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赤獅子の末姫は物語から退場したい  作者: ななみ
赤獅子の末姫は物語から退場したい
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一生に一度の……

 橙色の蝋燭灯りが照らす、天蓋付きの豪華な寝台。

 その端に腰を下ろした白皙の美しい新郎は、掛布の上に散りばめられた薄紅色のバラの花びらを一枚手に取り、整った眉を下げて苦笑いする。

 コンコンと軽快に扉を叩く音がした直後、寝室に長身の娘が颯爽と現れる。一度でも視界に入れたらもう目が離せない、圧倒的な存在感を示威して。


 真っ直ぐに伸びた髪は混じりけのない鮮烈な赤で、傍から見ればまるで頭から血を流しているかのようだった。

 また、凛とした黄金の瞳は獲物を見つけた獣のごとく、燦然たる輝きを放っている。


 これから初夜を迎える彼女の表情に、恥じらいや緊張の色はない。

 それどころか、まだ十四歳とは思えぬ発育の良い肢体の上は、大胆にも薄手の寝間着のみだ。端から期待などしていなかったはずなのに、新郎は少しだけ残念に思った。

 そんな彼の胸中も知らず、悠然と隣に座る花嫁は誘惑するかのように蠱惑的な笑みを浮かべる。


「赤獅子を娶った挙句、床まで共にしたいなんて、どこまでも命知らずの旦那様」


 花嫁は腰まで続く長い赤髪をさらりと揺らして擦り寄り、夫の涼しげな青緑色の双眸を至近距離で見据える。


「先に謝っておくけど、もしも寝ぼけて噛み殺してしまったら――ごめんね」




 ******




 バルドゥール聖王国は七大陸で最も広大な大陸の西側に位置し、冷涼な北部に険しい山脈が、温暖な南部に広葉樹の森林が分布している。

 古くから信仰に厚く、王よりも聖なるメーアの神々を祀る神殿が絶大な権力を誇っていた――が、それも三百年ほど前までの話。


 そのきっかけとなったのが、北東に広がるサヴィナ帝国の侵略だった。

 少数の騎士と民を連れ、辛くも逃げ延びた末の王子ディートヘルム。彼は戦火に見舞われた領土から帝国軍を撃退し、一度は滅亡の危機に瀕した国を再興した。

 その奇跡とも呼べる偉業は、人々の信仰心や価値観を大きく揺るがすこととなる。

 救国王として王座に就いたディートヘルムですら敬意を払い、皆に『英雄』と崇められた男がいた。


 浅黒い肌、鮮やかな赤い髪、獰猛な黄金の瞳。


 野性味に溢れるその英雄の名を、キバキという。

 彼は南方の僻地を渡り歩く戦闘民族ファラーで、亡命を余儀なくされた王子と妹姫の懇請を飲み、まさに一騎当千の強さで帝国軍を圧倒した。


 キバキのたてがみのように無造作に広がる髪と、人間離れした獣のごとき身のこなしから『赤獅子』と称され、その異名が国内外に轟くまで時間はそうかからなかった。

 終戦後、妹姫を娶った彼は自由を謳歌する同胞と決別し、バルドゥールの守護神としての一生を選んだ。

 それが己や子孫を、延々と苦しめる鎖になるとも知らずに――――。





 バルドゥール聖王国――ヴァインガルトナー侯爵領、キルシュテン。

 そこは中南部に位置する荘園で、小さく長閑な田舎だが王都に近く、街道へ出る道は敷石を綺麗に並べて舗装されていた。

 新緑の森と美しい花園に囲まれた別荘もまた立派な構えで、柱や扉はもちろん、窓枠、手すりまで細部に渡って意匠を凝らし、侯爵家の財力を世に知らしめている。

 だが、昨日執り行われた長男アレクシス=ラグナ=グリーベルの婚儀は、煌びやかな衣装や会場の飾りに反して、招待客が親族のみの家格に見合わぬ小規模なものであった。

