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赤獅子の末姫は物語から退場したい  作者: ななみ
赤獅子の末姫は物語から退場したい
2/132

最北の都市、ノルデン

『ファラー家の娘を妻とした者に、十七代目当主の座を与える』


 そう言い残し、先代ヴァインガルトナー侯爵は昨年息を引き取った。

 一体、何故そんなことを? 特に親交があったわけでもないのに。

 ジークリットは腰に帯びた短剣を握り締めながら、誰も知らない答えを求めて思考の渦に飛び込んだ。

 先代侯爵が余生を過ごしたキルシュテンの別荘を去って、五日目の正午間近。

 ようやくヴァインガルトナーの起伏に富んだ大地が姿を現し、ジークリットたちを乗せた馬車を出迎える。

 前後左右を騎乗した侯爵家の私兵たちが護衛しているおかげか、ここまでの道中は拍子抜けするくらい平和なものだった。同乗するアレクシスと侯爵はすっかり気を緩めていたが、ジークリットだけは警戒を怠らず、度々窓の外に目を光らせた。

 ……利点がまるで思い浮かばない。国で高い発言権を持つ有力貴族の一角が、肩書きだけ立派な我が家に何を求めるというのか。

 近世史で列挙される事件のほとんどに、不名誉な形でファラー家の名は登場する。そこに名を連ねたい愚か者はまずいないだろう。


 ――今回なんて『タヒア』の二の舞になっていてもおかしくなかった。


 それは祖父の妹の名前だった。若くして亡くなったため肖像画でしか見たことはないが、派手な容姿と豪放な性格がジークリットによく似ていると祖父が話してくれた。

 社交的で友人も多く、華やかな彼女が好意と悪意の両方を引き寄せたとしても、今では何ら不思議に思わない。


 タヒアを絶望の淵へ陥れた事件は、婚礼の最中に起きた。メーア聖教の信徒によって、共に幸せな新婚生活を送るはずだった花婿が毒殺されたのである。

 結局は信徒たちの独断による犯行とされ、メーア聖教に裁きを下すことも叶わず、タヒアはひたすらに己を責め――事件より半月後、自ら死を選んだ。

 その愚かで身勝手な行為を理解はできても、哀れむことはできなかった。祖父を含め、遺族が涙を呑んで受け入れなければ、彼女の死を発端に内戦が起こっていた可能性もあるのだ。

 そして、この一件以来、ファラー家との縁談を避ける家は格段に増え、国王の信頼のみでどうにか居場所を得ている状態だった。


 ……陛下の信頼も怪しいものだよ。私には父様たちの国を想う心に付け込んで、赤獅子の反乱を阻止し、戦力を確保しているようにしか思えない。


 ジークリットは苛立ちから下唇を噛みしめ、大切な家族の、一族の未来を憂う。


『お前が望めば、すぐにでもこの国の玉座を手に入れてやる』


 心の奥底に沈めたはずの言葉が、不意に脳裏を過ぎる。

 追い払おうと慌てて頭を振るが、そうして逃げるたびに『裏切者』と罵られている気がして、忘れるより先に恐怖と罪悪感に飲まれそうになった。


「ジークリット」


 突然、耳元で囁くように名を呼ばれ、ビクリと肩を震わす。そして動揺したまま顔を上げた瞬間、口の中に何か小さなものを突っ込まれた。


「んむっ……?!」


「美味しい?」


 至近距離まで迫ったアレクシスが煌めく銀青の髪を揺らし、楽しそうにそう問いかける。

 美味しいって何? 一体、何を入れたの?!

