心の庭
──やわらかい、と思った。
そのつぎに、ふと、愛しいと思いそうになった。
唇を離すと、目の前でケインのまぶたが開かれた。深い森みたいな灰緑色。
慣れ親しんだ幼馴染の庭師の瞳。
これは、練習。ただの練習。
私はこのあと、お会いしたこともない公爵子息と婚約するのだ。
「練習終わり! これなら恥をかかなくて済むわね」
「恥も何も……グレイスお嬢様はいつも素敵ですよ。ちょっと気が強すぎるだけです」
「一言余計だわ、ケイン」
ケインは私より三つ年上で二十歳になる。背の高いハシバミ色の髪。
バルマン男爵家の庭師の息子で、令嬢の私が赤ちゃんの頃から一緒。彼も泥だらけになりながら立派な庭師になってくれた。今は親子でうちに仕えてくれている。
庭でケインの話を聴くのが何よりも好きだった。花言葉、薬草の用途、原産国……まだ見ぬ外国のお話。
私たちの季節を彩っていたバーベナ、カスミソウ、ローズマリー、藤……。
子どもの頃、家庭教師に教えられた世の中の仕組み。この国は女子にも領主の継承権があると知って、最初に質問したのは……。
「私とケインは"けっこん"できるの?」──だった。
家庭教師の返答は覚えていないけれど、その頃はそんな他愛ない夢を持っていたのだ。
私が思春期にさしかかると急にケインは敬語を使うようになり、お互いの間には一枚の透明な壁ができた。
庭での花講座の時間は淑女教育や文学教育の時間となり、会話もなく窓から庭師の親子を見かけるくらいの毎日になってしまった。
そして、つい数週間前のこと。父様が婚約の話を持ち出した。
私の相手はソーントン公爵家の一人っ子。
公爵家ご夫妻はかねてから私の両親とも友人同士。私はそのご子息に会ったことはないけれど。
きゅうに縁談がもちあがり、双方の両親たっての望みならと、それを叶えないのは……私も忍びなくなってしまったのだ。
男性と文通さえしたこともない私は、恥をかかないためにあれこれ思索して、そして……。
こうして幼馴染に"練習台"になってもらうことにした。
予行練習をしたのだ……その、口付けの。
「無理なお願い、聞いてくれてありがと」
「いえいえ」
「じゃあ、午後には出発だから、着替えなくちゃ」
「そうですね……馬車の到着が遅れているようなので、俺も門番と話してきます」
そうして私たちは飛孔雀草の花畑から出た。
飛孔雀草はこの地方が原産の花。碧色に輝く花弁が八枚、螺旋状に重なって花開く独特の植物だ。
花弁の裏に鮮やかな山吹色があり、翼を広げたときの孔雀に似ていることから名付けられた。
花言葉は『あなたと添い遂げる』。
子供の時に、この花畑でケインがわたしを抱えあげてくるくる回ってくれたことがあったっけ。
あの頃は、自由や永遠なんてものを信じていた。
今週、うちのバルマン男爵家が出向き、ソーントン公爵家での一週間ほどの滞在のなかで婚約の手続きを終える予定だ。
両家の距離は馬車で丸一日。私には、両親がついてきてくれる。
その間は、お婆様とケイン、執事たちが留守をまもっていてくれる。
この権力抗争もなにもない平和な地で、死ぬまで暮らすのだと思っていた……。田舎の落ちこぼれ貴族なんて言われてもよかった。なにもかも、大好きな家。
嫁いだら、これらともお別れなんだわ。
着替えた私は、両親と共に待機する馬車の前で、使用人たちに挨拶した。
ケインも、綺麗な服に着替えて執事の横に並んでいる。
父様が一人一人の肩に触れ、「家のことを頼む」と仰った。
自由……そう、自由な身のうちに、彼に伝えたいことがあった気がする。
それははっきりした形を持てないまま、あやふやな別れ際の言葉で私の唇から零れ落ちた。
「ケイン、私……わたし……」
彼はどこか寂しそうに微笑んだだけだった。
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
***
土ばかりの田舎の道と違い、規則的な石畳が敷かれている。白亜の壁に、ワイン色の屋根が映えていた。
建物正面の花壇には飛孔雀草のたくさんのつぼみ。
ソーントン公爵家の館は、おとぎ話の舞台のように輝いている。