 その原因は、相方である花嫁が挙式を渋ったからに他ならない。

 どうせ契約結婚、されど二人の新たな人生の門出。

 そう何度も説得する侯爵の熱意に折れ、うら若き花嫁は簡素で手短な儀式を条件に嫁ぎ先の要求を呑んだ。

 こうして今や人妻となった少女の名は、ジークリット=ワ=ファラー。

 ラングハイン伯爵の末娘で、ファラーの家名が無くとも、その派手な容姿が赤獅子キバキの子孫を公言している。

 とりわけ赤い髪と黄金の瞳を兼ね備えての誕生はキバキ以来で、ゆえに一族の中でも彼女は特別な存在と見なされていた。


「式も宴も面倒だったけど、ともかく死人が出なくて良かったよ」


 物騒な言葉を口にして、ジークリットは悪びれるどころか朗らかに笑う。

 不敵で大雑把な気性は所作からも見て取れ、まだ昼前だというのにフリルを重ねた末広がりの袖には何本もしわができていた。

 清々しい水色の召し物は大きく胸元が開いていて、健康的な小麦色の肌を惜しげもなくあらわにしている。また、猫を彷彿とさせるくっきりとした目鼻立ちが、彼女の快活さをよく表していた。


「私は侯爵に感謝しているわ。おかげで華やかに着飾ったあなたを見ることができたんだもの。きっと侯爵もご子息の晴れ姿を楽しみにしていらしたんじゃないかしら」


 一つ歳上の華奢な次姉イルゼが翡翠色の瞳を細め、男性並みに背の高いジークリットを見上げて優しく微笑みかける。


「うーん、私には血迷ったとしか思えないのだけれど……。姉様が喜んでくれたなら、あの豪奢な衣装を着た甲斐があったよ」


 妹とは対照的に次姉はおっとりとした慎み深い女性で、柔らかな蘇芳色の髪といい、素性を明かさなければファラー家の娘とは誰も思わないだろう。


 ――私はそれが嬉しい……、と言ったら姉様は怒るかな?


 イルゼの小さな手を握り、ジークリットもまた力強い笑みを返す。不意に頬が引きつったのは、別れの寂しさが込み上げてしまったからだ。

 宴の後、親族が足早に帰路に着き、残るはもう身内のみ。その家族も荷物をまとめ、今は馬車の支度が整うのを吹き抜けの玄関広間で待っていた。


「何? 心細いの?」


 若芽を思わせる瑞々しい黄緑色の瞳が、ジークリットの顔を面白げに覗き込む。先ほどまで両親とともに侯爵家の家族と談笑していた長姉だ。

 茜色の髪をきっちりと結い上げ、いかにも知的な印象を持たせる彼女は、妹の微かな表情の変化も見逃したりはしない。


「ま、当然かしらね。外見は大人びていても、中身は甘えん坊の末っ子ですもの」


「そこがリッティの可愛いところだと思うわ」


 イルゼはジークリットを愛称で呼び、育ちに育った妹の体を優しく抱きしめる。


「宴の最中ずっと気を張っていて疲れたでしょうに、最後まで毅然と振舞うあなたがとても誇らしかったわ」


「姉様たちや兄様たちが恥をかかないよう頑張ったよ」


「頑張りどころのそこじゃない感が凄まじくて、さすがお父様の娘だと思ったわ」


 揚々と胸を張るジークリットを呆れ顔で見据え、長姉がやれやれと肩をすくめる。


「あれでは花嫁というより花婿の護衛よ。せめてダンスの時くらい見つめ合ったり、幸せな二人の世界に浸るふりくらいしなさいな」


「名ばかりの結婚だって誰もが知っているのに、白々しい演技なんてしたくないよ。そもそもそんな器用な真似できないし」


 ジークリットは嫌々と首を振りながら、つと長姉の左手に視線を移す。その薬指にキラリと光る金の指輪は、彼女が後妻となった際に老男爵から贈られたものだ。


 ――姉様こそ……本当に幸せなの?


