戻ってきた少年
あの異能者が戻ってくる気配はない。ならばと拘束したノアを影の騎士で日除けの屋根の下にまで移動させ、魔術師は魔術を解く。
魔術名「影の従者」、あるいはセリス・レイクと呼ばれる魔女は近くの段差に腰掛け、マスク越しにため息を吐いた。
「日本の夏は不快、あなたもそう思わない? 死を告げる者」
イギリスの湿気がないカラッとした暑さに比べて、日本の夏は高温多湿。ロンドンなら何も感じなかったマスクも蒸し暑く感じ、愚痴の一つ二つ溢したくなる。
「……」
そんな敵……いやかつての同僚に会話のキャッチボールを投げかけられても、蛹からミノムシ状態に待遇改善されたノアは返すことはしなかった。
「その様子だとまた魔術が発動した? 何もないくせにこんな極東まで逃げ出すなんて、協力者は一体誰なんだか?」
「わたしだってこんな魔術が欲しかったわけじゃ!」
「でしょうね。あなたには何も残されていない。――どうして魔導書と契約したかも、――自身の本当の名前も」
「うっ……」
呆れや怒りで睨みつけるセリスにノアは言い淀む。実際彼女の言うとおりなのだ。
何も言い返せないノアにセリスはもう一度ため息を吐いた。
砕けたタイルの二階建ての立体歩道、ヒビの入ったビルのガラス壁。戦いの痕跡が残ったままのここに留まっているのは、なにもノアを責め立てるためではない。
セリスは自分の影に手を突っ込んだ。しばらく水面のような影の中をまさぐり取り出したのは一枚の黒い紙切れ。
ノアの知識にもあるそれは簡易魔術具と呼ばれ、他の魔術師が所有する魔術を他者が行使できるようにした簡易的な魔術道具であった。
円の中の六芒星、さらにその中心には既存の言語とは違う文字が刻まれている。セリスはその文字に指先で触れ、
「発動」
と唱えて空に放り投げた。――すると風にのって天高く舞い上がった紙はポンッ! と音を立てて、真っ黒なカラスとなってそのままどこかへ飛んでいった。
「これでしばらくしたらあいつが迎えに来るはず」
「湖の騎士も来ているのですか?」
既にノアは自分たちの顔も忘れているはず。セリスはあれ? と一瞬疑問を覚えるが彼女の習慣を思い出してすぐに納得する。
「そうだけど、どうしてあいつのことを覚えて――ああ、いつも持ち歩いてた携帯端末のメモか」
逃避行中のノアが所持していたのはタロットとダウジングに使うペンデュラムなどの私物、結社の保管庫から持ち出した簡易魔術道具、それと携帯端末のみ。
その携帯端末もイギリスから持ってきた物で、日本では使い道が限られる。当たり前のことなのだが……、ノアの携帯端末はネット回線に繋がっておらず、通話やネットを介するサービスの類は一切使えず、さらにいうと電子マネーの類も使えるようにしていなかった。
それでも彼女は肌身離さず、必要となった時に備えて電源を切った端末を大事に持ち続けている。
その必要となる時というのは――魔術が発動した後。
ノア・サウセイルの魔術は記憶を消費する。
だから彼女は常に端末に記憶を残し、端末のカバーに「LOOK!」とペンで記してその時に備えてあった。
「どうせ、あいつの事を紳士とか優しいとか書き残してるんでしょうけど――それはあんたに対してだけよ。魔術師殺しの暗殺を取りやめるようあんたが言ったところで、あんたが知らないとこであいつは殺すわ。――必ずね、だってあれは融通の利かないクソ真面目だもの」
「どうしてですか! どうして――、どうして――」
壊れたレコーダーのように「どうして」と繰り返すノア。それにセリスは、
「だってあれは――あなたに届きうる剣でしょ?」
幼子が飲み込むといけないから危ない物は届かない場所へ退けておこう。そんな軽いノリで答える。
「それだけの理由で殺すと言うの……?」
「『それだけ』で十分じゃない。あれが高天原の異能者として、完全に力が目覚めた状態でイギリスと……いいえ、魔術と敵対したら? 唯でさえ危うい高天原と世界の天秤は崩壊する。その先にあるのは――高天原の独裁でしょうに」
もしあんな危険な力を自在に操る異能者になったら……。それを考えてセリスは身震いする。戦略兵器も無効化する技術を持つと噂される高天原が、その上魔術を無効化する術も持つことになったら? どこの軍隊も魔術結社も手が出せない事実上の支配者が君臨するのはどこも望んではいない。
「あの人はただの……お人好しな男の子です」
「何も憶えてないくせに」