皆様、わざわざ馬車の到着を出迎えて下さった。最前列に出てきている素敵な髭のお方は、私が子供の頃にお見かけした覚えがある。ソーントン公爵殿下だ。
彼は藤色のドレスの私を見るなり、冗談を仰った。
「おやおや、バルマンの家はこんな宝物を隠しているんだな?」
父様と公爵殿下は嬉しそうに握手し、肩を叩きあった。
そして、隣にいた公爵殿下のご子息が先に挨拶をくださった。
「トラハルティア・ソーントンです」
「少し気の弱い息子だが、優しい夫になりますよ」
トラハルティア様はミルクティー色の柔らかな長髪で、瞬きする度に長いまつげが揺れ、とてもお美しい。
私のお婆様が飼っていた大きな優しい犬を思わせるお方だ。
「グレイス・バルマンです。どうぞよろしく」
私はカーテーシーで皆様にご挨拶した。
そして、「滞在中グレイス様の世話をするうちのメイドです」と、公爵殿下が女性を一人連れてきた。
背が高く、聡明そうな黒髪のメイドだ。
「マリエと申します。グレイス様、なんなりとお申し付けください」
***
ご挨拶が終わり、ソーントン家の皆様と美味しい夕食を共にして、与えられた部屋でぐっすり眠った。
翌朝トラハルティア様は、庭のお散歩へ私をつれていき、屋敷の周りを案内してくださった。
マホガニーの玄関ドアを出ると、来るときにも見た飛孔雀草の花壇がある。
彼は花壇を熱心に眺める私に気がついたようだ。
「この花壇は父が母に贈ったものなんです」
「まぁ、素晴らしい」
「両親は珍しい……恋愛結婚をしましたから、愛をうたう花をあれこれ家に飾るのが好きみたいなんですよ」
珍しい恋愛結婚……。その言葉を口にするとき、トラハルティア様の顔がすこし曇ったように思えた。
私の両親は政略結婚だ。父様はやんちゃをしすぎて親戚から煙たがられていたし、母様は没落寸前の家柄だった。でも二人とも静かな環境が好きだからか、田舎暮らしでそれなりに仲が良い。
恋心はなくとも、私たちもうまくやっていけるのではないだろうか。
私に都会の貴族の知識が足りないのは心配だけど……。
「グレイス様、これからよろしくお願いいたしますね」
私に歩幅を合わせて隣を歩きながら、トラハルティア様は柔らかく微笑んだ。
***
今夜の婚約発表パーティに向けて、メイドのマリエさんが私の髪をシニヨンにアレンジしてくれている。
彼女はきびきびしていて家庭教師を思わせ、私はついつい敬語を使ってしまう。
「グレイス様、滞在中に学んでいかれたいことはありますか?」
「そうですね、ソーントン家は、この国をどう良くしていきたいのかとか」
「素晴らしいお心がけですわ。写本の輸出が見直されると、もっと豊かな国になると思いますけど」
「本を輸出するのですか?」
「単価も高いですよ、写本は」
「へえー」
まったく知らなかった。公爵家の嫁がこんな無知でいいのだろうか……。
マリエさんは続けた。
「この国は周囲の国より識字率がだいぶん高いですよね」
「ええ」
私も、まだ十になる前に基礎的な古典文学を含む国語を完全にマスターした。父様が文学好きだったから、ほかの子供よりも早かったのかもしれないが。
平民の学校制度も王立の組織化をされていて、他国よりかなり充実している。
マリエさんはさらに話してくれた。
「写本製作は人手が足りていません。それは、古いしきたりで貴族と僧侶だけの仕事とされているからです」
「なんだか、もったいない話ですね」
「ソーントン家の領民のうち、八割が農民です。その中に、冬季に耕作や畜産をできない者が半分ほどおります」
「そんなに」
考えたこともなかった。私の実家の領民も、たしかに農民はすごく多い。冬はほとんど会わないから、何をしているかは知らない。
ケインも、花や薬草を育てる役目の農民と言えるかもしれない。
「彼らは編み物と食品加工をして冬を過ごしていますけど、希望者を公館に呼んで写本を作ってもらえたらいいのにと思って」
「えっと、なんていうか……『写本のお手本』を示したら、それを同じ部屋でたくさんの人にやってもらうってこと?」
「その方が、生産効率がよくありませんか? 人々の雇用も増やせますし、木造の民家より石造りの公館のほうが暖房もききます」
「わあ、たしかに」
マリエさんすごい!
