第百三十六話 迷ったまま
カクヨムコンテスト10にて現代ファンタジーの特別賞をいただきました!
星空の声を背に、俺はただひたすら走っていた。
荒野の大地に広がる草地を踏み締め、全力で走る。道標があるわけでも、誰かに差し示されているわけでもない。
ただ、肌が張り付くほどの殺意のする方へ向かってただ走った。
そして、いくつかの丘を超え、気付けばいつの間にか周りよりも一際小高い丘の頂に立っていた。
「……はぁ、はぁっ……」
息が荒い。心臓が痛いほど脈打ち、耳の奥で鼓動が暴れていた。俺にはそれが興奮なのか、それとも恐怖なのか、それすら判別がつかない。
ただ、何故か締め付けられる胸を押さえ、ぎゅっと握りしめる。
目を閉じた瞬間、二人の声が押し寄せてくる。
——『あなたを大切に思う人もいるのよ!』
——『ワン君が好き……大好き!』
その言葉が、何度も胸に突き刺さる。苦しい。
高レベルとなり、この程度の距離なら全速力で汗一つかかないはずなのだが、額からは汗が滴り、心臓は高鳴っている。
「はぁ……はぁ……」
軽く体操した程度の運動量なのだが、既に息が上がっている。
「はぁ……はぁ……ふぅ……」
出来る限り大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出し、心を落ち着けてから、目を開いた。
視線の先に広がっていたのは、黒く蠢く地獄のような光景だった。
紫色の魔石が額に埋め込まれた、異様に禍々しいゴブリンたち。軽く数百体はいるだろう。
三層や五層といった浅い階層に出る、ガニ股なのに上半身を逸らした重心がろくに定まっていない走り方ではない。
口に鈍く紫色に薄く光る刀剣を咥え、四足で地を駆け、まるで獣のように走りながらも、整然とした動きで一直線にこちらに向かってくる。
魔物達が俺を視認したのはこの丘に俺が登った瞬間のはずだが、彼等はまるで狙いすましたかのように列をなして真っ直ぐに俺の命を狙っていた。
「……三百……いや、五百……か」
その数に絶望する間もなく、頭に浮かんだのは、星空の顔だった。
俺がここで踏みとどまらなければあの刃は星空達に届くだろう。
「一対五百か……」
自嘲混じりに笑いながら、呟いた。
絶望的な戦力差でも、もはや俺の心には恐れはなかった。
それ以上の何かが俺の心の中で蠢いていたからだ。
今まで俺は常に損得で動いているつもりだった。
自分のために、自分が得をしないなら動かない。誰かのために無償で動くなんて、無駄でしかないと決めつけていた。
そう思っていたはずなのに。
今の俺は、自分の命を賭けて誰かを守ろうとしている。
「俺って、こんな自己犠牲に溢れた人間だったか……?」
自分で自分がわからない。ずっと信じてきた理念が、音を立てて崩れていく。
星空は言った。
——「ワン君は、優しい」と。
「くっくっくっくっくっ!」
意味が分からなすぎて、星空達の言ってる事がおかし過ぎて笑いすら込み上げてくる。
「くっくっくっ……はぁー……」
だが、次に込み上げてくるのは怒り。彼女達の涙の意味も嘆きの言葉も何もかも理解できない自分へのどうしようもない怒り。
俺は優しくなんかない。
何故なら、他人の考えていることも他人の気持ちも分からない俺は、決して他人に寄り添えない人間なのだから。
それなのに、彼女はそう言った。揺るがぬ目で、まっすぐに。
わからない。ずっと考えてるのに、全然わからない。
好きってなんだ。俺の一体何が好きなんだ。なにが、あいつをあそこまで突き動かした?
「……なんでだよ……」
理解したくて、悩み続けても答えは出ない。
けれど、どれだけ悩み続けても俺には全く分からなくて。それが、心の奥に棘のように刺さって、動けなくなる。
理解できない。でも、たしかに胸の奥が疼いている。それだけは確かだ。
「わかんねぇんだよ……」
そう呟くのと同時に、先頭を走っていたゴブリンアビスが飛び上がり、俯く俺に紫に輝く剣を振り上げた。
その瞬間、反射で剣を抜く。
俺の剣がゴブリンアビスの剣を打つ音が響き、火花が空気を裂いた。
そして、腹の底から、名もない怒りを力の限り叫ぶ。
「わかんねぇんだよ!!!!!!」
自分でも意味がわからない叫び。
だが、それはたしかに、俺の心からの叫びだった。
剣を握り直し、足に力を込め、目の前のゴブリンアビスを一刀に処す。そして、そのまま迷いを置き去りにして、俺は魔物の海へと、たったひとりで飛び込んだ。
——胸の内に燃えるもの理由すら、見つからないまま。