「頭で憶えてなくても、わたしの心が憶えているのです。あなただって本当は――」
「うるさい! やっぱりあんたは気に障るのよ」
癇癪を起したセリスに拘束を強められて、ノアは「うぐっ」と肺から空気を吐き出す。
「なにが『ただの男の子』だ。殺されに来るような奴がマトモなわけないだろ」
セリスはすぐ横のビルを見上げる。三階の高さから人の声がしたからだ。この隔離空間に人間は三人しかいないし、迎えが来るにしても早すぎる。
ならあいつしかいない。
「死角に隠れて接近するつもりか。そんな浅い考えでっ、ぼくの『影の従者』をなめるな!」
「避けて! ケイヤ!」
「逃がすか――『穿て、司教』」
再び舌を出したセリスが呼び出したのは、さっきの騎士ではなく設置型の大砲であった。
形状は近代的な火砲の類ではなく、旧時代的な大型弩砲。射手の居ないバリスタは自動で音もなく弦を引き絞る。
「壁ごと粉砕してやれ――『射出!』」
装填された黒いボルトはひゅんっ! と風を裂く音だけを残して射出される。
速度にしてマッハ5の暴力が空を飛ぶ。分かりやすく例えると音の速さが秒速340メートル前後、一般的な拳銃の9ミリ弾がだいたいそれくらいだ。その五倍の速さで成人男性の腕と同じサイズもある巨大な矢が人間に向かって放たれたのである。
「――『再装填』『射出』、――『再装填』『射出』、――『再装填』『射出』」
速度だけなら戦車砲の徹甲弾と同等の砲撃が二射三射、次々放たれる。
計一〇発のボルトが打ち込まれる頃にはビルの壁は跡形もなく破壊し尽くされ、ビルの向こう側が見えてしまっていた。
息を呑む音すら聞こえてくる静けさ、
「そんな――」
ノアの絶望に染まった表情は言葉すら出ない。
「――これじゃ死体の確認も難しい?」
嵐の過ぎた静寂にセリスのブラックジョークがよく響く。それに答えたのはノアではなく――死んだはずの人間だった。
「そうだな――死んだ清掃ロボの残骸とオイルなら、すぐ見つかるんじゃねえか」
破壊した部屋とは二つ三つ隣の部屋から、死体も残らないほど粉砕されたと思った少年が飛び降りてきた。
「魔術殺し! 清掃ロだと――? なぜっ、鉄くずどもは異界の中で動きを止めていただろ」
歩道で一台も見かけなかった清掃ロボットであるが、圭哉がビルの三階から様子を見に行った時に停止中のドラム缶型ロボットを見つけていた。
街中で稼働しているロボットはオンライン制御型だ。衛星とリンクしたGPSや制御サーバーからの命令が途切れた場合、安全の為に一時停止する仕様となっている。
圭哉はそんな無制御状態の清掃ロボットを室内清掃モードに切り替えて、適当な部屋に放り込んだのだ。
「悪いが、時間稼ぎに付き合うつもりはない」
「時間稼ぎ? 騎士を呼ぶのに十秒もかからないさ!――『顕現せよ、騎士!』」
日除けに設置された透明なアクリルの屋根を足場にして、ドンッ! と少年が力強く着地した。
彼の眼を見てセリスは舌打ちをする。
(この短時間で戦う覚悟を決めた? 面倒な――さっきみたいにただ逃げ回ってればよかったのに)
さきほどまでの半端な覚悟しかない弱者の眼ではない、戦う覚悟を決めた人間の眼だ。
セリスは即座に遠距離用魔術の司教から近接用魔術の騎士に入れ替える。
(たしかに鉄くずの囮は一杯食わされた。ムカつくし、腹立たしいしけど――その程度の時間稼ぎに何の意味もない)
表面上は苛立って見せるもののセリスは冷静に自身の勝利を確信していた。なぜなら、間合いはまだ刀が届く距離ではないからだ。
騎士が素人如きに負けるはずがない。数多の魔術師からノアを守ってきた実績と自信が彼女を迷いなく動かす。『影の従者』に魔術と関わりのない大鎌さえ持たせておけば、消されることはない。
地面から生えてくる柄を騎士が掴むのと同じタイミングで、少年が武器を力の限り投擲する。もちろん投げた武器は、あの魔術を破壊する忌々しいあれだ。
「弾き飛ばせ!」
騎士に動かれたら勝てない。だからこそ、騎士が武器を取って動き出す前に潰すしか、この少年に勝ち目はなかった。
「……間に合った」
その声の主は圭哉――ではなく、セリスのほうだ。
彼女の従者は地面の影から大鎌を抜き取り、そのまま空に向かって振り上げていた。その途中で圭哉の刀は真上に弾かれ空でぐるぐると空しく回転していた。
終わりだ。もうこの男に打つ手はない。
勝利を確信したセリスの見たモノは、それでも止まらず走る圭哉の姿だった。