領地の人々のことまで考えているなんて。そんなこと、私たちよりずっと長く生きてきた領主様たちでも思い付かない。
この人は……なんて頭がよく、真面目な人なのかしら。
「そ、それをソーントン公爵殿下に早く言わなくちゃ!」
「このあいだ、殿下に提案してみようと思ったんですが、若輩の平民の女の身で差し出がましいかと思って……。まだ伝えていません」
「そんな……」
そんなこと……。
身分って、なんなのだろう。
本質的には色々な人が国を良くしようと考える能力や心があるのに、制度がそれを阻んでいるように感じた。
「さ、出来ましたよグレイス様! とってもお美しいです」
「ありがとう! ふわふわね」
パーティーではこれまた美味しいご飯が出ると聞いて、ゆるめにコルセットを絞めてもらう。そして清楚な夜会ドレスに着替えた。
***
私たちの婚約披露パーティーには、爵位ある身分の六十人ほどのお客様がお越しになった。田舎貴族の私にとって、今まで参加した中では一番大きな集まりだ。
この場にお婆様と、私の家の使用人たちがいないことを、少し寂しく思う。
ソーントン公爵殿下が両家の婚約の発表をし、私たちも短く今後の展望を語った。
少しまばらな拍手が、急すぎる婚約に戸惑う皆さんのお心を表している気がする。
立食式のパーティーが始まり、お酒が振る舞われる。むしろこちらの方を目当てにお越しになっていそうなご老人たちが、部屋の隅に固まって楽しそうに語り合いはじめた。
マリエさんたちは忙しそうに会場を回っている。雰囲気はとても和やか。
きらびやかなシャンデリアの下、カルテットの楽団はワルツを奏で、広間で数組の男女がダンスを踊る。
私の隣で、婚約者はそれを眺めているだけ。
「トラハルティア様は踊らないのですか?」
「いやあ、僕はダンスがとても苦手で……。グレイス様は?」
「私はダンスは好きです」
その言葉を言い切るかどうかのうちに、斜め後ろにおられたソーントン公爵殿下が、私にいたずらっぽく声をかけてくださった。
「では、わたしと踊っていただこうかな?」
婚約者同士で、顔を見合わせて笑った。
「ええ、殿下喜んで!」
私は元気に立ち上がる。
──この家でなら、私は幸せに暮らしていける。そう思った。
***
パーティーのあと、疲れた私たちはリビングでゆっくりと休んだ。トラハルティア様もお疲れのようだ。
私はパーティーの最中から実感していたことを話題にしてみた。
「まだまだ実感がわきませんけど……。私たち、夫婦になるんですね」
「夫婦……。そうですね」
トラハルティア様が恥ずかしそうに私の方を向き、手を握ってくださった。
ゆっくりと顔が近づいてきて……そっと、唇が触れた。
「……」
触れた……けれど、私はそれになんの感情もわかない。
これはどうしたことだろう。せっかく予行練習をしてきたのだけど……。
***
その夜のこと。
水差しが空になったのでいただこうと思い、寝室から出た。すると、真夜中の廊下にひそやかな話し声があった。玄関の灯りから影が落ち、廊下のカーペットに、寄り添う二人の人のシルエットが伸びている。
私は慎重に廊下の角の壁に背をつけて、息をひそめてそっとそちらのほうを覗きこみ、耳を澄ませた。
……トラハルティア様と、マリエさんだった。
涙にくれるマリエさんの肩を、これまた泣いているトラハルティア様が、優しくさすっている。
「お願いいたします。どうかわたくしのいない場所で……お幸せになってください」
マリエさんの口から、苦しみにまみれた言葉が絞り出されていた。
