エリナという女
◆
エリナ・フォン・ヴァレンシュタインは、鏡の前で髪飾りを整えた。
銀糸のような髪に翡翠の飾り櫛。
完璧な角度、完璧な位置。
十七歳の時から五年間、毎日同じ儀式を繰り返している。
王太子の婚約者として相応しい姿。
それ以外の自分など、とうに忘れてしまった。
「お嬢様、王太子殿下がお待ちです」
侍女の声に頷き、エリナは立ち上がる。
背筋を伸ばし、顎を適度に引き、視線は前を向いたまま三寸下を見る。
公爵令嬢としての完璧な所作。
歩きながら、エリナは微かな緊張を覚えた。
王太子ユージン・フォン・アストレア。
嫌いではない。
むしろ、その才能には敬意すら抱いている。
だが──苦手だった。
◆
茶会の間。
向かい合って座る二人の間には、磨き上げられた銀のティーセットが輝いている。
「殿下、先日の貴族議会における税制改革案へのご指摘、実に見事でございましたわ。わたくしの父も、殿下の先見の明に感服しておりました」
滑らかに言葉が流れ出る。
五年の訓練の成果だ。
「君が事前にまとめてくれた辺境諸都市の交易データがあったからこそだ。礼を言うのはこちらのほうだよ、エリナ」
ユージンの返答も完璧。
だがエリナは知っている。
ユージンの本心はそんな事どうでもいいと思っている事を。
本人でさえ意識していない無意識の仕草、口調、声色──そういったものから本音を察する。
エリナにはそれができる。
だからこそわかるのだ。
ユージンもまた、自分の本音、本心を察しているであろうことを。
「来月に控えた収穫祭の件ですが──」
エリナは努めて自然に提案を続ける。
ユージンの視線が一瞬、虚空を見た。
ああ、とエリナは思う。
彼は退屈しているのだ。
この形式的な茶会に、婚約という名の契約に、王太子という立場に。
劣等感が刺激される。
自分が優秀であるとエリナは知っている。
しかしその優秀さでも、ユージンの興味をひくことはできない。
辛いのは、その劣等感でさえも恐らくは見抜かれているであろうということ。
ユージンの事は嫌いではなかったが、それでも一緒にはいたくない相手であった。
◆
その日の夜、エリナは自室で一人、窓辺に立っていた。
王都の夜景が宝石のように煌めいている。
美しい景色。
だが彼女の心は、別の光景を映していた。
先日、王宮の書庫で出会った王子。
金髪に紫の瞳──ユージンと同じ色なのに、まるで違う輝き。
アリウス王子。
『エリナ嬢、この治水工事の記録、本当に素晴らしい分析ですね』
純粋な賞賛、真っ直ぐな眼差し。
アリウスといる時、エリナは不思議な安心感を覚える。
彼もまた優秀だ。
だが、その優秀さは分かりやすい。
努力の跡が見え、思考の過程が理解でき、何より──自分を見透かすような視線を向けてこない。
エリナは自嘲的に微笑んだ。
なんと浅ましいことか。
見透かされない相手に安心感を覚えるなんて。
だが事実として、アリウスと議論している時の方が、ユージンと完璧な茶会を演じている時より、遥かに心地良かった。
◆
季節は巡り、舞踏会の夜。
エリナは会場の片隅で、ユージンの姿を観察していた。
彼は相変わらず完璧な王太子を演じている。
その時、派手な悲鳴が響いた。
ショッキングピンクのドレスを着た女性が転倒している。
下品な色、大げさな仕草、媚を含んだ声。
エリナは眉をひそめた。
だがユージンは違った。
初めて見る表情。
本物の興味。
『大丈夫ですか、レディ』
エリナは理解した。
ユージンは、あの派手で単純そうな女性に惹かれている。
なぜだろう?
答えはすぐに浮かんだ。
単純だからだ。
見透かす必要がないほど、分かりやすい女性だから。
エリナは奇妙な納得感と、微かな寂しさを同時に感じた。
◆
それから数ヶ月後。
「あそこにいるアリウスと、辺境の治水について話してみてほしい」
書庫でのユージンの頼みに、エリナは瞬時に真意を察した。
自分とアリウスを引き合わせようとしている。
なぜ?
