第五話 大罪爆縮
数百人が同時に座っても狭さを感じないであろう、凄まじい広さの会議室。壁際には絵画や花瓶のようなものは一切飾られておらず……代わりに、大量の本が並べられている。
著者名は全て同一……アストゥツィア・クルークリスト。
忙しなく動くクルークリストの部下たちは、本棚の埃を払ったり配置を整えたりといつもと変わらず大忙しだ、
「ああ、そうだね。そう言うと思った……おいおい、それは酷いんじゃないか? ……はは、冗談だよ。吾輩ジョーク」
議長席に座っている、全身が機械で構成された男。声音からして壮年なのだろう……油差しとメンテでどうとでもなる機械体に年齢の意味があるのかは分からないが。
肩幅は広く、表情は電子板で表現される……朗らかに笑っているのだろう吊り目の男の顔をしている。目の形は炎のように苛烈で、黒いスーツが良く似合う。
座っているというのに手放さないステッキに視線を向け、親友とでも話しているかのように明るい雰囲気だ。
「アストゥツィア様、これなんの本ですか?」
「ははは……ああすまない吾輩、少し部下から質問だ……懐かしいな、大罪爆縮に関する本じゃないか」
親しげに話しかけてくる部下の質問に、ステッキを下ろしながら答える。面白いものを見るように電子配列が変わった。こうまで分かりやすいのも珍しい。
クルークリストは魔法文明から冷酷且つ残忍、勝利のためなら犠牲も厭わない非道な軍師という評価を下されているが……部下との接し方にその片鱗は一切見られない。
「大罪爆縮? それは……何かの現象ですか?」
「ふむ、人には七つの大罪がある。知っているかな?」
「強欲、傲慢、暴食、色欲、嫉妬、怠惰、憤怒でしたっけ」
「そう。そして時に人はそれを急激に爆縮させる」
心を意味するのであろうジェスチャーをした後に、クルークリストはそれを一気に握りつぶした。関節から飛び散る光の粒子は、爆縮した感情を表現しているのだろうか。
「歓喜や幸福ではダメだ。慣れていない。けれど大罪はどんな人間も隠し持ち、常に隣にある。慣れきっているからこそ爆発した時に生じるエネルギーは凄まじいものになる」
クルークリストはあくまで軍師であり、魔法文明を打倒するための軍略を考えるのが役割だが……それと同時に科学文明最高峰の心理学者でもあった。
彼が数十年前に提唱した【大罪爆縮論】。何か一つの大罪に該当する感情が著しく刺激された時、人は身体機能や思考回路に大きな変化を生じさせる、というもの。
戦争の影響で感情が不安定な人々にも常に存在するのが、七つの大罪という逃れられぬ罪過。膨れ上がったそれを突いて割れた時に溢れるエネルギーは、戦闘において絶対的アドバンテージなり得る。そんな可能性の提唱だ。
「吾輩たちの文明に限らず、稀に本当に一人で為したのか疑いたくなる功績を挙げる者が生まれるだろう?」
「戦国のアラキェ、波涛のフルフィテレ。一番有名なのは憎き魔法軍少将、ピヴレイン・ヴァーンマッドネスですね」
「おや、情報の更新が遅いね。ピヴレインは今や特務魔法中将だよ……そして、君の挙げた例は全て正しい」
頭を下げる部下を笑って許し、クルークリストは優しく微笑んだ。電子配列の示す、機械的な笑みだった。
「彼らは大罪爆縮を起こしたんだ。文明の垣根を越えて、人の限界を越える方法など……それ以外考えられない」
彼ら大英雄の共通点は、恐るべきそれぞれの文明への適性や身体能力を観測されている点。尋常では……否、異常な手法を用いても到達不可能な高みに立っているのだ。
魔法文明と科学文明は徹底的に“違う”。同じと言えば、平等に与えられる時間と命、そして感情ぐらいのものだ。
「なるほどです。でも、なんで周知されてないんですか? こんな大事なこと、皆知ってて当然だと思うんですけど」
「ふむ、君たちの常に新鮮且つ役立つ情報をインプットしておくプログラムを吾輩は愛している。しかし、だ」
パラパラと捲っていた本を閉じ、部下に渡す。
キョトンとした顔でクルークリストを見つめる部下に、彼は一瞬だけ悲しげな表情を見せ……すぐに笑って見せた。
「世の中には、知らない方が……いいや、知っていてはいけないこともあるんだ。ただそれだけのことだよ」
よく分かっていない様子の部下に再び笑いかけ、仕事に戻るよう促した。それに従い振り返る背中を見つめる。
悲しいことだ。登録No.七八、好奇心旺盛で感受性豊か、献身的に働いてくれる良い部下だった。だがそんな好奇心が、今回ばかりは仇となった。まったくもって悲しいことだ。
廃棄の手間が増える。
「あの本は、やはり見えにくい場所に置くべきだった。他よりも興味を引く表紙と題だからな。稀にあんな好奇心を持ってしまう個体が出る……まったく、嘆かわしい」
これは一種のゲームでもあった。
クルークリストが一から製造し、丹精込めて育て上げた半機械生命群。彼らの仕事は戦争以外にはこの会議室兼図書館の整理のみ……だが、死亡率は後者の方が高かった。