「身分って、なんなのだろう」
トラハルティア様が悲しそうに沈んだ声で呟いた。
その言葉は私の胸に大きく穴を穿った。
私の心に中にあるものと同じだったから。
マリエさんは鼻をすすってから、前向きな笑顔を作ると、彼の肩をポンポン叩いて励ますようなしぐさをした。
「ほら、あんな明るくて素敵な方が、あなたの奥様になるんですよ。そんな幸福がありますか。元気をだして、"トリー"」
「グレイス様は大好きだよ。すぐ仲良くなれた……。でも、だけど……」
これは……。疑いようもない。
トラハルティア様のお心は……。
私は締め付けられる呼吸を必死に隠して、廊下を居室まで戻った。
***
目が覚めて、騒がしさに階下へ降りてみると、朝からソーントン家の玄関が色彩に溢れていた。
うちの実家からソーントン家への贈り物。荷馬車ひとつ分もある、たくさんの花が届いたのだ。
スイートピー、アジサイ、ガーベラ……すべて初夏らしいゼリー菓子のような白とピンク色。センス良くまとめられた見事な花々。
なつかしい庭の香りで胸がいっぱいになる。
使用人たちが、きれいですねえ、いいですねえとそれぞれ嬉しそうに感想を述べながら、それを館の色々な場所へ運んで飾っていっている。
私個人の居室に戻ると、その部屋宛てにも荷物が届いていることに気がついた。
ケイン親子の名で贈られてきていた鉢植え包みを開けると、現れたのは小山のようなブライダルベール。
──どうして。
鏡台に置かれた白い細やかな花を見た途端、涙が止まらなくなった。
知っている……昔からケインが何度も何度も教えてくれたもの。
ブライダルベールの花言葉は、『幸せを願っています』……。
突然ろくに何年も会話できなくなって、気持ちのやり場が分からないでいたのに。そんな、そんな突き放すような幸福の願いかた。悲しすぎる。
いま、はっきり自覚してしまった。
私の心は、あの庭にあるのだ。
ドア枠のところで驚いて立ち尽くしているトラハルティア様の姿が目に入った。
「どうなさったんです、グレイス様」
「あ……あ、トラハルティア様……」
訳を話そうにもいまは言葉が繋がらず、支えて下さった彼の肩で、ひとしきり泣いた。
***
「故郷に忘れられない人がいるんです」
「……グレイス様……」
「トラハルティア様はマリエさんのことを……でしょう?」
「……あ」
「なにも言わないでください」
トラハルティア様はぽつぽつと話し出した。
「マリエは、貧しい農家の出です。……十年と少し前になりますか、僕が八つの時、十二歳のマリエがメイドとして雇われてきました」
マリエさんは、農民たちの生活の実態をしっかりその身で経験してきたのか。
──だから写本についても、新しい視点の発想ができたんだわ。
トラハルティア様は、私へ頭を下げた。
「両親を喜ばせたかった……深い考え無しに婚約を了承したことをお許しください」
「そんな……それはお互い様です。私も同じですわ」
浅慮と言えるかはわからないが、両親同士の交友に溝が入りでもしたらどうしようという気持ちもあった。
私も押しに弱かったが、彼がそれ以上なのは何となく見ていてもわかる。
「トラハルティア様、人生は一度きりです」
「……そうですね……。そして、僕たちの人生は僕たちのものです」
「ええ」
私たちは、その夜遅くまで話し合った。
「起こしましょう、革命を」
「グレイス様……」
***
翌日の昼の食事会。
ソーントン家とバルマン家の全員で、テーブルを囲んでいた。