 危険物ではないと本能で悟っても、素直に飲み込むほど愚かでもない。しかし、これでも貴族の端くれ、吐き出すにも抵抗がある。

 そうやってまごついている間にも、得体の知れないそれは舌の熱で溶け始め、次の瞬間ジークリットの全身に衝撃が走った。


「こっ……、このまろやかな甘みは……!」


「君の大好物だよ」


 アレクシスの手には高級感漂う黒塗りの木箱。その中に敷き詰められた艶めく暗褐色のチョコレートを見て、ジークリットは目を輝かせた。


「気に入ったのなら遠慮なくどうぞ。君のために用意したんだ」


 夫の仕掛けた甘く蕩ける誘惑に、妻は緩んだ頬を紅潮させ、ゆっくりと、だが確実に右手を芳しい菓子箱へ伸ばしていく。


「あ、屋敷に着いたら昼食だから程々にね」


 抗うことすら忘れさせる強大な力が、向かいの席に座る舅によっていとも容易く両断される。

 幸か不幸か、そこでジークリットは正気を取り戻し、菓子箱から急いで顔を背けた。


「も、もういい。気持ちだけ貰っておく。あと不意打ちは止して。誤って反撃してしまうかもしれないから」


 早口でまくし立て、必死に己を抑え込む。背後ではアレクシスがいかにも残念そうに吐息を漏らした。


「そう? 困ったな、残りはどうしようか」


「使用人たちに渡せばきっと喜ぶよ。そもそもチョコが好きなんて私は一度も……」


「聞かなくてもわかるさ。いつも紅茶に砂糖を三杯、蜂蜜があればそちらを選択。茶請けはチョコを含んだ菓子を真っ先に手に取り、それはそれは恍惚とした愛らしい笑顔で口に――」


「ごめん、認める! 大好物ですっ!」


 ジークリットは血相を変えて振り返ると、涙目で降参を訴えた。

 どうせ気にも留めていないだろうと高を括っていた分、嗜好を正確に言い当てられて、愕然とするよりも恥ずかしさに身悶える。

 その様子をからかうでもなく、アレクシスは晴れ晴れとした表情で、長方形の薄い鞄に菓子箱をしまい込んだ。


「これは君の部屋へ届けておくよ。後でゆっくり味わって」


「う……うわぁい、ありがとう……」


 本音を言えば、かなり嬉しい。けれど身内以外の厚意を素直に受け入れられるほど、世界は優しいものではなかった。


「料理長に君が甘党だとは伝えておいたが、他に要望があればいつでも言いなさい」


 侯爵の温かい言葉に、まるで歓迎されているのではと誤解しそうになる。そんな自分を心の中で叱責して、ジークリットは居住まいを正し、丁寧に礼を述べた。


「……ありがとうございます。でもご心配なく、好き嫌いはしません」


「それは感心だ。我が家の三男坊にも聞かせてあげたいよ。今は注意しようにも王都にいるのでね」


「偏食が続くようなら幼児扱いで構わない、とあちらの使用人たちに伝えました。自尊心だけは一人前なので、効き目はあるかと」


「おお、そうかい。ならば安心だ。私はどうにも甘やかしてしまうから、アレクシスがしっかりしていて助かるよ」


 私には酷い嫌がらせにしか聞こえない……。


 歓談する父子をジークリットは怪訝な面持ちで見つめながら、ここは笑う場面なのかと小首を傾げる。何が受けたのかアレクシスもその動きを真似ては、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。


 ああ、そんな表情もするんだ。


 意外な一面に妙に胸が高鳴って、そこから目をそらすようにジークリットは道なりに並ぶ暗い針葉樹林へ視線を移した。

 恐らくアレクシスは善良な人間だ。艶聞はさておき、嫡男として相応しい風格を備えた利発な青年だ。

 非の打ち所がない理想の貴公子、『月華の君』――を演じ続けてきた男だ。


 多忙の身でありながら結婚が決まった後も足繁くファラー家を訪れ、一途で誠実な婚約者の役を終えた今、早くも愛妻家の仮面を被ろうとしている。

 最初は赤獅子の報復が怖くて私に気を遣っているのだと思っていた。しかし彼の理不尽な境遇を知った時、幼い頃より身に着けた処世術が深く根を張っているのだと理解した。


 捻くれもせず、懸命に努力した挙句に妻がこれなんてね。

 隣で寛ぐ夫の不運さを憐れみながら、ジークリットは青空に棚引く雲を眺めて自嘲する。

 アレクシスの母親は美しく聡明な女性であったという。

 ただし生まれながらに体が弱く、遺伝病を患っていたことがグリーベル家の一族の反感を招き、厳格な先代の侯爵も最後まで彼女を正妻とは認めなかった。当然、アレクシスや弟たちも孫として受け入れられず、親族からも蔑まれてきたらしい。


