同じ笑顔で
「ケイヤ『さん』は気にしなくていいんです」
――ノアの記憶は戻らなかった。
この世に神なんていないのか?
冷酷過ぎる現実に圭哉はベッドのシーツに皺を作る。
「俺はっ――」
怪我を忘れて起き上がろうとするも痛みがそれを許さない。ボロボロな体で起き上がろうとする少年に気づいたノアは、
「ケイヤさん!」
と、少年の名を呼びながら尚も無理に体を動かそうとする彼を支える。
「どうして……どうしてっ」
頭を抱えてそう何度も何度も繰り返す圭哉に、ノアは小さな子供をあやすような優しい声で語りかける。
「ケイヤさんは私を解放してくれた。それ以上を望むのは我儘なんですよ?」
幾度と忘却を繰り返し、家族も友人も記憶から消え去ったと言うのにに――彼女はそれでも自分は幸運なんだと心から笑う。
それを見た圭哉は少女に代わって不条理を嘆いた。
人は何かを失った時、初めてそれが自分にとってどういう存在かを理解する生き物だ。だがしかし、忘れてしまった彼女には失った物を悲しむことすらできない。
白上圭哉はそんな彼女に代わって涙を浮かべる。
「我儘なわけあるかよ……ノアは魔導書の力で何を得たっ。おまえはただ失っただけだろ」
自分の痛みよりも他人の苦痛に心痛める彼を、ノアはただ微笑む。
「いいんです、これから取り戻していけばいいだけの話なんですから。これからは思い出がいくらだって残せる。そうですね……退院したらどこかへ遊びにいきましょう。もうセリスとは一緒に遊びに行く約束をしてるんです。ほら――わたしはもう約束を忘れる心配もしなくて済むようになったんだすよ?」
彼女はポジティブに前へ進もうとしているのに、自分がいつまでも引きずるわけにはいかない。
圭哉は強引に気持ちを切り替え、せめて彼女が望むことをしようと決めた。
「……わかった。ノアのやりたいことをやろう。食べ歩きでも、買い物でも、映画でも――なんでも付き合う」
そこで、ふと疑問に思う。
そういえば彼女はイギリスに帰るのか?
はたまた高天原に残るつもりなのだろうか?
しかしそれを尋ねる前に、
「ふふん、なら! 最初はこれが食べたいです」
言質は取った! とノアが得意げな表情でポケットから取り出した携帯端末を見せてきた。
そこに書かれていたのは、
期間限定全国コラボカップ麺『栃木イチゴラーメン(しょうゆ味)』。
高天原のインスタント麺メーカーが作ったネット広告であった。
「ノアさん……、これは白上さんへの遠回しな復讐ですか? これを食うまで許さないてきな?」
「もー、そんなわけないじゃないですか。わたしはまたカップ麺を食べたいんです」
彼女は確かに「また」と口にした。
「は? それって」
聞き返そうとする圭哉の口にノアは人差し指を当てて小さく「しー、です」と、ウィンクする。
「好奇心を持った猫なんて存在しない、それが大人の決めた結末なんです」
少年もようやく気づいた。
ノアは余計な争いを起こさないために記憶消失を演じているのだ。
未来を視て知り過ぎた少女、Curiosity killed the cat(好奇心は猫をも殺す)――という諺があるように。どんな組織には知って欲しくない情報の多々あるものだ。
もし組織の機密が漏洩した可能性を公にしてしまったら? 答えは単純だ、彼女はまた狙われる。
だからノアは「何も憶えていない」ということにした。
例え妹や父親と元の関係に戻ることができなくなっても、余計な爆弾を抱えて迷惑をかけるより良い。ノアは迷うことなく『記憶は戻らなかった』という結末を選んだ。
たどり着いた結末は救いのない結末とならなかったが、最良の結末とも言えない物だった。
ならせめて、
「なら納得のできる結末ではあるか……」
と、現状を受け入れることにした。
ベッドの端にちょこんと座り端末でどこかおもしろそうな場所やモノがないか調べていて、ノアは圭哉の独り言を聞いていなかったらしい。「はい? 何か言いまっ――」と振りむいた拍子に圭哉が貫いた胸の傷を刺激した。
「あばば――」
「何やってんだよ。……痛むか?」
少々の申し訳なさが声に乗るも、圭哉は布団に顔を押し付けて痛みに耐える少女の頭に手を置いてゆっくり動かす。