プティングと新鮮なお魚料理。白い日光は美しい窓枠の装飾の影をテーブルクロスに落としている。
トラハルティア様に目をやると、まだお食事に全く手を付けておられない。それもそうか。これから起こることのプレッシャーで、食欲なんてわかないだろう。
私たちは、目を合わせてうなずいた。
先に私の口から、決意していた言葉を口にした。
「皆様、あの、私たち……。僭越ながら、婚約を破棄にしようと思っています」
四人の両親たちが一斉に手を止めてこちらを振り返った。
ソーントン公爵殿下が返す。
「む、息子がなにか無礼を?」
「いいえ!」
私の思いきりの否定に、公爵夫人が驚いて跳ね、食器をかすめたガチャンという音が部屋に響いた。
「グレイス、何を言っているんだ」
父様が慌てて全員の顔を見回している。
気の弱いトラハルティア様が、懸命に席から立ち上がって顔を前に向けて宣言なさった。
「父さん。皆様。僕はマリエを愛しています」
そして、「申し訳ありません」と、トラハルティア様は目を伏せて一筋の涙を流す。
この世に愛の真実があるとしたら、いま彼が示したものだ。
どれだけ多くの人々が、いままでの歴史のなかで、それを体現することができずに命を散らしたのだろう……。
マリエさんはそれでも使用人としての使命を果たし、他のメイドと共に入り口で待機の姿勢を保ったまま……真下を向いて肩を震わせている。前で握りしめた両手が、白くなるほど痛々しく力が込められていて。
隣にいるメイド長とおぼしき年配の女性が、それを心配そうに見つめている。
言葉が勝手に体から出てくる。
「申し訳なくなんかないわ……申し訳なくなんてありません」
心が張り裂けそうだ。
母様の視線が痛い。
「このグレイス・バルマンも……。私の愛する人も……平民です」
私の口から、ずっと渦巻いていた世界への疑問がふつふつと勝手に飛び出してくる。
「身分とは、なんなのですか?」
……その場の大人たちは、誰も、答えられなかった。
「それは、人の本質と……心と関係あることなのですか?」
皆、私の言葉を聴いて下さった。
「私には経済の学も、家を取り仕切る家事の才も無いのです。爵位や両家の交友だけを基準に結婚を取り決めても、家族を護りきる自信がございません」
キッと前を向いたまま、私は続けた
「ですが、マリエさんにはそれがあります」
公爵殿下はうろたえている。
「マ、マリエが賢いのは我々もよく存じているが……」
「身分の違う者同士が結婚できないのは、形骸的なだけで、時代に遅れています」
きっぱり私は言い放った。
母様が、「時代……」と呟くように言う。
「ええ、そうです! 時代は変わっています!」
私の勢いに、公爵殿下は戸惑った様子で目を白黒させている。夫人は、不安そうに片手を伸ばして夫の腕にすがり付いた。
でももう止まらない。この機会を逃せば、いつに、誰になるか分からない。
私にどんな罰が下るかわからなくても、今言わなければ後悔するのだ。
拳をテーブルクロスに押し付けて、言い切った。
「私たちが最初に、身分なんてものを覆してみせましょう」
「グレイス……」
父様が至極残念そうな顔で、でもどこか私に期待を寄せるような表情で、私を見上げて言う。
「婚約を破棄して、それぞれ愛する者と結婚するということかね」
トラハルティア様と私は、同時に頷いた。
私の母様は懸念を示した。
「貴族社会の複雑な仕組みは、一日二日で覚えてどうにかできるものではないわ。あなたたちのお相手にどんな困難が待っているか……」
没落寸前の家から嫁いできて苦労の多かった母様は、子供たちみんなが心配なのだ。痛いほどその気持ちがわかる。