 二十歳の姉が父親よりも年上の男に嫁いだことに、ジークリットは未だ複雑な心境を抱えている。たとえ本人が望んだ結婚だとしても、頭の隅で考えてしまうのだ。

 赤獅子の血を受け継いでいなければ……、と。


「その様子だと初夜も進展なしみたいね。女性との噂が絶えない色男だから、もしやと期待したのにつまらないわぁ」


 玄関広間の中央で歓談する一団の中から、とりわけ見目麗しい青年に注目し、長姉は大仰に息を吐いて落胆する。

 忘れかけていたのに……。

 無駄な足掻きと理解しつつも身を屈め、ジークリットもまた二人の姉の陰から夫の端正な横顔を盗み見て、昨夜の出来事を思い出していた。

 きっと彼は慣習に則っただけ。自分をそう諭して寝所に踏み入ったものの、頭の中は酷く混乱していて、野生動物のごとく威嚇行動に出てしまった。


「……寝相は問題なかったかな? 蹴ってはいない……はず」


 目覚めた時、すでに相手は着替えを済ませていて、爽やかな朝に相応しい輝かんばかりの笑顔で朝の挨拶をしてくれた。そこは怯えたり、疎ましげに舌打ちするところだろうに。


「ぐっすり眠れたのなら幸いだけど、結婚式に加え、予想外に肝が据わっていて困る」


「危険は覚悟の上でしょう。命惜しさに花嫁を一人で寝かせるような男に、赤獅子の相手は務まらないもの」


「程々にしてもらわないと本当に死人が出るよ……」


 やや寝不足の新妻は密かに欠伸を噛み殺しながら、腰に帯びた飾り気のない短剣を一瞥する。


「経緯はともあれ、嫁ぎ先は国で五指に入る名家グリーベル。育ち盛りの胃袋を十二分に満たしてくれるでしょうよ」


「ひ、人様のお家だもの。私だって少しは遠慮するよ」


 身分は今や伯爵夫人、さらにいずれは侯爵夫人だ。しかし実際のところはただの居候である。

 慎ましさを忘れるべからず。そう戒めながらも、ジークリットの心は豪勢な食卓に沸き立っていた。


「顔がにやけているわよ、食いしん坊さん」


 すべてお見通しと長姉は笑い、甘ったれで食い意地の張った末っ子の頬を軽くつつく。


「姉上っ、リッティをいじめるな!」


「ロルフ兄様?」


 突如、姉妹の間に割って入ったのは、五つ年上の次兄だった。彼はそのごつごつとした手で長姉の肩を掴むと、精悍な容貌を一層険しくして非難する。


「いくら自分より可愛いからと言って、女の嫉妬は醜いぞ」


「は? 昔みたいに泣かされたいの?」


 長姉の凍てつく声と眼差しに、次男ロルフは慌てて距離を取り、その大柄な体躯で妹たちを庇う。


「二人とも聞いたか、あの悪魔のごとき毒言を!」


「いい加減に妹離れしなさいよ。だから恋人の一人もできないんじゃない」


「俺の騎士道にそんなもの必要ないっ」


「私は兄様が結婚してくれたら嬉しいよ?」


「面倒見の良いお兄様ですもの、愛情に溢れた温かい家庭を築けるわ」


「んなっ?!」


 ジークリットさえ仰け反って見上げるほど背の高い次兄が、妹たちの思わぬ勧めに愕然とする。その様子を長姉は鼻で笑い、折り畳んだ扇子の先で優雅に佇む義弟を指した。


「花婿殿とは同い年なんでしょう? せっかく親戚になったことだし、『月華の君』に女遊びの仕方でも教わったら?」


「俺はああいう好色な輩とは相容れない」


「そうなの? 私は案外馬が合う気がするんだけどな」


 艶聞の尽きない夫アレクシスと堅物の次兄ロルフを見比べ、ジークリットは両者の共通点を探してみる。