 次期当主の座を取られて歯ぎしりするほど悔しいなら、無理して婚礼の宴にまで出席しなくても良かったのに……。


 喜びと怨念が入り混じるあの場の空気を思い出すだけで、どっと疲れが押し寄せてくる。


 ……そもそも先代は面倒な遺言なんて残さず、跡継ぎを指名すれば良かったんだ。


 意地が悪いのか、弄れているのか、結果グリーベル家の者たちはこぞって赤獅子に求婚しなければならなくなった。

 彼らが真っ先に狙いを定めた相手は、次女のイルゼだ。

 部屋を埋め尽くすほどの花束、色とりどりの宝石、甘美な台詞、持ちうるすべてを投じる男たちを、イルゼは上品な微笑みを浮かべたまま一蹴した。

 曲がりなりにも貴族の娘で、悪名轟く三女に比べれば被害も少ないはず。彼らのそんな胸中を、姉は即座に見透かしたのだろう。

 諦めの悪い男たちが分家の娘を次の標的にした頃、一足早くアレクシスとジークリットの婚約が決まり、その話題は世間を――とりわけ王侯貴族たちを震撼させた。


「ご覧、ジークリット。じきに我が家だよ」


 侯爵に促されるまま、ジークリットはアレクシスの方へ身を寄せて窓を覗く。

 林道を抜けた先に現れた小高い丘、その上に厳つい石壁で囲われた要塞都市ノルデンが建っている。それはまるで大きな岩山、あちこちから立ちのぼる煙を見るに火山と言う方が適切かもしれない。


