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迷宮学園の落第生  作者: 桐地栄人


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第百三十七話 願い

ワン君の背中が、遠ざかっていく。

微かにさざめく風に混じって、彼の足音が小さくなっていった。


だが、取り残された私は、その場にただ立ち尽くしてしまう。


止めたかった。

でも、止められなかった。


その事実が刃の様に私の胸を傷付ける。


「……ワン君」


呟くように呼ぶ声も、丘の向こうに消えた彼にはもう届かない。

私の指先と身体には、ほんのかすかに彼の温もりが残っている。だけれどそれも、風に攫われ消えていく。


胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


私の腕の中からすり抜けていった、あの後ろ姿。冷たくて、熱くて、まっすぐで、歪な、ワン君の背中。


そして、初めてみたワン君の辛そうな表情に心を抉られるような感覚に陥る。


叫びたかった。


行かないで。死なないで、と。


だけど、それらの言葉を声にするには、あまりに胸が苦しくて、ワン君の最後の表情があまりに切なすぎてしまった。

代わりに、涙が勝手に流れ、次から次へと地面に落ちていく。

そして目の前が滲み、歪んでいく。


「……どうして?どうしてこんな時まで全部一人で背負っちゃうんだよ……」


誰にも答えられない問いを呟いて、その場にへたり込む。


ワン君は、何もわかっていない。


自分の価値も、優しさも、痛みも、私たちの想いさえも。


どうして、自分をそんなにも嫌うのだろう。


どうして、そんなにも自分に冷たいんだろう。


ワン君の過去に何があったのか、私は何も知らない。だから時間をかけて少しずつ寄り添っていきたかった。


もっとワン君のことを知って、私の想いを伝えたかった。


しかし、ワン君との距離を縮めるよりも早く、スタンピードという大災厄が起こってしまった。


「ワン君……」


届くはずのない声が唇からこぼれる。


彼が走って行った方を見ると、もうそこには荒野と草原が入り混じった大地が広がるだけだった。

それなのに、私はいまだに彼の温もりを自分の腕の中に探している。


そのとき、背中からふわりと誰かに抱きしめられた。


「恵……」


私を抱き締めるふーちゃんの腕は震えていた。


「ふーちゃん……」


私は、抱きしめてくれたふーちゃんの腕に手を置きゆっくりと振り返る。

振り返った先で私の目をしっかりと見つめるふーちゃんも、その大きな瞳からは涙が溢れていた。


そんなふーちゃんに、私は押し寄せる感情を抑えながら話す。


「ふーちゃん……あのね、ワン君も……震えてた……」


抱きしめた時のワン君の背中は少しだけ、震えていた。


いつも飄々としていて、どんな時でも毅然としていたワン君が震えていたのだ。


「ワン君も本当は怖いのに!私……私、止められなかった……」

「私だって、止められなかったわ」


そういって私をギュッと抱きしめるふーちゃんの声は掠れていた。


「でも、恵が自分を責めることじゃない」

「違うの……私、あんな顔させた。あんな悲しい言葉……言わせちゃった……」


『俺は……そんな自分が……心底、嫌なんだよ』


別れ際の言葉が頭から離れない。


ワン君が自分のことを嫌っているなんて想像もつかなかった。


むしろワン君は自分の事が好きで、自分だけが好きなんだと思っていた。


だけど違った。


(ああ、そうだ……)


ワン君に言われて気付いてしまった。


今までワン君が自分のリスクよりも他人の命を優先してきたことに。


自分のことが一番好きな人間が、自分よりも他人を優先するはずがなかったのだ。


「私……馬鹿だ……」


ワン君のことを止めるつもりで言ったのに、逆にワン君に重荷を背負わせてしまった。


その事実に胸が締めつけられて、呼吸が浅くなっていく。


もしこのまま、もう二度と会えなかったら。


「もし……もしこのままワン君に会えなくなっちゃったら私……私……」

「翔が……あの《ザ・ワン》が、こんなところで死ぬわけないでしょ!」


ふーちゃんが私の両肩を掴み、私を安心させるように励ましてくる。


しかし、あの表情を見てしまった私はその言葉を素直に受け取ることが出来なかった。


「でも……でも!スタンピードは今までとは違う……。いくらワン君でも……!!」


バチン。


静寂に包まれた荒野に乾いた音が響き渡る。


穏やかな風が吹く中、私は熱くなった頬を手のひらでなぞる。そして、ゆっくりとふーちゃんを見上げる。


視線を上げると、ふーちゃんは私と同じ位ボロボロと涙を流しながら、怒りの表情で私を睨みつけていた。


その肩はワン君を失う恐怖に震えながらも気丈にしていた。

ふーちゃんは私を睨みながら右手を握りしめ、小さく呟く。


「ふざけないでよ……」


ふーちゃんの声は、掠れていた。

その声には怒りと哀しみ、そして……私と同じようにどうしようもない無力感にさいなまされていた。


それでも、ふーちゃんは私と違ってその瞳は絶望には染まっていなかった。


「あいつを信じられないって、そんなの……恵が一番、彼を見てきたんじゃなかったの?私たちの中で、一番近くにいたのは、あんたでしょ……?ならあんたがあいつを一番信じてあげないとダメじゃない!」

「わかってるよそんなこと……!でも……!」

「でも、じゃないわよ!」


ふーちゃんが叫ぶ。その震える体からあふれ出る感情に、私は何も言い返せなかった。


「私だって怖いわよ。でも……信じるしかないじゃない。私達が『ザ・ワン』って呼んだ英雄を!だから……あんたも信じてあげてよ」

「ふーちゃん……」


そこまで言ったふーちゃんは、その瞳はふっと柔らかくなり、静かに笑う。


私を優しく抱き締め、力強く優しい言葉でこう言った。


「私達があいつのところに行っても、何も力になれない。だから、スタンピードを終わらせていつもみたいに気怠い目をするあいつに言ってあげるの」

「……え?」

「『おかえり。お疲れ様、ありがとう』って。誰にも感謝されなくても誰かのために動く彼の為に、私達が伝えてあげるの」


そう言ってにっこりと笑うふーちゃんの言葉が私の胸に深く突き刺さる。拭っても拭っても溢れる涙はすでに罪悪感からくるものではなかった。


「翔が自分のことを嫌いっていうなら、彼が自分のこと好きになっちゃうくらい、私達が彼の好きなところ教えてあげましょ!」

「うん……うん!」

「さあ、立って。行くわよ、恵。あいつが守ろうとしてたもの、私達も守らなくちゃ」

「うん!」


ふーちゃんに促され、立ち上がった私はワン君が走り去った方角を見て願う。


「ワン君、お願い……生きて帰ってきて」

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