透徹白錬
「ノア……?」
ここには居ないはずの人間の声、それも自分を制止するような……。
それを聞いた圭哉は、
「……やめだ、これじゃあ誰も救えねえ」
パッ! と両手を上げて、黒い神破振りの具現化を停止する。
さらに馬鹿な自分に呆れたような笑みを浮かべ、「降参だ」とでもいうような態度を示した。けれども少年の纏う空気は晴れやかだ。
それは対面するマレウスに――ではなく、別の誰かに言っているようにも思えた。
「ならどうします。先ほど言ったように利き手ではないほうでも落としましょうか?」
内心、ほっとするマレウスは改めて尋ねる。まだ続けるつもりはあるのか、と。
「利き手……ね。――ああ、そうだ、そうなんだ。俺ってさ、普段右ばっか使ってんだけどそっちが利き手じゃないんだ。無意識にだと思うけど、ある時を境に左手を使うことを避けてきた」
白上圭哉は完全に自分の世界に入った。マレウスが「それがなんだと――」と口を挟むも、少年は無視して独白を続けている。
「俺のルールブレイカーは左手で使わないといけなかった、忘れていたんだ。あの時の想いを、あれを掴んだ手はこっちだったってことを……、だから――」
今度は左手を構える。
ついさっき圭哉の右手が放った異質な気配は夢か幻だったのか。今度は森の湖という清廉な空気に溶け込む澄んだ気配を放つ。
「異能回路――開放。『透徹白錬、神破振り』」
マレウスの肩が熱を持つ。正確には肩にある魔導書と契約を交わした証である刻印が、だ。
なぜ、と考えるまでもない。
人知を超えた存在は恐れているのだ。
「湖の精霊」が目の前の存在を魔導書本体にまで届き得る脅威だと判断し、契約者に警鐘を鳴らしているのだ。
「誰と交わしたかも知らねえ意味不明な契約も、テメエとセリスが背負ってきた苦痛も――そんなもん俺らが全部棄ててやる。そうだろ……契約切り」
生体エネルギーを金型に流し込むが如く――左手で具現化されていく神破振り。
「至ったか」
マレウスはその刀を見て、自身の望みが叶ったことを悟った。
どこか儚さを感じさせる白い刀身、しかし本物のアロンダイトや他の聖剣達に負けない力強い脈動を感じさせた。
欺瞞、妥協、怠惰。
そんなモノで塗り固められた紛い物の剣とは比べ物にならない。本来騎士が持つべき剣を体現したかのようなルールブレイカーに、マレウスは初めて聖剣を見た時の言葉にならない感動を思い出していた。
「マレウス――頼む、俺に手を貸してくれ」
ここに至り、圭哉はもう一度協力を願った。
娘のメモ曰く――少年の根源にあるのは善意だ。
感謝されたい、認めてもらいたい。それらの当たり前な上っ面の感情を剥いて最後に残るのは『自分が気に入らないから』。たったそれだけの自己中心的な善意こそが、白上圭哉という少年の原動力であった。
『マレウス――私も一緒に背負うわ』
夢と思い出の中でしか聞くことの叶わなくなった、懐かしい鈴を転がすような彼女の声。
少年の眼は魔女のくせに誰よりも甘い女性と重なる。
大多数の魔女はクソだ。そしてそれと同じくらい無駄に年を喰った権力者の椅子に縋りつく老人共もクソである。
騎士は上っ面だけの大義で、老人に使われるだけの形骸化した大衆の守護者。
魔術師は何を企んでるかわからない上司である腹黒い魔女の掌の上で踊らされる召使。
騎士も魔術師も――クソみたいな上の命令で働かなくてはならない。それは世のサラリーマンに似たようなモノで、総論して――
『世の中クソである』
それがマレウスの今まで生きてきた経験の上での答えであった。
妻であり、ノアとセリスの母親は元老院から処分命令が出された時、マレウスは『黄金の黎明』へ亡命に近い移籍を行なった。その後にわかったのは妻が居た研究所に、黄金の黎明も一枚噛んでいた疑いがあったということだ。
元々、魔術師や裏で流通する魔術具の取り締まりを行なっていたマレウスは人間の汚さと言うものを良く知っていた。
これらの経験が、彼に『世の中クソである』という価値観を植え付けていた。
『どうせ汚物の中で生きるしかないなら、せめて妻と娘たちがかかわらずに済むよう立ち回りましょう』