「あの煙って鍛冶場の? 異常事態じゃないよね?」


「大丈夫。いつもの光景だから安心して」


 田園ばかりの地元との差にジークリットが感嘆すると、アレクシスはやや誇らしげに胸を張り、雄大な故郷の景色を改めて見回した。


「落ち着いたら街を案内するよ。ノルデン以外も追々ね」


「必要ない。この辺りの地理はちゃんと覚えたもの」


「心配せずとも外出の際は毎回護衛をつけるし、直に触れてヴァインガルトナーのことを君にもっと知ってもらいたいんだ」


「足手まといはいらない。どうしてもと言うなら一人でさっと見てくるよ」


 態度はつれなくとも、ジークリットなりに夫の身を案じていた。しかしアレクシスも頑として譲らず、平行線を辿る新婚夫婦を見かねた侯爵が間を取り成す。


「聞きなさい、ジークリット。何も主の命を守ることだけが護衛の役目ではない。仕える者の質と数はそのまま家格へ反映されるのだ」


「私のためにそれらを失うことになっても……?」


「貴族には矜持という名の見栄がある。我が家の一員になったからには君にも慣れてもらわねば」


 いつも穏やかな侯爵の鋭い眼差しは、名家の当主たる威厳に満ちていた。彼の気迫に反論の機会を逸し、ジークリットは心にわだかまりを残したまま、やむなく口を閉ざす。


「ただ、誤解しないでおくれ。私は配下を飾りや道具などと考えてはいないし、容易く殺されるほど生易しい鍛え方もしていないよ」


 にっこりと笑みを湛えれば、いつもの寛厚な侯爵に早変わり。

 議論の終わりを暗に告げられ、納得できずにむくれていたジークリットはしばし長考し、やがて唸るように息を吐き出した。


「……お世話になる以上はそちらの方針に従います。でも意外です。てっきり私には屋敷に引きこもっていてほしいのかと」


 公の場に赤獅子を連れ出したいなどと思うはずがない。その理由くらいわかっているだろうに、アレクシスは大げさに目を丸くし、しかめ面の妻をまじまじと見つめる。


「どうして? 早く皆に自慢したいな。怒っても拗ねても可愛い君のことを」


「そういうお芝居はもう良いので……」


 数多の女性が欲しがるだろう魅惑の言葉をジークリットは丁重に返上し、真顔で居心地の悪さを訴える。


「芝居? 何のことだろう。至らない点があるなら直すよう努力するよ」


「いや、だから……」


 脱力するジークリットをよそに、三人を乗せた馬車は外堀に架けられた橋を渡り、とうとうノルデンの門をくぐり抜ける。

 瑠璃色の屋根葺きと白い壁、波紋を描くように整然と敷き詰められた石畳。どこまでも続くその優美で洗練された街並みは、外観の厳めしさからは想像もつかない。

 活気に溢れた街の大通りは瀟洒な構えの商店が連なり、脇道に視線を向けると工房らしき看板が壁に掛かっているのが見えた。

 辺境の地とはいえ、国の要所。

 王都に引けを取らぬ華やかさは、田舎貴族のジークリットには眩しすぎた。とりわけ菓子店が。


 ――凄い。こんなにも沢山の人を見たのは王都以来……。


 グリーベル家の紋章がついた黒塗りの豪華な馬車を見て、通りを行く誰もが足を止め、全身で喜びを表している。中でも目を引くのが頬を真っ赤に染めた若い娘たちだ。

 爪先立ちで両手を振る女性たちへ、今日は艶やかな紫色でまとめたアレクシスが慣れた様子で笑顔を振り撒く。

 その直後、耳をつんざくような金切り声の大合唱が始まり、ジークリットは驚いて思わず腰を浮かした。


「大丈夫、いつものことだよ」


 侯爵は苦笑いしつつも息子の人気にご満悦で、カーテンの陰に隠れるジークリットを落ち着かせる。


「……アレクも侯爵も民衆に慕われているんですね」


「君も手を振ってあげて。英雄キバキの子孫が嫁いでくると街中が大騒ぎだったのだから」


「それは……怖がっているんじゃ……」


「まさか。皆が僕らの結婚を祝福してくれているのに」


「そうかな? 何人か涙ぐんでいるけど……」


「嬉し涙まで流してくれるなんて僕たちは果報者だね」


 いや、あれはどう見ても、アレクが妻を娶って嘆き悲しんでいるような……。


 ジークリットがそっと顔を出すや否や、悲鳴にも似た泣き声を上げる女性がちらほら。

 肩書きだけの夫婦と知らないのか、それともアレクシスにとって望まぬ結婚と知って憂いているのか、どちらにせよ気軽に手を振れる状況ではなかった。

 けれど大きな黄金の瞳が灼然と輝いた瞬間、ジークリットは一蹴りでアレクシスを越えて扉を開け、そのまま馬車の外へ飛び出した。


「ジークリット!!」


 アレクシスが叫び、一拍置いて馬上の護衛たちが、民が騒ぎ始める。

 野放しになった獅子は周囲の様子を気にも留めず、鮮烈な赤い髪をなびかせ、閑散とした路地へ向けて盲目的に駆け出した。

 群衆が大慌てで道を開けると、ジークリットは蹴り上げた道端の小石を掴み、遥か前方を走る人物の足を狙って鋭い投擲。膝の裏に見事当たれば、相手は短い悲鳴を上げて転倒し、追い打ちをかけるべく猛進する。


