この完璧な兄の背中を追いかけてきた。
追いつけないと分かっていても、少しでも近づきたいと願って。
「王太子としての務めだよ。お前もいずれこの重みを理解する日が来る」
「はい。兄上のような立派な人間になるため、私も日々精進します」
アリウスの言葉に嘘はない。
ただ、王太子としての重みを理解する日が来るとは思っていなかった。
その日は、思いのほか早く訪れることになる。
◆
数日後、王宮の書庫。
アリウスは珍しい古文書を探していた。
古代の治水技術について記された文献。
最近興味を持ち始めた分野だった。
「あら、アリウス殿下」
振り返ると、銀髪の美しい女性が立っていた。
エリナ・フォン・ヴァレンシュタイン。
兄の婚約者。
「エリナ嬢、こんにちは。珍しいですね、こんな場所でお会いするなんて」
「治水関係の資料を探していまして。殿下も?」
「ええ、実は最近興味を持ち始めたんです」
二人は自然と、同じ本棚の前に立った。
エリナが手にしていた資料を見て、アリウスは目を輝かせた。
「それは『デュランの治水論』ではありませんか! 探していたんです」
「まあ、殿下もこれを? でしたら、一緒に読みましょうか」
その提案に、アリウスは少し戸惑った。
兄の婚約者と二人きりで過ごすなんて。
だが、学問的な興味が勝った。
「是非お願いします」
二人は静かな読書室で、肩を並べて古文書を読み始めた。
最初はぎこちなかったが、次第に議論が白熱していく。
「この部分、河川の勾配について述べていますが──」
「ええ、でも現代の技術なら、もっと効率的な方法があるはずです」
エリナの鋭い分析に、アリウスは感嘆した。
美しいだけでなく、これほど聡明だったとは。
そして何より、自分の意見を真剣に聞いてくれる。
兄のように上から導くのではなく、対等な立場で議論してくれる。
それがアリウスには新鮮だった。
◆
それから二人は頻繁に書庫で顔を合わせるようになった。
最初は偶然だったが、次第に待ち合わせるようになり、やがてそれが日課となった。
「アリウス殿下、昨日の議論の続きですが」
「ああ、例の堤防の件ですね。実は新しい文献を見つけまして」
治水という共通の関心事を通じて、二人の距離は少しずつ縮まっていった。
ある日、エリナが思い詰めた表情で現れた。
「どうかされましたか?」
「いえ、少し疲れているだけです」
だが、アリウスには分かった。
兄との茶会の後は、いつもエリナの表情が硬い。
なぜだろう。
兄はあんなに完璧で、優しくて──
「私、治水の勉強をしていると心が安らぎます」
エリナの呟きに、アリウスは胸が締め付けられた。
この人は、何か重いものを背負っている。
「エリナ嬢」
「はい?」
「もし何かお力になれることがあれば、遠慮なく仰ってください」
エリナは一瞬驚いたような顔をし、そして優しく微笑んだ。
「ありがとうございます、殿下。でも、もう十分です。こうして一緒に勉強できるだけで」
その笑顔が、アリウスの心に深く刻まれた。
◆
季節は巡り、運命の夜が訪れた。
舞踏会の華やかな喧騒の中、アリウスは一人テラスに佇んでいた。
最近、自分の感情が分からなくなっていた。
エリナのことを考える時間が、日に日に増えている。
これは抱いてはいけない感情だ。
彼女は兄の──
「アリウス」
振り返ると、ユージンが立っていた。
「兄上」
「エリナと、辺境の治水について話してみてくれないか」
突然の頼みに、アリウスは戸惑った。
「私がですか? 兄上の方が──」
「いや、第三者としての意見が聞きたいんだ。君の専門的な知識が彼女の助けになるはずだ」
兄の瞳はいつものように優しかった。
まさか、自分の感情に気づいているはずはない。
絶対に気づかせるわけにはいかない、とアリウスは思う。
敬愛する心優しい兄を傷つけるくらいなら死んだほうがマシであった。
アリウスは頷いた。
「分かりました」
エリナがやってきた時、アリウスの心臓は早鐘を打った。
「アリウス殿下、ユージン殿下から治水の件でお話があると」
「はい、実は新しい灌漑システムについて──」
話し始めると、緊張は自然と解けていった。
いつもの書庫での時間と同じ。
ただ、今夜のエリナは一層美しく見えた。
銀の髪が月光に輝き、瞳は星のようにきらめいている。
「素晴らしいアイデアですわ、殿下」
「いえ、エリナ嬢の分析があってこそです」
二人は気づかなかった。
遠くから見守るユージンの、満足げな笑みに。
◆
それから数ヶ月。
アリウスとエリナの関係は、もはや単なる学問上の友人以上のものになっていた。
言葉にはしない。
できない。
だが、偶然手が触れ合った時の電流のような感覚。
目が合った時の、時が止まるような瞬間。
すべてが、真実を物語っていた。
ある夜、二人きりの書庫で。
「私は──」
「エリナ嬢──」
同時に口を開き、そして黙り込む。
言ってはいけない。
エリナは兄の婚約者。
自分には、この感情を抱く資格などない。
だが──
アリウスは唇を引き結び、歯を食いしばってエリナを見た。
何も言わない。
エリナもそんなアリウスを見て、やはり何も言わなかった。
始まってはいないのだ。
始まってはいけないのだ。
──私もエリナ嬢も、それが分かっている
それでいいのだ、とアリウスは思う。
◆
冬の御前会議。
辺境の緊張が高まる中、重要な会議が開かれた。
アリウスも末席に連なっていた。
そして──
「私は、この身を以て辺境を守る盾となりたく思います」
兄の言葉に、アリウスは耳を疑った。
王位継承権の放棄?