おずおずと公爵夫人が話し出した。
「わたくしは……賛成です。」
皆、彼女の方を見た。
「厳しいことも多い人生で、愛というものがどんなにかこの身を救って下さってきたかわかりません。息子に想い人がいたなんて本当に知らなくて……わたくしは母親失格ですわ」
そしてトラハルティア様と公爵夫人は、深く見つめあった。
トリー、ごめんね……と言うように公爵夫人の唇が無音でかすかに動く。
「私も賛成だ」
父様が口を開いた。
「庭には必ずしも花は必要ないが、花の無い庭で暮らすには人生は長すぎる」
文学好きの父様らしい言い回しだ。
「おっと、語弊があるかな。私の庭には徐々に花が咲いたのだよ。妻の美徳を知る度に、どんどんとね」
その言葉で、母様が満面の笑みになった。
「……わかりました。新しい時代ということ、わたしも信じるわ、グレイス」
公爵夫人は席から離れ、マリエさんの両手を握って何か囁きかけている。
ソーントン公爵殿下も腕組みをしてうんうんと頷いた。
父様が私の片手の上に、その大きな掌をそっと乗せた。
「グレイス」
「はい」
「黙っていたことを謝ろう。もう五年ほど前になるが、ケインから私へ、お前の未来を邪魔したくないと申し出があった」
「それは……存じ上げませんでした。邪魔だなんて……私はずっと……」
「あれは、世のため人のためなら自分を犠牲にする青年だから」
「! ……」
もうダメだ。耐えきれずに私は涙を溢れさせた。
「お前たちの気持ちを考えず……本当に申し訳なかった」
「父様……」
私がケインに"練習台"を頼んだのは、無意識の未練があってのことで間違いない。婚約先で恥をかかないためなんて、言い訳だ。
私こそ皆に謝りたかった。自分の心に正直になるのに時間がかかりすぎたことを。
やがて部屋の中が少し落ち着くと、公爵夫人が席に戻られ、家族全員が着席した。
ソーントン公爵殿下と父様は顔を見合わせると、肩をすくめてお互いに「まいったねえ」とでも言いたげにいたずら小僧のように微笑んだ。
公爵殿下が、グラスを掲げて仰る。
「心の庭が、いつも満開であるように」
皆、それに従い乾杯した。
***
私たちバルマン家の家族が帰路についたのは、その二日後のことだった。予定より三日も早い。
マリエさんは両親と話すため、今朝から実家に戻られているとのこと。お別れの挨拶ができなくて、とても寂しい。
少し開きすぎてきたケインの花が、この玄関を華やかに飾っている。
書面とは別に、トラハルティア様は両家の前で私に告げるべきことを口になさった。
「グレイス・バルマン様。あなたとの婚約を破棄します」
「……幸せな婚約破棄ですわ。ありがとう」
その場にいた誰もが、もはや異議を唱えず静かに私たちを見守ってくれた。
私たちはほんの、花の香りのようなひそやかな変化でも、歴史に与えることができたのかしら。
彼はまた泣き出し、ついには白手袋の大きな手で顔を覆ってしまわれた。
「はは、僕の方が泣き虫でした……」
私は吹き出しながら、トラハルティア様に心からの友情でハグして伝えた。
「マリエさんをどうか幸せにしてあげてくださいね?」
「ええ! もちろんです!」
散々ご迷惑をお掛けしたにも関わらず、優しい公爵夫人は私たちを気遣ってくださった。
「本当はお菓子を焼くはずだったんですけどね。ご予定が変わってしまったから、お土産、ご用意できていなくて……」
それを聞く母様もここ数日の激変で少し疲れているようだ。私の方へ向き直り、心配そうに訊いてきた。
