第百四十三話 オークアビス
ザッザッザッ。
規則正しい軍靴の足音が乾いた荒野に響き渡る。
彼らが一歩足を進めるごとに、祭りの太鼓の様に俺の心臓に音が直接伝わってくる。
乾いた荒野に僅かに生えた草を丸太のような足で踏み締め、一糸乱れぬ統率された動きで着実に前へ進む姿はさながら軍隊のようだ。
「全く……つくづくお前らとは縁があるな……」
目の前で一糸乱れぬ更新を続ける軍隊。人間では到底到達出来ない隆々とした筋肉を全身に纏い、その上にさらに堅そうな真っ黒い鎧で覆い隠している。
鎧と同じ黒い兜の内から放たれる鋭い眼光はかつて俺が倒した同種の魔物とは全くの別物だった。
オークアビス。
真っ黒な鎧に真っ黒な肌、しかしその眼光だけは怪しく黄色に光っており、見るもの全て黙らせる圧倒的な迫力がそこにはあった。
数は多くない。精々100匹前後。数だけを見ればゴブリンアビスの半分以下。しかし、圧力は10倍。
一体一体が20層のオークジェネラル程度だったゴブリンアビスと違って、彼等からはキマイラにも劣らない圧力を感じる。
「やっぱ怖ぇなぁ……」
思わずそんな言葉が出た。
疲労からなのか、恐怖からなのか、手の震えが止まらない。
それでも逃げようなどと言う考えは全く浮かんでこない。
オークアビスの足の速度は決して速くない。Fクラスの生徒達ですら全力で走れば彼らより早い。
すでに一時間以上の時間を稼ぎ、俺達と星空達の距離は相当開いたはず。
もう俺があの化け物どもに背を向けて逃げても追い付かれることはないだろう。
でも……。
ここで俺が逃げ出したら転移であいつらが上に来る可能性がある。俺たちは一度30層に転移させられている。迷宮が転移させられるのは人間だけ、とは限らない。
ここであいつらから逃げ出して、今までの努力を無にすることはできない。
右手に握ったヘビーメタルソードを固く握りしめる。
「すぅ……はぁ……」
俺はゆっくりと大きく息を吸い、そして長く細く吐き出す。恐怖も、疲労も、呼吸に乗せて体外へ追い出した。
胸に溜まっていた激情はゴブリンアビス達に全てぶつけた。
今の俺の中にあるのはただ一つ。冷たい殺意だけだ。
手の震えはもう収まっており、ただ目の前の敵を殺すべく、意識を集中する。
覚悟は決まった。
スキルを変更し、花園のスキルで掛けれるバフをありったけの魔力で自分にかける。
「よし、行くか」
殺意を込めてそう冷たく呟き、足を踏み出す。
俺が一歩目を踏み締め、走り出すのと同時にそれまで一糸乱れぬ行進を続けていたオークアビスたちの足が、ピタリと止まる。
オークアビス達の息遣いすら聞こえない中、俺の耳に入るのは俺が固い荒野の土を足を踏みしめる鈍い音と、乾いた風の風切り音だけだった。
そして……。
「がぁぁぁぁあああああーーーーーーーー!!!!!!!!!!」
先頭の一列、およそ十数匹のオークアビスが、全く同じタイミングで雄叫びを上げた。それは単なる威嚇ではない。空気を震わせ、魂を直接揺さぶるような魔力を纏った咆哮。レベルの低い冒険者であれば、これだけで腰を抜かし動けなくなっていただろう。
雄叫びと同時に、奴らは黒い鉄の塊のような盾を前面に構え、一斉に突撃してきた。
奴らが一歩踏み出すたびに大地が揺れる。速くはない。だが、その一歩一歩が持つ質量は戦車の大群を思わせる。
しかし、俺も揺れる大地をしっかりと踏み締めながら速度を上げていく。
みるみるうちに俺とオークアビスの距離は縮まっていく。
そして、ぶつかる直前、盾で押し潰そうとしてきたオークアビスの頭上に飛び上がり、真上からヘビーメタルソードを振り下ろす。
まずは一体。
そう思っていた。だが、俺の耳に聞こえてきたのは剣と剣がぶつかる甲高い音だった。
防がれた。
俺がそれを認識するのにかかったのはほんの瞬きの間。だが、オークアビスはそのほんのわずかな隙を見逃さなかった。
横のオークアビスが、今までのどの魔物よりも速く、俺に大剣を振り下ろしてきた。
かわせない。
そう感じた俺は咄嗟に空中で反転し、振り下ろされた大剣をヘビーメタルソードで受ける。
ギィィィィィーン。
腕に物凄い衝撃があり、その次の瞬間に背中に衝撃が走る。
「ガハッ!」
背中に痛みが走ると同時に脳みそが揺れる。
目の前にチカチカと点滅し、目が全く見えない。
だが、痛みに悶える時間などない。
「ごぉぉぉぉおおおおおおおおーーーーーーー!!」
オークやオークジェネェラルとは似ても似つかない咆哮が鼓膜を揺らし、彼らの放つ膨大な殺気が身体に突き刺さる。
痺れる身体に無理やり力を込め、地面に両足と左手をつくのと同時に走り出す。
周りはオークアビスに囲まれた敵地のど真ん中。目も未だ見えない。
だが、オークアビスが強すぎるお陰か、一体一体の気が伝わってくる。その感覚を頼りに俺はヘビーメタルソードを振り回しながらオークアビスの狭い間をすり抜けていく。
揺れる乾いた土。そんな不安定な場所を俺は塗装された道路でも走るかの如く疾走する。
明るいことだけがわかる点滅した視界の中、いつ脳天をかち割られるかなどと考える余裕はない。ただただ殺意を振り撒いていく。
背後から聞こえてくるオークアビスの呻き声だけが俺に確かな生の実感をくれた。
そして……とうとうオークアビスの群れの中を脱出。
そのまま脚を止めずに一度オークアビス達から距離を取る。
「選択」
十分に距離をとった俺は、再度スキルを花園のスキルに変更し、回復魔法を唱える。すると、チカチカしていた視界はクリアになり、地面に叩きつけられた体は通常状態に戻る。
たらり。
俺の額から汗が落ちてくる。体は正常な状態に戻ったと言うのに、呼吸は荒いまま、鳥肌が止まらない。
運が悪ければ死んでいた。ゴブリンアビスで死戦を潜ったつもりになっていたが、どうやら本当に単なるつもりだったらしい。
まさかあの巨体で剣聖の速度に容易くついてこられるとは思いもしなかった。
俺を追ってこれるほどの速度はないにせよ、俺の速度を見抜くだけの動体視力は持っているようだ。
しかし、逃げる時振り回したヘビーメタルソードは確かにオークアビスの体と鎧を斬った。ダメージが入ることが分かったのは不幸中の幸いだ。
あとはちびちびと持久戦に持ち込み、数を減らしていく。
そう思った時だった。
「おいおい……嘘だろ……」
一体のオークアビス剣を掲げたのかと思うと、傷つき膝をついていたオークアビスの傷が回復していく。
しかも、さらに別のオークアビスが剣を掲げると、何やらオークアビス全体にバフのようなものがかかる。
「……」
100体近くのオークアビスの風貌に違いはない。それはつまり、ここにいる全てのオークアビスが魔法を使ったあの2体のオークアビスと同じことができる可能性を示唆していた。
「クソ野郎どもが……!!」
俺の呻き声は乾いた荒野の風にかき消されていった。