 一方は錆色の硬い髪を短く刈り揃え、筋骨隆々とした逞しい体躯を詰襟の白い軍服に包む無骨な聖騎士。

 もう一方は羽毛を重ねたような銀青の髪が美しく、優雅な立ち居振る舞いと上品な装いで数多の女性を魅了する貴公子だ。

 まるで正反対、されど互いに実直で家族思い。そのやり方が異なるだけで、目指す先は同じに思えた。


「アレクは……少なくとも大事な局面で嘘はつかない人だよ。だって口説き文句くらい幾らでも思い浮かんだはずなのに、『家督を継ぐためにファラー家の娘が欲しい』なんて正直に打ち明けるんだもの。おかしいよね」


 楽しげに笑うジークリットに対し、兄姉たちは皆一様に押し黙り、表情を曇らせる。末の妹を可愛がっている彼らにとっては、不愉快な話でしかないからだ。


「あれ? 面白くなかった?」


「俺はお前ほど器がでかくない」


 ロルフは歯痒そうに呟いて、分厚く大きな手でジークリットの頭を撫でる。上部だけまとめた髪は瞬く間に乱れ、それに気づいてもなお彼は手を離せずにいた。


 ――――違うよ、兄様。


 じんわりと伝わってくる次兄の温もりを感じながら、ジークリットはまぶたを閉じる。

 利用するのはお互い様。むしろ相手の不運さに同情すら覚える。

 こんな厄介者を妻にしてしまったのだから――――。


「何だ何だ、辛気臭い。永遠の別れでもあるまいし」


 軍服姿の長兄が弟を凌ぐ巨躯を引き連れ、四人の頭上に影を落とす。爽やかに整えた髪こそ暗い褐色だが、その分ジークリットと同じ黄金の瞳が眩い光を放っていた。


「馬車の用意が整ったぞ。ほら、侯爵とご家族に各自もう一度ご挨拶して来い」


「ちょ、ちょっとお兄様!」


「兄上っ、自分で歩けます!」


 長兄は優しくも頼もしい笑みを浮かべ、まごつく弟妹たちの背中を押す。その瞬間、ジークリットの胸に懐かしいものが込み上げてきた。

 二人の兄は父親に倣って王都で聖騎士として勤め、長姉は男爵家に嫁ぎ、そして次姉は世俗を離れて修道院へ。今や閑散とした伯爵家のかつての賑やかさが戻ってきたようで、嬉しさに堪らず頬が緩む。


「おお、お前たち! 早く馬車に乗り込め!」


 開け放たれた玄関扉の前で、ラングハイン伯爵が棍棒のような太い腕を振り上げて我が子を呼ぶ。

 ファラー家の五代目当主であるその偉丈夫は、まさに赤い獅子であった。獣じみた猛々しい容貌、燃え上がるような赤髪と顎ひげはたてがみを思わせ、身内ですら時折彼の二足歩行に違和感を覚えた。


「お父様、無駄に声を張り過ぎ。周りの迷惑を考えてって何度言わせるのよ?」


「ぐっ?! う、うむ……、すまん」


 長女の厳しい叱責に伯爵はたじろぎ、珍しく貴族らしい装いの巨体を縮めて謝罪する。バルドゥールの猛る守護神と言っても、家族から見れば娘に弱い五十間近の父親だ。


「……ジークリット、達者でな。良き妻として婿殿を支えて差し上げるのだぞ」


 父親の輝く翡翠色の眼が、名残惜しそうに末娘の姿を映す。ほんの一瞬、娘は戸惑いを見せたが、すぐにいつもの明るい笑顔で頷き返した。


「任せて、父様。お世話になる分はきっちり働いて返すから!」


 やはり護衛のような心構えで、ジークリットは細くも張りのある二の腕に力こぶを作る。しかし、そんな逞しい娘の姿に感動している辺り、伯爵の頭は見た目と同様にほぼ筋肉で構成されているらしい。