そう考えるようになったのは彼が家族四人一緒だった『湖のほとりにある』家で幸福に暮らしていた僅かな期間の間のこと。
「ねえ、マレウス」
「なんですか、エマ」
今もはっきり耳に残ってる、三十代にもかかわらず出会った頃から成長してないかのようにも思える若々しく可愛らしい声。それはここではない、本当の湖の家での会話。
娘達は近くで湖の中を泳ぐ小魚にわーきゃー騒いでおり、二人はそれを温かく見守っていた。
「君が私やあの子達を守るために、あの魔女の下についているのは知ってる……。でもね、私もフィリアもステラもあなたの幸せも願ってるのよ」
「だから『黄金の黎明』を辞めろと? 庇護を失えば素養を持つ娘達や君が狙われる」
「それでも……それでも、一人で苦労を背負うあなたを見たくないの。だから――」
マレウスと共に、『黄金の黎明』のエージェントとなったエマ。その数年後、彼女は死んだ。
もともと彼女は表に出せない研究の被験者である。その寿命はそう長くは残されていなかったのだ。それにも関わらず彼女はマレウスと共に体を酷使する道を選んだ。
マレウスに残されたのは妻と契約していた魔導書と双子の娘達のみ。
その双子も性悪女に誑かされて、……魔導書と契約してしまった。つまり娘達も、こちら側へ来てしまったということだ。
やはり――世の中はクソだった。
切望したルールブレイカーにわずかな間、目を閉じて感慨に浸かっていたマレウスは口を開く。
「言ったはずです。『君のゴールは私の魔術の破壊』だと」
そう、若かりし頃から変わらない澄ました顔で答えた。
「……融通が利かねえな」
それに圭哉は右手で頭を押さえながら苦笑いを浮かべる。
「性分な物で」
「ならとっとと終わらせる。こっちはそう長く持ちそうにねえんだ」
圭哉の足元では、スニーカーのゴム底が硬い地面を掴む。
水か土かよくわからない柔らかい自然の? 感触ではない、人工物の硬いコンクリート製の地面である。そう――圭哉のいる場所だけが現実世界の埠頭に戻ってきていた。
ルールブレイカーが具現化された時点で、マレウスの心理解放は崩壊を始め、森の湖と海の埠頭が同時に存在する摩訶不思議な空間が出来上がっていた。
「行きますよ? 契約破棄」
マレウスは崩壊を免れた魔術を一本の剣に凝縮する。限界まで本物の湖の剣に近づけるため、その手に楽園を収束させようとしているのだ。
一方、圭哉は極限にまで集中力を高めていた。
「いつでも来い、魔術師」
これが超越者の見る世界。
今まで自分が見ていた異能が子供の遊びと思えるほどのエネルギーがそこら辺りで渦巻いている。
目の前で剣に集中するマレウスのマナが――、
周囲の崩れ始めた魔術だったエネルギーの残骸が――、
何より体から発せられる自分の生体エネルギーが――、
これこそが『ランクSの戦い』なのだと、ありありと伝えてくる。
一瞬でも気が緩めば呑み込まれてしまいそうな嵐の中で、
「「ふっ――」」
二人は同時に動いた。
(余計な事を考える必要はない、臆するなっ! 『今のこいつならいける』、そう俺の勘は言ってんだ)
ゼロコンマ数秒後にはその手の武器が届くまでの距離に詰め、二人の間にはちょうど埠頭と湖の境界線がラインを引いている。
「おおおおおおっ!」
「はぁぁあああああっ!」
娘を救うと覚悟を決めたマレウスの眼光を間近にし、何度も刀を取られた苦い経験が頭の端に浮かぶ。
それを意識の向こう側へ置き去りにして――圭哉は精霊の剣に神破振りをぶつける。
マレウスの剣が神破振りの刃を受け止めることはなかった。
バリンッ! とガラス細工が砕けるのに似た音が響き渡り、水晶の剣は渦巻く青い水流ごと打ち消されていく。
心の中の不安が晴れ渡るように、世界は二人を中心に塗り替えられていく。
どれほど自信があっても結果という証拠に勝る安心はない。
そのまま森の湖と共に消えていくアロンダイトに圭哉が一安心していると、
『べちゃっ』
顔に何か液体がへばり付く感触がした。
それの出所を探ると、剣を失ったマレウスの腹を圭哉の刀ではない……認識外からの攻撃が貫いていた。
「えっ……?」