「――っ!」


 路地に入った途端、両脇から現れた二人の若い男が行く手を阻む。身なりこそ周りと何ら違いはないが、突き出したその手には鈍い光を放つナイフがあった。


 ――――愚かしい……。


「ぐあっ!!」


 躱すついでにナイフを奪い、足を払って倒した男の背中を踏みつけ、もう一人の横顔に強烈な回し蹴りを食らわす。

 瞬きする間の出来事に誰もが言葉を失う中、黄金の双眸はただ一点を見据え、未だ逃走を続ける標的に今度はナイフを投げつけた。


 ――これで終わり。


 鋭利な刃がふくらはぎに突き刺さり、地面に伏した男は激痛に悶える。それでも立ち上がろうと歯を食いしばり、思わぬ襲撃者との距離を確認して、彼は絶望した。


「ひっ……ひぃぃ!!」


 振り返ると、もう触れられる位置に長身の少女が立っていた。


「頼む、許してくれっ。命だけは……!」


 二十代半ばの男が頭を抱えて怯えながら、慈悲を懇願する。その滑稽な姿に一瞥もくれず、ジークリットは青年を素通りし、数歩先で静かに足を止めた。


 ……良かった。無事に取り戻せた。


 石畳の上に転がる、花模様を織り込んだ上品な手提げ鞄。おもむろにしゃがみ込み、やけにずっしりとしたそれを拾い上げると、表面についた砂を丁寧に払い落とす。


「赤獅子様っ……!!」


 しわがれた声で誰かが叫ぶ。と同時に背後から迫る危険を感じて、ジークリットは咄嗟に立ち上がって身を翻した。

 まず視界に入ったのは折り畳みナイフの鋭い切っ先、次にそれを向けて襲いかかろうとする先ほどの盗人。そして、そんな彼の遥か後方で、凛々しくも美しい青年が馬上から矢を射った。


「アレクシス……」


 重く鈍い音を立てて矢じりが右肩に突き刺さり、再び強盗が地面に倒れ込む。ジークリットは反射的に飛び退き、夫の名を口にしてやっと周囲の状況を認識した。

 小ぢんまりとした雑貨屋や宿が並ぶ路地は先ほどまで静まり返っていたのに、好奇心に駆られて集った人々の歓声と拍手で今や祭りと化している。


 ――――どっ……どうしよう……。早速、注目の的に……。


 今更おろおろして身を屈めても、派手な容姿は隠しようもない。

 こんな風に民衆の前に姿を晒す気はなかった。関わりを持たないことが互いのためと思っているから。けれど――――。

 すぐ目の前で苦痛に喘ぐ男がいる。ナイフの刺さったふくらはぎから流れた血が、枯れ草色のズボンをじわじわと変色させていく。その原因を作った己の右手と、左手に持った鞄を交互に見つめ、相反する感情にジークリットは苛まれた。