辺境公爵?
何を言っているのか、理解が追いつかない。
「兄上!」
思わず立ち上がり、叫んでいた。
なぜ?
どうして?
兄上は生まれながらの王太子で、誰よりも王に相応しい人なのに。
議場が騒然とする中、アリウスの頭は真っ白になっていた。
気がつけば、重臣たちが次々と賛同の声を上げている。
父王も、苦渋の表情で承認した。
そして──
「アリウスが、次期国王として相応しい」
その言葉が、重く圧し掛かってきた。
王?
自分が?
「待ってください、私には──」
「アリウス」
ユージンが近づいてきた。
その表情は、いつになく真剣だった。
「お前なら、きっと素晴らしい王になる。私は確信している」
「でも兄上、なぜ──」
「辺境には、私のような人間が必要なんだ。そしてこの国には、お前のような清廉な王が必要だ」
兄の手が、アリウスの肩に置かれた。
温かく、そして重い。
「頼む、アリウス。この国を、民を守ってくれ」
その瞬間、アリウスは理解した。
これは兄の、覚悟なのだと。
◆
すべてが決まった後。
アリウスは一人、王太子の執務室に座っていた。
いや、もう自分の執務室だ。
重い。
椅子が、机が、空気が、すべてが重い。
ノックの音がして、エリナが入ってきた。
「アリウス殿下──いえ、陛下」
「まだ慣れません」
アリウスは苦笑した。
「エリナ嬢も、大変な立場に」
王太子の婚約者から、国王の婚約者へ。
形式上は、そういうことになる。
エリナは静かに微笑んだ。
「私は、構いません。むしろ──」
言葉が途切れる。
だがアリウスには分かった。
むしろ、嬉しいのだと。
「エリナ嬢」
「はい」
「私は、兄上のような王にはなれません。でも、私なりの王になろうと思います。その傍らに、貴女がいてくれるなら」
エリナの瞳に、涙が浮かんだ。
「はい、喜んで」
二人は見つめ合い、そして初めて、手を取り合った。
もう隠す必要はない。
兄は──ユージンは、すべてを理解した上で、この道を選んでくれたのだから。
◆
王となって数ヶ月。
アリウスは激務に追われながらも、充実した日々を送っていた。
隣にはエリナがいる。
王妃として、そして最愛の妻として。
「陛下、辺境からの報告書です」
差し出された書類に目を通す。
兄からの報告。
隣国バルドスが、内部崩壊により戦争を放棄したという。
詳細は書かれていないが、アリウスには想像がついた。
兄は汚れ仕事を一手に引き受けてくれているのだ。
自分には決してできない方法で、国を守ってくれている。
「エリナ」
「はい」
「私は、幸せ者だ」
窓の外、平和な王都の風景が広がっている。
この平和は兄の犠牲の上に成り立っている。
アリウスは誓った。
この国を、民を、必ず守ると。
兄が信じてくれた自分を、裏切らないと。
そして──
「兄上、ありがとうございます」
遠い辺境の空に向かって、アリウスは呟いた。
いつか必ず、恩返しをする。
兄が与えてくれたこの幸せに見合うだけの、立派な王になってみせる。
清廉なる王として。
愛する人と共に。
(了)