少年に苦しんで欲しくないから自分は彼の元を去ったというのに――結局、彼に嫌なことをさせてしまった。
「ふふっ、全然平気ですよ」
なぜか互いに感じてしまった罪悪感にノアは少しだけおかしさが吹き出し、改めて恩人にたっぷりの感謝を詰め込んだ笑顔を送った。
その満面の笑顔に少年はほんのり赤面した顔で「そうか」とだけ照れ隠し気味に答える。
「それにしてもここの医療が凄すぎて手術したって実感がないんですよね。だから気を付けないと普段通りに体を動かしちゃって……。それで何か言いましたか?」
「――いや、ノアはしばらく日本にいるのかって」
「えっ」
キョトンと英国産の綺麗な碧眼が不思議そうに傾く。
「何言ってるんですか。わたしはケイヤさんのお家でお世話になる予定ですが?」
そのまま見惚れてしまいそうな美少女の口から飛び出る爆弾発言。
「ぱーどぅん?」
一人暮らしの男子高校生、彼女いない歴=年齢の白上圭哉はギョッとフリーズした。
「なんですか、その英語……。えっと、マレウスから聞いてませんか? 高天原は既存の魔術組織との繋がりが浅い。だから『黄金の黎明』から距離を取りたいわたし達からすれば移住するのに丁度良い場所だって。あの二人も窓口として高天原に常駐できるよう動くそうです」
「ならノアもマレウスのとこで世話になったらいいだろ。わざわざ俺のところになんか」
「それが……わたしはケイヤさんの監視要員になるそうで。『どうせ白上君は拒まないでしょうし、直接監視しなさい』っておとう――マレウスが」
「何考えてんだよ」
「あと――『どうせなら夜這いしても構わない。そうすればさらに手を出しにくくなる』とも言ってましたが、夜這い……とはどういう意味でしょうか?」
「……マレウスの野郎! 女子中学生に何教えてんだ!」
激しく体を動かす圭哉。当然、彼の布団の上に体を乗せていたノアも――、
「ちょっ、急に動いたらわたしまで――」
「うぐぅうう」「ったーい! 傷がっ――傷あとが――!!」
二人揃ってベッドの上で痛みに悶えることとなった。
その後、騒ぐ二人を見つけた看護師に怒られてノアは自分の病室に連れて行かれた。
急に人の居なくなった病室に少し寂しさを感じるが、ようやく落ち着いてゆっくりできる――というのも圭哉の本音であった。
「こうしてゆっくりできるのは一週間ぐらいぶりか」
ノアと出会ってからは完全にリラックスして眠ることは無かった。
どうしても心のどこかで……再び襲撃されるのではないか、と不安がよぎり熟睡なんてできなかったからだ。
「そういうわけで、一人にしてくれないか?」
誰もいない病室で圭哉は誰かに話しかける。そこには人の気配はなく、独り言にしか聞こえない。
「それが眠てる間護衛してあげたぼくにかける言葉?」
だが返事はあった。部屋の隅の陰から黒髪の少女が顔を出す。確信があったわけではない、ただなんとなく……彼女は近くにいるような気がしたのだ。
「あー、それはすまん、助かった。だがノアの護衛は良いのか?」
ついさっきまでノアの居た場所にセリスが腰掛ける。今日はあの――人によっては恥ずかしくなる恰好ではなく、私服だ。しかし黒は譲れないらしく黒パーカーに黒短パン、黒タイツと黒いブーツどこまでも黒くて、黒がゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
「スクルドは本当に消えたのか――それがわかるまでどこも動かないわ。それにもうあの子は自分の意思で戦える、守られるだけの存在じゃない。それより意識のないあんたのほうが危険でしょ?」
「……そっか」
圭哉はノアの記憶について知っているのか確かめてみたくなるが、彼女が何も聞くなと睨んでいる気がして止めた。その時点で知っていると言ってるようなものだけれども、どこに耳があるかわからない。沈黙は金であるというやつだ。
それとセリスが呼ばれて素直に顔を見せたのは彼女も圭哉に用があったからである。もう見慣れてしまった不機嫌の顔で南光やノアの知らないその後について説明を始めた。
「マレウスから連絡があった。あんたは無事、準魔王級に認定……要警戒対象に指定。それと同時に『湖』と『影』の魔術師、ノア・サウセイスを加えた三名を極東の警戒非魔術地域高天原に監視兼交渉窓口として派遣が決定。ロシアの魔術結社とか米国の企業連合にもこっちで牽制してるところだから、早々戦争にはならないだろうって」