「まだ足掻くつもりか?」


 頭上から投げかけられた問いかけが、心臓を鷲掴みにする。


「よほど盗みの対価を支払いたいらしい」


「……くそ。何で……よりによって赤獅子がっ……」


「よりによって? それはこちらの台詞だね。大事な妻の歓迎式によくも水を差してくれた」


 護衛の馬であろう鹿毛に跨り、颯爽と現れたアレクシスは、弱々しくも悪態をつく男へ冷えた怒りをぶつける。


「申し訳ありません、アレクシス様。我々が後れを取ったばかりに、奥様のお手を煩わせてしまい……」


 悔しげに声を震わせるのは、追従してきた青い軍服姿の男たちだ。

 彼らは大通りの交通整理をしていたノルデンの衛兵で、万全の警備を期待されていただけに、かなりの負い目を感じている様子だった。


「私が勝手に飛び出したんだもの。私の責任だよ」


「そうだね。そして君を止められなかった僕の過失だ」


 前のめりになって訴える妻をアレクシスは厳しい表情のまま一瞥し、恐縮して棒立ちになっている衛兵たちへすぐさま視線を移した。


「つまり諸君らには己を咎めるよりも、全うすべき職務があるはずだよ」


「はっ! 捕縛した二名とともに直ちに牢へ連行します」


 口調は穏やかなれど追及は鋭く、衛兵たちは力強い敬礼の後、地に倒れた無法者を取り押さえて手枷をはめた。


「油断は禁物だよ。相手がジークリットでなければ逃げ切れると、我々はどうやら侮られているようだ」


 アレクシスの警告に、衛兵たちの目の色が変わる。ただでさえ憎らしく思っているだろうに、更なる屈辱が彼らの怒りを助長させた。

 追い剥ぎとは言え負傷者が乱暴に引きずられていく光景を見て、ジークリットは堪らずアレクシスに詰め寄った。


「どうして兵を煽るようなことを? 暴力を振るった私に責める権利はないけれど、せめて手当てしてから連れて行っても……」


「治療のために路地を封鎖すれば近隣住民が迷惑を被るし、理解と協力を求めるにも時間がかかる。牢で軍医を待つ方が誰にとっても負担が少ないと思うよ」


 その場の感情で動いてしまうジークリットと違い、アレクシスは冷静に先々を見据え、何が最良かをしっかりと考えている。

 反論できずに口を閉ざしていると、店先で事件の収束を喜ぶ妊婦の姿がふと視界に入った。もし騒動が長引けば、きっと今も不安の念に苛まれていただろう。


「……ごめんなさい、アレクの言う通りだ。私はいつも思慮が足りない……」


 そう何度も叱りつけてくれた人物の顔を思い出し、俯いたジークリットは悲しげに唇を歪ませる。


「正義感の強さや慈悲深さは君の美点だが、この件においてはとても褒められないね」


 馬の背から降りたアレクシスは手厳しい物言いとは裏腹に、妻の乱れた赤髪を綺麗に撫でつける。


「本当にどれほど心配したか……。すべてに心を砕くより、君はもっと自分を大切にするべきだ」


 ――心配? どうしてアレクが?


 怪訝に思うも、見上げた彼の表情は真剣そのもので、つい息を呑んでしまうほどだった。まるで心から案じてくれている気がして、胸の奥が微かに熱くなる。


 まだ……私に何か利用価値でもあるの?


 無知な幼い頃なら純粋に嬉しく感じただろうが、今のジークリットにとって優しさは最も危険なものと化していた。


「大切にしてるよ。だから私はここに来たんだもの」


 彼の温かな手をそっと払いのけ、ジークリットは自嘲の笑みを浮かべる。

 それが期待したものではなかったのか、アレクシスがどこか歯痒そうに眉をひそめていると、後ろで馬の手綱を握っていた寡黙な従者が遠慮がちに声をかけた。


「僭越ながらアレクシス様、そろそろ馬車へお戻りください。衛兵らが抑えてはいますが、興奮した民衆が雪崩れ込まないとも限りません」


 年齢も背格好もそう変わらぬ主従の間から、ジークリットもこっそりと周囲の様子を窺う。その途端、道の端に追いやられていた野次馬が、再び諸手を挙げてはしゃぎ始めた。


「――――ディルクルム」


 あまりの熱狂ぶりに、ジークリットは思わず後ずさり、ある懸念を口にする。


「ディル……南方諸国のヘリア神話に出てくる暁の神かな? それとも――赤獅子を崇拝する新興宗教のことかい?」


「……神でもないのに信仰されても困る」


 ジークリットは肩をいからせ、警戒心を剥き出しにする。

 王侯貴族の間ではもはや腫れ物扱いの赤獅子だが、平民からの人気は未だ根強い。

 ただし、中には狂信的な集団もいて、かつては英雄キバキを玉座へ望む動きさえあった。その暴走を食い止めるべく、最初に授かった公爵位をキバキ自ら返上して野心の無さを公言したにもかかわらず、ファラー家を危険視する声は日々高まっていったのである。

 あの時、王とその妹姫である妻がどれだけ引き留めても、彼は国を去るべきだったのだ。ここに自由はないと遠い大陸へ渡った同胞と共に。


「大丈夫だよ」


 ジークリットの暗く険しい顔を躊躇なく両手で挟み込み、アレクシスがこつんと軽く互いの額をぶつけた。


「怖がらないで。君の心を脅かすものはすべて僕が排除してあげる」


「排除……?」


 低く艶めかしい声に、悪寒めいたものが背筋を走り抜ける。わけもわからず硬直するジークリットからアレクシスは体を離すと、いつもの紳士然とした態度で話を続けた。 


「ヴァインガルトナーは帝国の侵略を受け、かつての領主にまで見捨てられた地だ。それゆえに民は深い恩と敬愛を英雄キバキへ抱いている。無論、メーア聖教を排斥するような過激な狂信者はいないよ。それは恩を仇で返す所業だ」