「……母様もどうぞお元気で」


 巨大な肉壁の激しい抱擁に耐えながら、その近くでひっそりと佇んでいたふくよかな女性を視界の端に捉える。

 物静かで優しげな次姉によく似た雰囲気を持っていたが、母親に対するジークリットの態度は淡白なもので、相手が何か言いかけた途端に同じ黄金の瞳を冷たくそらした。

 母と末娘の確執に家族の誰も口を挟まない。それが母の指示と気づいているからこそ、ジークリットの苛立ちは余計に増していた。


「ねえ、リッティ」


 花々で飾られた玄関を出たところで、イルゼが腕を取って耳打ちする。


「もし……もしもよ、限界だと思ったらいつでも私を頼って来てね。あなたは修道院の安全や寄付金のことで躊躇していたけれど、何も心配いらないわ」


「……ありがとう、姉様。でも……」


 卓越した裁縫技術を持つ次姉と違い、ジークリットにはここまで育ててくれた家族に恩を返すすべが無い。仕事をしようにも誰よりも悪目立ちするこの容姿では働き口は見つからず、災いばかり呼び寄せてしまう。


「リッティ……?」


 小柄な次姉をぎゅっと抱きしめて、ジークリットはわずかに顔をしかめる。そしてため息交じりの笑みをこぼし、本心とは裏腹に勢い良く体を離した。


「大丈夫。居場所は自分で見つけるものだって、昔読んだ冒険小説に書いてあったから」


 逞しいとも楽観的とも思える発言で会話を終わらせ、イルゼの背中を押して送り出す。

 他の兄姉たちも新郎側の家族に挨拶を済ませると、幾度か後ろを振り返りながら、己の荷物を積んだ馬車に乗り込んでいく。玄関前に並ぶ四台の馬車の一つは侯爵家のもので、車内では王都で勉学や仕事に励むアレクシスの弟二人が出発の時を待っていた。

 結局、彼らとはまるで打ち解けられずに終わったが、それが最良だとジークリットは思っている。下手に関わって、二人の身を危険に晒すわけにもいかない。


 澄み切った青空の下、四台の馬車がゆっくりと走り出す。開けた扉から身を乗り出して手を振る次兄にジークリットも応え、その影が小さくなるにつれてじわじわと目頭が熱くなっていった。


 泣くな。もう私は一人なんだ。慰めてくれる優しい手はもう――――。

 震える頬を清々しい初夏の風が掠めていく中、必死にそう鼓舞する。


「髪飾りが落ちそうだよ」


 甘やかなその声に弾かれるように振り向いた瞬間、髪の隙間から金の髪飾りがするりと滑り落ちていく。ジークリットが咄嗟に手を伸ばすより早く、いつの間にか隣に立っていたアレクシスが難なくそれを受け止めた。


「ありがとう」


 手渡された髪飾りをそっと握り、優形だが頭一つ分は背の高い夫に安堵の笑みを向ける。

 すると彼の切れ長な瞳が緩やかに弧を描いて、普段は涼しげな青緑色が不思議と温かみを帯びて見えた。


「どういたしまして。その髪飾り、ヴァインガルトナーの職人が手がけた物だね」


「へえ、品を見ただけで判別できるんだ」


 長姉から譲り受けた、橙色の縞瑪瑙と繊細な縁取りが美しい金細工。装飾品に疎いジークリットでも、それがいかに手の込んだものかは感じ取れる。


「侯爵領には腕の良い細工師が沢山いるんだってね」


「そのほとんどが元は鍛冶屋だよ。ヴァインガルトナーはサヴィナ帝国と接する北の要所だからね。侵攻に備えて常に人材を求めているし、そんな彼らが腕を競い合っていつしか職人の街へと発展したんだ」