ここにある本は全て、知られてはならない情報のみが記載されている。半機械生命群はそれを知らず……だが、仕事が初回の場合に限り「本に興味を持ってはならないよ」とクルークリストに教えられる……それは甘い罠だ。
ダメだと言われればしたくなるのが人というもの。肉体を捨て、機械の体を選んだ彼が最もダイレクトに“人間らしい感情”を感じられるのは、その教えへの反逆だった。
つまり、部下へ優しい態度を取ることでルールを破ることへの抵抗をなくし……調子に乗ってルールを破った部下は廃棄する。そんな、歪で壊れたゲームなのだ。
感情が身を滅ぼす様を楽しむ……最低に下劣なゲーム。
「やはり、人間は……感情はいい。そう思うだろう?」
また彼と同じように、好奇の感情を瞳に宿しながら駆け寄ってくる部下を見つめる。
その度にクルークリストは、悲しげに……しかしその奥に隠れた最悪の精神性を歪ませて嗤うのだ。
「吾輩」
ステッキが、笑うように揺れた気がした。
――――――
「ううううわああああ!!!!」
「ここまで来ても力任せとは恐れ入る」
先程ピヴレインが見せた、超速度でのレイピアの突き出しによる空力加熱と似たような現象をエイスタスが起こしている。振るった拳が、脚が、炎熱を纏い踊る。
エイスタスの感情爆縮、【高慢到達】。題する大罪は傲慢である。魔術と科学が使用不可になる代わりに動作一つで山を破壊出来るほどの身体能力を手にする。
対するピヴレインは【情愛怒張】。題する大罪は色欲である。敵が恋路を邪魔している場合に限ってはいるが、エイスタス同様に身体能力を上昇させる……結論として。
状況は変わらぬ。
「くっ……うっ、ぐ、が、ぶぁ」
「つくづく増上慢、世を知らぬ小娘よな」
経験したことのないほどの殺意を孕んだ攻撃は、確かに一発たりとも当たってはならぬという緊張感を与える。だがそれだけだ。端から当たらないと分かりきっている。
元より差があった身体能力、それが同程度上昇したところで好転するはずもない……せめて、逃げるべきだった。
逃がすつもりもないが、億分の一程度の可能性は残されていたかもしれないのに。……まさかとは思うが、あれほど打ちのめされながらまだ何とかなると思っているのか。
最早腹が立ってくるほどの傲慢さ。
「だからこそ、大罪爆縮を起こしたのだろうが」
ふっ、と笑いながらレイピアを突き出す。もう何度目かになる単純な刺突だが……【情愛怒張】を発動した状態のピヴレインが放つとなると訳が違う。当たるが必然である。
例え、エイスタスが更に【高慢到達】を重ねがけしたとしても回避は不可能だ。絶対に外れる訳がない。
ピヴレインは魔術の限界に気付いていた。所詮は大聖典に依存した加工エネルギー体、どんな色を付けたところでそれは大聖典が生み出せる可能性の域を出ない。
信じられるのは肉体と……それについてくることが出来る武器のみだ。魔術によって限界まで強化した肉体を使い、それに十全に対応出来る武器を振るう。ただそれだけのことで蹂躙出来た敵が、戦場が……いくつあっただろうか?
「結局、誰も信じず、己だけで全てを為そうとする。大聖典の子という称号に縋って太陽になった気でいるお前は」
地から飛び出した木の根がエイスタスを拘束する。
空中で磔にされた状態……今の彼女は身体動作で空力加熱を可能とするほどの機能を保有しているが、この木の根は幾重にも折り重なっている上にピヴレインが品種改良を施した特別製だ。尋常の……ましてや力任せでは決して破れぬ。
レイピアを放り投げ、拳を構える。科学文明の技術を盗んで作り上げたブースターと【情愛怒張】、そして鍛え上げた肉体による正拳は……宙空であることなど意に介さぬ。
必ずや、【砲】すら越える“点”の攻撃足り得る!
「こうして、無様に死ぬのがお似合いだ」
搔き乱れた心情が言葉を抑圧している。
エイスタスは……まだ、死ねない。この世界にただ一人生まれ落ちた、傲慢とまで言える正義感を持つ少女。誰よりも平和を願う、最高到達点にある志はまだ燃えている。
それがどれだけ無力なのかも知らずに。
「宙に浮き、塵となり、せめて星の一部となって堕ちよ」
足掻くエイスタスの全身を、容赦なく拳が貫く。
大腿骨破砕。太腿の付け根が弾け千切れた。同様に両肩も破壊され、重要な内臓器官が次々と意味を失う。混血故の強靭な生命力が、そうなっても未だ心臓を稼働させる。
胴体部と別離した全てが塵と化す。ほんの僅か、瞬きの数十分の一にも満たぬ時間の停滞の後……トドメと言わんばかりに胴体を拳が貫いた。肺、心臓……そして、脳。
「わたし、は、まだ……せ、そを」
「……往生際が悪いな。余の決め台詞が台無しではないか」
最後に残った肉片を集めて落下する。よもや脳機能を完全に喪失しても生きているとは思わなんだ……というか、こうも一方的に蹂躙されてまだ……まだ諦めていないのか?
