第百三十五話 小鳥遊翔には伝わらない
「あ、足止めって……無理だよワン君!スタンピードの魔物は十体や二十体なんかじゃないんだよ!?」
「そうよ!いくらあんたでも無謀よ!」
俺が足止めのために振り返ろうとすると、二人が血相をかけて止めにくる。その表情は今まで見たことがないくらい必死だった。
俺はそんな二人に怪訝な顔を向ける。
「俺がここで足止めをしなければ魔物達は結局あいつらに追い付くだろ?」
正確な魔物達の速さは分からない。しかし、伝わってくる微かな振動と空気の重さが、全てを物語っていた。
「どうせ追いつかれて混戦になるくらいなら俺一人で戦った方が戦いやすい」
「でも!」
「でも、何だ?他に手段があるのか?」
俺が淡々と尋ねると、二人は一瞬、言葉を詰まらせた。
「でも、でも……スタンピードの魔物と戦ったら、ワン君死んじゃうよ!」
「……かもなぁ」
などと他人事のように呟く。でも、それ以上に、どこか現実感がなかった。
しかし、きっと俺は死ぬだろうなぁと言う曖昧な直感に似たような感覚はある。
だが、自身の死を予感してもなお俺の心は揺るがない。
「あいつらと逃げても同じ結末になるだろ?それなら俺一人の方が生き残れる可能性があるし、どうしようもなくても死ぬのは俺一人で済む。一番確実で一番犠牲の少ない方法だ」
スタンピードで上層に向かう魔物達にはある一つの特徴がある。
それは、階層毎の人間を全滅させながら上層へ進んでいくという事だ。
つまり、どちらにせよ俺はスタンピードと戦う事になる。
それなら犠牲は少ない方がいい。
俺が一人でここで戦う。それが最善だ。
しかし、星空達はなおも食い下がってくる。
「死ぬかもしれないのよ!? なのに、なんでそんなに平然としているの!?」
「実感がないからだろうな」
今まで見たこともないほどの鋭い目つきで俺を睨んでくる如月に、ただ淡々と返す。
「……生きるのをもう諦めてる?」
「いや、諦めてはない。出来る限りはもがくつもりだ。ただ、死んだら死んだで仕方がないとも思ってる」
「……死ぬのは、怖いのよね?」
「怖くないって言ったら嘘になるな。だが、震えて怯えるほどじゃない」
どうせ何もない人生だ。母親を知らず、唯一の肉親であるはずの父親に勘当された身の上だ。
惜しむものなど何もない。
俺が無表情でそう言うと、如月が俺にぶつかってくる。そして、拳で俺の胸を叩いてきて、こう叫んだ。
「ならもっと怖がってよ!嫌だって!行きたくないって言ってよ!」
「行きたくないって言ったらスタンピードは止まるのか?」
「止まらないけど……止まらないけど……」
如月が俺の胸を叩く腕は徐々に弱まっていく。
そして、俺にもたれかかるようにして項垂れ、震える声で言った。
「もっと自分のこと、大事にしてよ……。貴方のことを大切に思う人もいるのよ」
「?」
俺を大切に思う人……。
頭の中で思い浮かべてみるが、誰一人思い浮かばない。
如月は何を言ってるんだろうか。
俺は実の親にすら勘当を言い渡された人間だ。そんな人間を血もつながらない赤の他人が大切にする訳ないだろ。
こんな時に何の冗談だと呆れるが、前を見ると星空も泣いていた。
この前のような嘘泣きじゃない。
目元を赤くして、溢れる涙がとめどなく頬を流れ、地面に落ちている。
星空はなぜ泣いているのだろうか。
下を向けば如月の方が震えている。まさか如月も泣いているのだろうか。
何故?