「グレイス、お婆様たちへのお土産、どうしましょう?」
私ははきはきと答えた。
「構いません。私のせいだから、自分でお叱りを受けるわ。皆様ありがとうございます。それとは別なんですけど、できたら花壇の……あのお花をいただけないでしょうか」
***
ほんの数日離れていただけで、轍に咲く野の花さえ新鮮に感じる。
自宅の門をくぐり、ポーチの前で真っ先に馬車から飛び降りると、異変を察したケインが庭先から駆け付けてきた。
「……お嬢様?」
「ただいま!」
でも、こちらの帰宅の言葉に応えずにケインは顔を曇らせる。
「あ……、まさか公爵家で何か……」
「違うの、違うの!」
私は彼の方に突っ張った両手を否定の意味で振った。
「帰ってきたのよ。予定より大分早いけど」
「お帰りなさい……ですが」
「……」
「婚約破棄になってしまわれたのかと……」
「あ……えっと、うん。婚約は破棄になったのだけどね」
ケインが驚愕の顔で言葉を失う。
「違うの、違うの!」
私は再び手をパタパタ振った。
まだ馬車のそばに置いていたトランクから、ソーントン家でいただいた花を取り出す。
手の震えをごまかすことはできなかったけれど。誠心誠意を込めて、彼に差し出した。……飛孔雀草を。
ケインが取り落とした鍬が倒れ、ポーチの敷石で軽やかな音をたてた。
「帰ってきたのは、そういうことよ」
頬が熱い。
気がつくとケインの両腕に抱きすくめられていた。
緑と太陽の香りがいっぱいに広がる。
「……お嬢様」
愛しい! 今度こそ本当に思った。
彼はわたしを抱き上げると、くるくる回る。
「ちょっとケイン! いま、少し重そうにしたわよね?」
「すみませっ……、お嬢様、大きくなられましたね」
父様と母様、それにお婆様も、見ている前で。
子供の頃のように私たちは抱き合い、はしゃいだ。
***
驚いたことに、私たちの婚約破棄騒ぎは社交界でおおむね好意的に受け取られた。
噂を聞きつけた王家でさえ、この国にはこのような新しい時代の風が必要だと、仰られたそうだ。
……上の世代の方々も、皆、身分に阻まれる恋の経験が少なからずおありだったのかもしれない。
ソーントン家に傷をつけずに済んで、私は心から安堵した。
一年ほどして。
トラハルティア様とマリエさんの結婚式には、私たちバルマン家も参列した。ケインも大量のカサブランカとブライダルベールを用意してチャペルに現れ、──貴族のご婦人がたの称賛と質問に一日中振り回されたけれど──、私の婚約者として同じ席に座った。
白百合のようなマリエさんは堂々としていて、これからの公爵家の発展を象徴するようだった。
トラハルティア様はやっぱり泣き虫で、式の間じゅうめそめそされて、親戚一同にそれをからかわれていた。
ほんとうに、ありがとう……。
それからたくさんの……数えきれないほどたくさんの、人生の輝きと、影を経験した。
明日は私の宝物、娘が嫁ぐ日。
夫は大切に育てた花を大切に育てた娘と新郎に捧ぐべく、いまちょうど庭で泥だらけになっている。
トラハルティア様の美談は広く伝わり、この国では結婚において身分の違いによる制限がなくなっていった。
愛に真なる自由のある国として色々な人がやってくるようになり……。これはすこし笑い話かもしれないけれど、「駆け落ち保護法」まで制定されたのだ。
写本の輸出も盛んになり、本当に活気ある国になった。
『あなたと添い遂げる』──
飛孔雀草の花は、愛の代名詞として世界的に有名になり、いまもこの国じゅうを飾っている。
〈了〉