 杞憂だと諭され、ジークリットがわずかに頬を緩めたところで、アレクシスは右手を差し出す。


「さあ、馬に乗って。父上が待っている」


「……え? 私は徒歩でいいよ。これ以上、目立つのは……」


「貴婦人たる君が直に往来を歩いては世間体が悪い。時すでに遅しと言えど、少しでも侯爵家の体裁を保っておけば、父上の説教もいくらか軽くなると思うよ」


 説教と聞き、笑顔のアレクシスに対して、ジークリットの表情は見る見る青ざめていく。

 当然……だよね。侯爵家の方針に従うと言ったそばからこれだもの。


「そう硬くならないで。僕も一緒に叱られるから」


「アレクは何も悪くないでしょう。私なら平気だよ、叱られ慣れているし」


 まるで自慢にはならないけれど。

 ジークリットは改めて気を引き締め、挨拶代わりに鹿毛の逞しい首筋を撫でる。


「剛健な馬だね。赤獅子を前に堂々としてる」


 獰猛なファラーの血を嗅ぎ分けるのか、動物にはまず嫌われる。だからこうして避けずにいてくれるだけで心は弾み、いそいそとスカートをたくし上げては鐙に足をかけ――るや否や、アレクシスが一つ咳払いをした。


「ジークリット、女性がみだりに足を見せるものではないよ」


「あ……いや、だって馬に乗れって……え? ちょっとアレク?!」


「じっとしていて」


 まごつくジークリットの体を彼は高々と抱き上げ、壊れ物を扱うかのようにそっと鞍の上へ運んだ。


「その鞄は僕が持とう。君は落ちないようにしっかり掴まっているんだよ」


 呆然としつつもジークリットは頷き返し、けして軽いとは言えない発育の良い肢体を見下ろす。重かっただろうにアレクシスは余裕の態度で、従者が引く馬の歩調に合わせた足取りは淀みない。

 北方の護り手を侮るなかれ、とジークリットもまた警告された気がした。

 腕力以前に、もうその精神力に感服してるよ……。

 四方八方から無数の視線が突き刺さり、ジークリットは早くも逃げ出したい衝動に駆られていた。そして公の場に不慣れな妻とは対照的に、アレクシスはどこまでも優雅に人々を魅了する。

 程なく戻った大通りは先刻よりも多くの人々が詰めかけていて、路地から姿を現した新婚夫婦を歓呼して迎えた。


「……王都とはまるで違う」


 まだ小さな子供だった頃、一度だけ訪れたあの場所。思い出すと、心に刻まれた消えない傷がズキズキと疼いた。


「王都は枢機卿の影響力が強いからね。ただ――」


 この騒がしさの中、ジークリットの吐息にも似た呟きを聞き逃さず、アレクシスは意味深長な笑みを浮かべる。


「メーア聖教の内政干渉に関して不満は年々高まっているし、いずれ風向きが変わるかもしれない」


「それはより良い方へ? それとも……」


 緩やかに湾曲した睫毛が、黄金の瞳に影を落とす。

 身勝手な思想や願いのために、無関係の誰かがまた傷つくのだろうか。


「君はどんな未来が見たい?」


 どんな……未来?


 光り輝く星のように希望に満ちた言葉が、夢と現の狭間へ沈みかけたジークリットの意識を引き上げる。


「……そんなもの思い描いたことない」


「では今度一緒に考えてみよう。僕たちはもう一人ではなく、二人になったのだから」


 そう語るアレクシスの横顔は涼やかで、けれど強烈にジークリットの胸を打ち鳴らす。本物の夫婦なら良かったのに、とほんの一瞬焦がれてしまうほど。


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