理由も、すぐに理解できた。
ユージンは気づいているのだ。
エリナがアリウスに好意を抱いていることに。
そして恐らく、アリウスの方も──
「私ではどうしても兄としての意見になってしまう」
嘘だ。
だが、エリナは指摘しなかった。
ユージンと議論しても勝てない。
何より、アリウスと話す口実ができたことが、正直嬉しかった。
「承知いたしました」
エリナは静かに頷いた。
その時、ユージンの口元に微かな笑みが浮かんだ。
すべてお見通し、という笑み。
エリナは内心で溜息をついた。
やはりこの人は苦手だ。
◆
アリウスとの共同作業は、エリナにとって心地良い時間だった。
「エリナ嬢のこの分析は素晴らしい。河川の流量だけでなく周辺地域の土壌の質まで考慮に入れているとは」
「いいえ、アリウス殿下の着眼点こそ──」
自然な会話、自然な笑顔。
演技ではない、本物の知的交流。
エリナは久しぶりに、自分が生きている実感を味わっていた。
ある夜、二人きりになった書庫で。
偶然手が触れ合い、見つめ合った瞬間。
エリナは自分の感情が、もはや隠せないところまで来ていることを自覚した。
「私は──」
「エリナ嬢──」
同時に口を開き、そして同時に口を噤む。
言葉にしてはいけない。
だが、もう遅い。
互いの想いは、言葉にせずとも伝わっていた。
◆
冬の夜。
ユージンに密かに呼び出されたエリナは、何が起こるか予感していた。
人払いされた部屋。
暖炉の炎だけが、二人を照らしている。
「単刀直入に言おう、エリナ。私は王位を継ぐつもりはない」
やはり、とエリナは思った。
ユージンほどの人物が、王位という枷に縛られ続けるはずがない。
「そして君も私との婚約を──この空虚な婚約を心の底から望んでいるわけではあるまい」
エリナは表情を変えなかった。
だが内心では、またしても見透かされたという諦念があった。
「……何を仰りたいのですか」
「君も、この退屈な茶番には飽いているだろう?」
ユージンの言葉は正確だった。
いつも正確だ。
だからこそ、苦手なのだ。
「次の王に最も相応しいのはアリウスだ」
その名前が出た瞬間、エリナは理解した。
すべては計算されていた。
自分とアリウスが惹かれ合うことも、織り込み済みだったのだ。
「君も本当はそう思っているのではないか?」
長い沈黙。
エリナは苦笑した。
結局、最後まで掌の上で踊らされていたのだ。
だが、それでも構わない。
結果として、望む未来が手に入るのなら。
「……協力していただけますか、殿下」
「もちろんだ。利害は一致している」
「アリウス様は、あなた様よりも扱いやすいでしょうから」
エリナは皮肉を込めて言った。
本音でもあった。
ユージンのような、すべてを見透かす人物と生涯を共にするなど、息が詰まる。
ユージンが笑った。
「君は本当に賢い。だから、苦手だったんだろう?」
図星だった。
エリナは初めて、素直に頷いた。
「ええ。殿下は優秀すぎます。一緒にいると、息が詰まりそうでした」
「同感だ」
ユージンも率直だった。
「君のような優秀な女性と毎日顔を合わせるのは、正直疲れる。もっと単純な相手の方が、私には合っている」
二人は顔を見合わせ、そして同時に笑った。
初めての、心からの笑い。
皮肉なことに、別れを決めた瞬間に、初めて本音で語り合えたのだった。
◆
御前会議の日。
エリナは父と共に議場にいた。
ユージンが王位継承権を放棄し、辺境公爵になると宣言した瞬間。
議場は騒然となった。
だがエリナは驚かなかった。
すべては計画通りだったから。
「王太子殿下のご決意、見事である!」
父が立ち上がり、賛同の声を上げる。
事前にエリナが説得しておいた結果だった。
他の有力貴族たちも次々と賛同する。
すべてエリナが根回しした成果。
アリウスの顔は蒼白だった。
突然背負わされた王冠の重みに戸惑っている。
エリナは心が痛んだ。
だが、これが最善の道なのだ。
アリウスならきっと素晴らしい王になる。
そして自分は、彼を支える王妃として生きていく。
ユージンと視線が合った。
一瞬だけ、共犯者同士の理解が流れる。
そして二度と、交わることのない別れ。
◆
すべてが終わった後。
新たな国王となったアリウスの隣に立ちながら、エリナは時折、辺境へ去った義兄を思い出す。
ユージン・フォン・アストレア。
最後まで、すべてを見透かしていた男。
苦手だった。
今でも苦手だ。
だが嫌いではなかった。
むしろある種の敬意を抱いている。
「エリナ、また治水の件で相談があるんだ」
アリウスの声に、エリナは微笑んだ。
「はい、陛下。いつでもお力になります」
時折届く、辺境からの報告書。
隣国を謀略で崩壊させたという知らせを読む度、エリナは複雑な気持ちになる。
あれがユージンの本性。
王都にいた頃はまだ抑制されていたのだろう。
エリナは思う。
もし自分がもう少し単純な女だったら。
もしユージンがもう少し凡庸な男だったら。
二人の関係は違った形になっていたかもしれない。
だが、それは詮無いことだ。
今の形がきっと最善なのだろう。
エリナは愛する夫の傍らで、心からの笑顔を浮かべる。
(了)