 三百年前、サヴィナ帝国の占領部隊を殲滅した後も長く小競り合いは続き、その戦場となっていたのがヴァインガルトナーを始めとする北部である。


「兵士が敵軍と争っている裏で、職人たちは同業者と切磋琢磨していたわけだ」


「彼らの技術を我が家で宣伝して回った甲斐あって、今では国外からも注文が来るよ」


「宣伝? もしかしてそのクラバットの留め具も?」


 ジークリットは無遠慮に顔を近づけ、アレクシスの首元で輝く宝飾品を凝視する。それはユリを銀で精巧に象った芸術的な一品で、葉の部分には不純物一つない鮮やかな緑柱石が嵌め込まれていた。


「こうして身につけて茶会や夜会に赴けば、大勢の人に見てもらえるだろう?」


「なるほど、歩く広告塔ってやつだね」


 立っているだけで人々の関心を集めるアレクシスなら適任だ。そしてこの逸材の目に止まるため、あらゆる職人たちが日夜励んでいることは優に想像できる。


 例えば、彼が今身に着けている服。

 膝丈ほどの上着は光を当てるたびに乳白色の生地に細やかな文様が浮かび、立ち襟と折り返し袖の刺繍はまた見事で、銀糸と鮮やかな孔雀色が彼の上品さを際立たせていた。

 滑らかな牛革の長靴には、靴底から伸びるつる草の刺繍。己を飾ることに無関心なジークリットも、乗馬用に一足欲しいくらい洒落ている。


「けど今後は君に託そうかな。華やかな女性にこそ相応しい役目だ」


「冗談でもやめてよ。職人たちの努力を水の泡にするつもり?」


 ジークリットは眉根を寄せ、突然の提案に不快感をあらわにする。叱られた夫は何故か楽しそうだったが。


「あのね、ちゃんと理解している? 私を妻にしたせいで、いかに名家でも社交界から爪弾きにされかねないの」


 これは結婚前から再三忠告してきたことなのだが、毎度アレクシスは柔和な微笑みを崩さない。むしろどんどん自信を増して、今や相手を気遣う余裕まで備わっていた。


「安心して、根回しは粗方済ませたから」


「え? 何したの?」


 素で聞き返す妻をアレクシスはじっと見下ろし、微かに濡れた目尻を優しく撫でる。その手は思いのほか大きく、綺麗な顔に似合わず節くれ立っていた。


「……泣いてないよ」


 嘘ではないのに内心ドキドキしてしまう。それでも微動だにせず、興味深げに眺める夫からけして視線をそらさなかった。


「強がる君も可愛いが、今は甘えてほしいな」


「過度な優しさは大惨事の元だよ。感動のあまり歯や爪を立ててしまうかも。しかも不器用だから加減できないし」


「いくらでもどうぞ。それで君の心が晴れるなら」


 くわっと口を開いて威嚇した妻を、アレクシスは嬉々として懐に招き入れる。


「待って待って、その反応はおかし……ぐふっ」


 長い両腕で抱き締められた瞬間、彼の使う香水の匂いがジークリットの鼻腔に流れ込んでくる。

 それは木々や香草の濃密な香り、そこへほんの少し柑橘系の香油が混ざることで、渋さよりも清々しさが先立っていた。

 ……男性の香水なんて初めて嗅いだ。父様も兄様たちもつけないもの……って、今はそんな場合ではなくて――――あれ?