分からなかった俺は、恐る恐る二人に問いかける。
「何で……泣いてるんだ?」
俺の問いに、如月は少しだけ顔を上げた。その目は涙で濡れて、いつもの鋭さがどこかに消えていた。
「……なんでって……そんなの……」
如月は言葉が詰まり、その口元は震えている。まるで何かを必死にこらえるように、唇を噛んでいた。
目の前で涙を流していた星空がその沈黙を破るように、嗚咽まじりに叫んだ。
「だって、ワン君が……死ぬかもしれないって思ったら……怖いよ……!そんなの、絶対イヤだよ……!」
泣きじゃくる声が、30階層の荒野に響く渡る。スタンピードが迫っているというのに、今は妙な静けさがあった。
「私、ワン君に貰ってばっかりでわがままばっかり言ってた。まだワン君に何も返せてない。ワン君に何も出来てない」
星空が涙を拭うが、すぐにまた新しい涙が溢れてくる。俺にはそれが理解出来なかった。
俺と星空たちは、利用し合う関係だったはずだ。何をそんなに悲しんでいるのか、なぜ泣くのか。
そう思った俺は星空の顔を見つめる。分からない言葉の意味を知りたくて。
「……やめろ」
ぽつりと、思わずそんな言葉が漏れる。
「そんな顔するな。泣くな。俺なんかのために」
俺が言うと、星空と如月が目を見開いて、鋭い声を返してきた。
「「“俺なんか”じゃない!」」
——心臓が、強く脈打った。
その一言は、今までのどんな叫びよりも強く、深く、俺の心に刺さった。
分からない。星空と如月の言っていることの意味が分からない。
俺を大切に思う二人の気持ちがまるで理解出来なかった。
「分かんねぇよ……」
ギュッと下唇を噛み締め、如月の肩を掴み、離させる。
「お前たちの言ってることが、何も分からねぇんだ。分かんねぇから……辛いんだよ」
そう呟き、で振り返り歩き出そうとした。
トン……。
軽い衝撃と共に踏み出そうとしていた俺の足が止まる。
「……」
止まった足が動かず、俺はその場に立ち尽くす。そんな俺に、星空の呟きが聞こえてくる。
「好き……」
「……何がだ?」
突然なんだろうか。何が好きなのだろうか。ここで唐突に好きなものをアピールすることに何の意味があるのだろうか。
そんな事を考えた俺に、星空ははっきりと告げる。
「……ワン君のことが好き。大好き」
「……は?」
その声に、疑問符を浮かべる。
俺の事が好きと言ったのか、星空が。意味が分からない。そんなはずが無いだろう。
俺は星空が俺を好きになるようなことは何もしていない。
俺は人に好きになってもらえるような男じゃない。
誰がこんなつまらない男を好きになるというのか。
誰がこんな他人を思いやれない男を好きになるというのか。
こんな、誰の気持ちも分からない俺を……誰が好きになんてなるっていうんだよ。
「やめろ……そんな冗談、今は聞きたくない」
「冗談じゃないもん!私はずっと……ワン君と出会ってから、ずっとワン君に恋してた」
「嘘はやめろ」
「嘘なんかじゃない……。出会った時から、ずっと……。ワン君を知れば知るほど、私はもっと、もっと好きになってたの!」
「……」
星空の震えた声が俺の背中に響く。まるで俺の心に直接投げかけているように、その一言一言が俺の心を揺さぶる。
だが、俺の頭は星空の言葉をまるで理解しようとしない。
「……分からない。お前が俺のことを好きだという理由が、俺には全然分からない」
「……私のこと、お前って久しぶりに言った」
俺の背中に頭を強く押し付けた星空がそう呟く。
「そうだ。お前が嫌だって、やめてって言ったからだ」
「そんなところが好き。嫌だって、やめてって言ったら辞めてくれるところが好き」
人が嫌がることを止めるのは当たり前のことだ。好きになるようなことじゃない。
「それだけじゃない。泣いてる人に、手を差し伸べるところ。誰かを助けるためなら、自分の秘密も躊躇いなく捨てられるところ。全部……全部、好き!」
俺は、星空の叫びにただ立ち尽くすことしかできなかった。
「そんなの、誰だってやる普通のことだろ……」
「普通じゃない!ワン君にとっては普通かも知れないけど、他の人にとってはそうじゃないんだよ!」
星空の言う通りだ。俺のいう普通は俺にとっての普通だ。
でも、俺は俺が特別なことをしているとは思わない。
「……これだけじゃない。理由なんて、きっと言葉だけじゃ伝えられない。でも、それら含めて全部好きなの」
「……」
「そんな、誰よりも優しいワン君が好き。大好きです」
星空は全てを出し尽くしたかのように俺の背中でそう告げる。
星空の声が、心のどこかに染み込んでくるのが分かった。分からないはずの言葉が、なぜか頭から離れない。
「……星空、手を離してくれ」
「イヤ……」
「星空、手を離せ」
「手を離したらワン君、行っちゃうでしょ!?絶対離さないから!」
「……星空、俺はお前が思うような人間じゃない。お前が思ってるような……」
言い淀む俺を星空はさらに強く抱きしめてこう言った。
「他人の気持ちが全然分からなくても、他人を思いやれるワン君が大好き」
「っ!!」
その言葉に星空の腕を強く掴み、思いっきり引き剥がす。
そして数歩前に歩き、星空に振り返った俺は、なんとか声を絞り出す。
「わからないんだよ……お前の気持ちも、涙の意味も、全部……どうしても、俺の頭の中で繋がらないんだ……!」
「……っ」
振り返った俺を見て、星空が息を呑む。
今の俺はそれほど酷い顔をしているのだろう。
それでも搾り出すように喉を震わせ、何とか言葉を紡ぐ。
「お前らのことが、何もわかんねぇんだ!お前が俺のことを好きだって言った理由を聞いても、俺は何も分からない!お前の気持ちに何一つ共感出来ない!」
「ワン君……」
搾り出すように出したその言葉は自分でも分かるほど震えていた。
他人の考えが分かればどれほどいいと思っただろうか。他人の感情が分かればいいとどれほど願っただろうか。
俺は俺の周りにいる人間の考えが誰一人分からない。誰一人として価値観を共有出来ない。
星空の言葉を聞いても、星空が俺を好きな理由も俺と関わる理由も全然分からない。分かんないんだ。
「俺は……そんな自分が……心底、嫌なんだよ」
それだけ言い残し、背を向け走りだす。
「ワン君!死なないで!ワン君!!」
「翔!待って!待ってよ!」
そんな悲痛な叫び声も、聞こえないふりをして。