準魔王級とは、特定条件下において特級――マレウスクラスの魔術師――すら凌ぐ力を持つことを意味する。つまりは条件次第で高天原のクラスS異能者を越える……と英国の魔術結社は判断したのだ。ただし担当者の頭を相当悩ませた階級決めだったのは言うまでもない。
なにせ圭哉は魔術師、異能者に特化した力である。現代兵器の前ではちょっと身体能力の高い一般人程度の力しかないのに変わりない。
ただの近代兵器で武装した集団に勝てないくせに、それらを簡単に蹴散らす特級の魔術師とは戦えてしまう。これではどっちを基準に考えればいいのかわからない。その結果、将来さらなる力を得ることも踏まえて『準』――つまり特定の条件下ならそれに相応する力がある、と色々あやふやにすることにしたのだ。
「ノアを連れ戻して魔導書ともう一度契約させようって動きはなかったのか?」
そんな大の大人が何人も頭を捻って出した裁定を圭哉は興味なさげに触れもせず――戦争がすぐ勃発する事態にならないことについては安堵したが――さっさと投げた。興味がないのは魔術側の階級というモノにあまり詳しくないというのもあるのだが……。
これがマレウスなら渋い表情ぐらいしただろう。だが居ない人間のリアクションは見えないし、セリスは床に届かない足をぶらぶらさせてどうでもいいという態度なので仕方ない。
「ない……と思う。魔王級ほどの魔術が書き込まれた魔導書になると、人知を越えた存在が封じられててもおかしくない。大抵の契約者は同化する過程で拒絶反応を起こして死ぬものだけど、もし――ノアがあのまま完全にスクルドの意思と同化していたら……。本当の所を言うとあっちもあれを持て余してたはず。だからまた契約されて困るのは向こうも同じ」
「なら一安心か。だがマレウスの野郎は何を考えてるんだ? ノアに俺を夜這いがどうこう吹き込みやがって……」
「さあね、ただあんたを気に入ってるってのはあると思うけど」
そう言ってセリスは影からボトルを取り出し、圭哉が「んん?」と目を丸くしているのも気付かず大量のガムを口に入れる。
(……あいつなんで、ぼくしか憶えてない未来を知ってんのよ。まさか実の娘に盗聴器かなんか仕掛けてるわけないわよね?)
と、セリスは父親に向かって不信感を募らせているが、ただこれは完全にセリスの一方的な言いがかりであった。
「気に入ってる――ね」
「なに……ノアが嫌だとでも?」
「そうなったらそうなったらで、マレウスが『訓練です』って真顔で俺をサンドバッグにする未来が見えるんだよなあ……」
「何言ってんの。あいつだけじゃなくて、ぼくもヤるに決まってるじゃん」
「おい! 今、ヤるのやの字は『殺』の意味だったろ!? サンドバッグも私刑も御免だ」
「あれれ? 間違いなく強くなれるチャンスだとしても? 一級魔術師と特級魔術師の訓練を受けれる機会なんて、普通ないけど?」
「うぐっ」
ズキズキ痛むのは背中でなく、心臓に近い胸のどこかだ。圭哉がノアを救えたのは運が良かったからに過ぎない。
もしマレウスの協力がなかったら――、
最後の瞬間にセリスがいなかったら――、
ノアの抵抗がスクルドに届いてなかったら――。
もっと自分に力があれば……、そう願ったのは一度二度ではすまない。
「何かのきっかけで紛争が起こったらどうする? ノアは間違いなくあんたを守るために戦うだろうね」
「それは……」
揺らぐ圭哉にセリスはトドメの一言を入れる。
「弱いままでいいの?」
そんなことを言われて否とは言えない。
圭哉は、はっきり答えた。
「良くねえよ」
その答えに満足してか、ノアと同じ笑顔で、
「なら今は回復に専念して。退院したらぼくとマレウスで鍛えてあげるから」
少年の夏はのんびりできる休暇にはならないらしい。
ありがとうございました!!
ここで一度終わりとなります。基本的に十万文字あたりで一区切りになるように書いてるつもりなので。続きも色々考えてはいるのですが……全然読まれないなーっと。
あと新作をまた書いてるので、よかったらそちらでお会いできればと。タイトルは『憑魔奇譚』になると思います。サブタイは未定。