ほとほと呆れる。混血とは愚か者とでも読むのか?
「……違う、か。此奴だけだな。手前勝手な正義感を振りかざして世界そのものの根幹を揺るがさんとする愚者。せめて大聖典から与えられた役目という方が救われただろうに」
救われることなど求めていないのだろう。それは理解している。こういう手合いは、己の心にのみ従ってことを成し遂げ、用済みになってから自分が守ったものに牙を剥く。
それだけでは収まらず、やがて己を否定する者は悪であると断じるようにすらなる……人間のゴミだ。
なるほど、だから混血か。魔法文明と科学文明の両方に適性を持つのは、調停者である為の大聖典からの慈悲だとばかり思っていたが……そのどちらにも身を置けぬ、か。
永遠に救われず彷徨う定めを持つ者たち。理解されず、迫害され、逃げることも出来ぬ。最後にはこうして……一人寂しく死んでいくことしか出来ぬ。なんという残酷な。
「だが、ヘネラール……余が、余がお前だけは救ってやるからなヘネラール! 待っていろ! フハハハハ!」
【華】による広域監視に一度引っかかっただけの混血。リーダーとして前を向いて、先導する姿に……惚れた。もう何度目か分からない胸の高鳴り、躍動に灼かれた。
救わねばならないと、思った。
「さあ! 今行くぞ! かっこよく登場して心を奪い、混血の使命なぞ忘れさせて余の虜としての生を甘受させてやろう!」
グリリ、と踏みにじられた塵が風に吹かれて消える。
ここに、一つの炎が消えた。草花揺れる、淡い陽の下で。
混血一行、残存数四名。
――――――
「ね、ねえお兄ちゃんたち……エイスタスお姉ちゃんは……」
「……来ないな。何かアクシデントがあったのか?」
聖典保護区域に入ってから、既に数分が経過している。聖典の守護者との戦闘を欠員がある状態で行うのは論外なので、今はエイスタスを待っているのだが……
来ない。来る気配もない。戻った方が良いのだろうか。
「ここは守護者の索敵範囲内。長居は避けたいのだが……」
「エイスタスは主戦力だ。いないってのは流石に……」
ヘネラールとミィハエルが作戦会議を開く。
ついていけるほどの知識知能がないフィリンとビィは、二人の邪魔にならない隅の方で座って小声でお喋りだ。
「なんだか……急に忙しくなっちゃったね」
「エイスタスが心配、という訳ではないのね」
「お姉ちゃんなら大丈夫だよ。とっても強いんだから」
ビィが覗くフィリンの横顔には、信頼以外の感情が一切存在していなかった。純朴……無知で無邪気な少女だ。こんな場所で来ていないというのは……そういうことだろうに。
ヘネラールたちも分かっているはずだ。特にミィハエルなど、分かっていなくてはおかしいレベルだろう。
(……いや、そうとも言いきれない……のか?)
見た目で忘れかけるが彼らは三歳児。そういう、経験がないと分からないことは本気で分かっていないのか。
そもそもここは魔法文明の支配区域。ある程度兵の目を逃れながらここまで来たとは言え、バレていない訳がない。侵入からこれほどの時間が経ちながら、向こう側からも守護者からも干渉がない現状……状況は、どこまでも悪い。
(こちらから、少し指摘するべきかな)
ビィはこう見えて四桁歳、封印前はある程度の戦闘経験もある。一応は運命共同体、助言もしておくべきだろう。
「君たち、私から一つ提案が」
「姉様、姉様。危ない臭いがしていますわ」
「姉様、姉様。今こそ使命を果たす時ですわ」
「……来たか。少し、思い至るのが遅かったようだね」
ゴリュゴリュゴリュ、という床を削る金属音。ヂャラヂャラと響く武器の音。そしてそれらに似つかわしくない、鈴の音のように反響する可愛らしい少女たちの声。
ミィハエルは大聖典から与えられた知識として、その名を知っている。暁に灼かれた双生児……【聖典の双子】。
「姉様、姉様。混血たちが死を待っていますわ」
「姉様、姉様。“穢れたビィ”が此処にいますわ」
戦闘態勢……敵は聖典の守護者。
貴族風のドレスを身に纏った双子の少女。片方は身の丈を優に超える一対の銀の槌を構え、片方は数十の暗器を手足の如く弄ぶ。その細腕のどこから生まれ出てた怪力なのか?
「「姉様、姉様。諸共この場で潰し殺しますわ」」
にこりと笑う。這い寄るような殺意と共に。