 慌ててアレクシスを押し返そうとするも、彼の硬く引き締まった肉体に触れた途端、つと手を止める。


「結構、鍛えていたんだ……」


 痩せているのかと思いきや、予想外にがっしりとしている。

 ジークリットが夢中になって感触を確かめていると、くすぐったかったのか頭上でアレクシスがふっと笑い声を漏らした。


「わっ、ごめんなさい! ベタベタ触って……」


 我に返るやすぐさま後ろへ飛び退き、距離を取った途端、アレクシスが残念そうに眉を下げた。


「遠慮する必要はないのに。僕らはめでたく夫婦になったのだから」


 めでたい? ……ああ、そうだね。これでアレクは目的達成、順当に次期侯爵の座を継ぐことができる。

 そして――私はもう用済みになる。

 数秒前まで動揺していた心がすっと冷え、一瞬にして静けさを取り戻す。しかし、次は自分が目的を果たす番だと思えば、豊かな胸がまたも早鐘を打ち始めた。


「アレクシス、ジークリット! お茶にしないか?」


 玄関扉の前でグリーベル家の十六代目当主、そしてアレクシスの父親であるヴァインガルトナー侯爵がにこやかに二人を呼び寄せる。

 彼の背丈はジークリットとそう変わらず、四十過ぎとは思えぬ童顔で貫禄に乏しい分、親しみやすさに溢れている。柔らかな黒髪を品良く整え、淡い榛色の瞳は穏やかで、息子のアレクシスに比べれば地味だが、響きの良い声や温厚な人柄はよく似ていた。


「あなたたちも明日にはここを発つのでしょう?」


 寂しげに細い肩を落とすのは、侯爵とともに見送りに出ていたアレクシスの祖母だ。

 白髪交じりの清楚な老婦人は一年前に夫を亡くし、今は一人――正確には奥に控えている使用人たちと共に、この別荘で隠居生活を送っていた。


「ええ、母上。私はともかく、息子たちにはゆっくりしていくよう勧めたのですが」


「今からでも新婚旅行の計画を練っては? 場所を厳選すれば可能でしょうに」


「赤獅子にとって安全な地など、このバルドゥールにはありませんよ。実家にすら刺客が湧く始末ですから」


 ジークリットの一言で場が静まり返る中、当人だけは何を今更と言わんばかりにあっけらかんとしていた。

 ファラー家に恨みを持つ者は多い。

 サヴィナ帝国を始めとした外敵、英雄キバキの活躍で威光を失う羽目になったメーア聖教、国王から厚遇を受ける彼らに嫉妬する貴族もいれば、強大な力を危ぶむ臣民もいる。

 それでいて、他国にその血を渡すものかと国外へ出ることを禁じているのだから、極めて勝手だ。


「侯爵と大奥様のお気持ちは嬉しく思います。けれど、私のようなファラーの血を色濃く継ぐ者は標的にされやすいのです」


 長居すればするほど危険性が高まるし、過度な移動もできるだけ避けたい。

 ジークリットはまるで他人事のように淡々と説明し、そんな自分がどれほど異常かも理解していた。

「僕は構わないよ」


 伸しかかる重い空気を、アレクシスの声が優しく浄化していく。


「大事な人がこうしてそばにいる。それが何より幸せなことでしょう?」


 まるで深い愛情がそこにあるかのような口ぶりで、品行方正な貴公子は妻の肩を抱く。結婚へ至る事情はこの場にいる全員が知っているというのに、よくもまあ平然と嘘がつけるものだ。

 しかし呆れたのはジークリットのみで、他の二人は大いに共感し、切なくも甘い記憶を噛みしめていた。


「ああ、いけないね。感傷に浸っていては彼女に怒られる」


 侯爵の言う『彼女』とは、恐らくアレクシスの母親のことだろう。十年ほど前に病で他界した話はジークリットも聞いている。


「申し訳ありません、父上。けして悲しませるつもりでは……」


「お前が正しいよ、アレクシス。どれほどの楽園であろうと、愛する者の面影が残る我が家に勝るものはない」


「……そうね。私がここへ移り住もうと思い立ったのも、主人に初めて出会った場所だからかしら」


「何故、あの陰気で偏屈な男をお選びになったのか……」


「故人を誹謗することは許しませんよ」


 誰に対しても親切な侯爵が辛辣に父親を語る。老母にたしなめられても彼は渋面を作ったまま、積もり積もった憎悪を隠す気もないらしい。

 父子の確執をジークリットも詳しくは知らない。ただ、恨んで当然の人物だと認識している。アレクシスは特に――。

 ジークリットがそっと様子を窺うと、彼は侯爵と老婦人のやり取りに苦笑いするのみ。澄んだ青緑色の瞳は凪の湖面のように穏やかで、それが余計に謎めいて見えた。


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