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O教授の追跡

作者: 旗 元彦

性的表現はありません。

「僕はね」とO教授は言った。

 女性と恋愛したりセックスしたり、でも女に感動させられたことはいままでなかった。どこかでそういったことを諦めていた。……女の方でも感動したことはなかったと思う。


 経済学部の経済的な人間として社会に出る年だった。O教授に異変が起きた年だ。俺には彼女であった夏子がただの彼女である以上に必要不可欠な存在となった、1995年、友人同然に親しくなってしまったO教授との交友。どちらも欠くことができずに、両者はときと場所と相手を変えて、お互いともにお互いから人生に、俺とそこで愛しあい、俺と親しくなった。こういったまるで水魚と空と水のような関係を、その年の現実に抱いていた。

 O教授の自宅は、警察署のある高台を下ると、五分後、高岡町に数店あるうちの三崎のドラッグストアと小さな個人の電気店に挟まれた道を通る。直進して、二番目の三方向に別れた道筋で、左折してまたもうちょっと車で走ればサッカー場のあるところを、そこを左折せずに右折して古いタイプの住宅街に入れば、彼の和風住宅はあった。


 これが最後の別れです、と言ってO教授に挨拶した。高岡町に借りていたマンションを、僕と入れ違いに、この町の大学に入る妹に、明け渡す用意ができたのだ。

「コレよかったらどうぞ、故郷の地酒です」

 俺は獺祭の大吟醸をO教授に渡した。

「よし、渡辺君、こっそり飲もうよ」

 O教授は背の高い体を日曜日の白猫みたいに動かした。彼は近くの研究室から小皿として使えるような器を三枚拝借してきて、丁寧に手首を右に回してドアに鍵をかけた。

 19時の飲み会が始まった。

 俺とO教授は深夜までたくさんのことを話したが、もうほとんど何を話したかは覚えない。花の蕾と実った果実を同時に飲むような獺祭の味にやられたせいかもしれない。

 妙に覚えているのは彼の夫婦生活の話だった。

 O教授が性欲について語るのを初めて聞いたので印象に残ったのだと思う。

「そんなに性欲が強いんですか」と俺は訊ねた。

「五十近くでさ、こんなに性欲に苦しむとは思わなかったよ。女房も苦しんでる。僕と家内は特殊な性癖を持ってるんでね……。詳しくはアレだ。まあ、地獄を感じるよ。性欲でね。地獄を感じるんだ。ああ、地獄に俺と妻はいるんだなって。

 僕らはね、お互いの性欲を解消するために、この年になっても、笑っちゃうような性交とプレイを行ってるわけさ。笑っちゃうよ、ホント」

「プレイですか」SMプレイとか幼児プレイだろうか。

「僕はね。女性と恋愛したりセックスしたり、でも女に感動させられたことはいままでなかった。どこかでそういったことを諦めていた。……女の方でも感動したことはなかったと思う。それなのにさ、性欲ばかりはいっこうに衰えないから、しまいには僕と家内で泣きながらセックスするんだ。辛いね、辛いね、っていいながらさ。あなた、こんなに勃って悲しいね。お前、こうしたらもっと、嬉しいんじゃないか。ええ、もうちょっとよ、あんまり感じないの。ってさ、地獄だよ」

 ―はあ、たいへんですね。

「それが最近になってね」

 O教授は小皿の日本酒を愛しそうに眺めていた。まるで酒の表面に女の許しが浮かんでいるみたいに。

 ははあ、それが言いたかったことなんだな。と俺は幸せそうに笑った。自分でも分かった。鏡を見たわけじゃないけど、O教授の顔を覗けばそれで十分だ。足りなきゃ、いまここで、俺はそこで笑っていたのは確実だった、と書けばいいんだ。そうだろう?

 そんな瞬間に幸せでなくて何が幸せ。

「ある日、僕とアレはラブホテルに行ったんだ。事情は忘れたな。気分的にそういったホテルがよかったんだろうね。アレは先にシャワーを浴びた。……次に僕が行った。風呂場を出たら部屋は暗かった。なにか、ペルーの先住民の岩山の洞窟に入ったような感じだったよ。暗闇で妻は静かにベッドに横たわっていた。あなた、私はあなたの物よ。と彼女は言ってくれた。この言葉は言葉という容器を乗り越えて僕の頭に木霊みたいに響いていった。ああ、この女は僕の物なんだ。この肉体はすっかりと僕が味わえる物体なんだとね」

 O教授は片手に持っていた小皿を落としてしまった。俺は少なからず驚いた。ところでO教授はというと、陶器の割れる音はまったくしなかったようだ。大学に用意された部屋で、彼はぼんやりと自分の部屋の壁に、色黒の顔の二重を向けて凝視していた。彼の現実とは違った現実で小皿が割れたようなふうだった。ここで小皿は割れ、別のどこかで小皿は繋がって割れたように。あるいは小皿はダイナミックな世界で人間的な名前を背負って割れ、ついでに小皿の世界では小皿は4メートルはある巨大な皿でありそこの世界の平均と異様な緊張を維持している。ついに、我々の小皿達はすべてが一致するよりも早く想像の隙間を探し出して、巧みに手を繋ぎだしてはいないか。

 O教授は言葉の路地にでも入り込んだように自室の天井を見回した。

 しばらくして彼は俺に笑いかけた。俺は一体どんな表情を返しているのか分からない。

 いつのまにか彼は残っていたもう一枚の小皿に酒を注いでいる。

「妻は僕に男であることの感動を生まれて初めてくれた女だよ。妻は僕に自分を物として差し出したんだ。あれは、すばらしい夜だったな……。僕は妻の肢体を撫でてみて、完璧な女のマネキンの身体より、ずっと美しい物質に思えた。とても冴えた感動は僕を襲い続けた。ほとんど女のアレの肉体は薄明かりだけでは見えずに、ベッドの上で白く星雲みたいに透き通ってた。

 僕は彼女を夢中で味わった。

 彼女は僕の物で。

 不思議に僕自身は彼女と一緒に居た。

 結局、僕と妻はセックスをせずに長い時間、ラブホテルで過ごした。僕らは喜びに満ちていて、セックスすることを忘れてしまっていた。ただ抱き合っていただけだったんだ。僕と妻は、その日ようやく、義務でもない義理でもない、性欲の発作から解放されたのさ……」

 O教授は黙り込み、俺と教授は黙々と獺祭を飲み続け、話は終わってしまった。


 彼との最後の晩酌の二年くらい後、O教授の奥さんは交通事故で急に亡くなった。

 O教授は、というと、奥さんの亡骸が棺桶に収められ、大勢の手に担がれて家に帰ってきた日の、数時間に行われたという話だけれども。俺が思うに、おそらく、十数分後、すぐに。葬式の準備もせずに、担がれてきた奥さんを棺桶から引っ張り出してしまい、畳に敷いた布団に奥さんを寝かせた。そして彼の息子夫婦が福岡を飛び出て、新幹線で駆けつけて帰ってくる前に、今度はO教授が妻のために、実行した。

 高岡町にある自宅でガスを家一杯に流して、O教授は奥さんと手を繋ぎ揃って布団に横たわると、二人とも死んでしまったのだ。

 それは誰にも予測できない、

 求愛的な死だった。

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