禁忌
アロンダイトとマレウスが呼んだ剣先から零れ落ちる水滴。地面に着水した水滴はそこを中心に小さな波紋を生み出し、波はどこまでも広がっていく。
足にまで到達しようとする波紋に、避けた方がいいのか? と圭哉が考えていたら――
「っ! ――照明が?」
埠頭から光が消失した。時間にして一秒にも満たないわずかな暗転の後、圭哉の視界は真っ白な太陽のような光で埋め尽された。
最初に感じた異変は人工物の土台に立っていたはずの足が、川の中に足を突っ込んだように濡れた感触がしたこと。遅れて身近だった潮の香りが消え失せ、その代わり新緑の爽やかな香りが鼻を刺激する。
明らかな環境の変化に「早く視界が戻ってくれ」と焦燥と共に祈る圭哉。段々と光に慣れてきた目で見たモノは闇の中に広がる海ではなく、青々とした木々が並ぶ昼間の森だった。
(一体何が起きている!?)
圭哉はギョッとし、急いで周囲を確認してわかったことはここが森の中にある湖の上だということだ。
清廉な気配が漂う空間には圭哉以外にもうひとり、元凶であるマレウスも湖に立っていた。
「最高位の魔術師のみが発動できる、本来認識できない精神の深い場所に眠る無意識と魔術を融合させる高等魔術――心象解放」
魔術のことなんてほとんど知らない圭哉にそんな説明で現状の理解ができるはずもなく、マレウスは「隔離結界に近い物と認識してくれて構いません」と改めて説明しなおす。
「そもそも今は魔術の講釈なんてどうでもいい、そうでしょう? それよりも君にとって、そして私にとって大事な問題がある」
「……どうして俺のルールブレイカーがあんたに効かない」
さきほどははぐらかした質問に、男はこのタイミングで尋ねるのが正解だというように頷く。
「Exactly。君のルールブレイカーが私のアロンダイトとその鞘を破壊できなかった。その理由は君の力が不完全だからです。不完全だから私の聖遺物を模した魔術すら破壊できない。これが人知を超えた契約であれば尚のこと――届くはずがない」
「いままでのはノアの契約を破棄する予行練習だったわけか。それが失敗したから俺を追い詰めて覚醒させようと……」
「ええ、君のゴールは私の魔術の破壊、それ以外に試練を終わらせることができるとしたら……それは君の死だけです。さあ、休憩はここまでに。死に物狂いで足掻きなさい」
つーっとアロンダイトの先端で水面に線を描きながら、剣を持った方の腕を横に伸ばす。
そして、水面に大きな水飛沫を上げてマレウスは迫ってきた。その速度は外での戦いと比べて倍以上に速い。
「身体能力も抑えてたのかっ。異能者をゴリラ顔負けの超人と勘違いしてんじゃねえぞ――神破振り」
再び鞘付きで刀を呼び出した圭哉は水中という悪条件の足場で迎え撃つ。
「ふんっ」
「はあ!」
どちらも人間離れな強化をした肉体での肉弾戦。剣と刀がぶつかりあう衝撃は穏やかな湖の水面に激しい時化を作り出すほどだった。
何度も、何度も、何度も、何度も武器を奪われ続けた。
アロンダイトの破壊に満たない神破振り(ルールブレイカー)を出来損ない
として何度も奪われては宙に散っていく。
その度、具現化しなおして立ち向かう圭哉。一回り二回りも年下の少年が、元円卓の騎士に喰らいつこうと必死にもがき続ける。
その状況がどうしようもなくとっくに捨てたはずの闘争心をくすぐる。まるで騎士に憧れた頃の自分を見ているようで、マレウスの口角は無意識に上がっていた。
「戦闘そのものに意識を割き過ぎです。私が求めるのはその神破振りの完成、今だけは剣に意識を割きなさい」
またである。
今度は鍔迫り合いの最中にアロンダイトが水に戻って刀を捕らえる。そして、ぽーん……と釣り竿を引くようにまた奪われる。
「なら落ち着いて考える時間ぐらい寄越せっ」
「人間は叩くと伸びるものです」
「俺は蕎麦かなんかか!」
圭哉はくるぶしまで浸かる湖の水を目つぶしのつもりで、マレウスの顔面目掛けて蹴り上げる。その結果起こるのは目つぶし所か、純粋な質量攻撃である。
強化された自分の身体能力に不慣れだから故に起こった、想定よりも過剰な攻撃。
相手が敵であるにもかかわらず圭哉は「あっ」、とやっちまった感満載な間抜け面を晒す。
頭に直撃すれば簡単に首の骨がへし折れそうな勢いで飛ぶ水の塊はマレウスに届く直前、明後日の方へ勝手に逸れていった。
「何を呆けているのです。ここは私の作り出した魔術ですよ?」
お返しです、と言わんばかりにマレウスは腹を狙って蹴りを放つ。それを圭哉はぎりぎりの所で後ろに飛んで躱す。
着地した場所もまた水ばかり。ただでさえびしょ濡れだった私服がさらに水を吸って重く肌に張り付く。
(動きにくい! ただでさえ足場の水で足がとられるってのに――、どこまでも奴が有利になる戦場だ。それに――)
『異能は制御下にある自身の異能で傷つかない』
それは魔術にも当てはまるらしい。もしかしたらこの高等魔術とやら限定の話かもしれないが。
どちらにせよ、その気になればこの空間にある全ての水をマレウスは操ることができる――その可能性を圭哉は想定しないわけにはいかなくなった。
「君のその場にある物を利用して戦う、喧嘩で培ったと思われる姿勢と頭の回転の速さは純粋に評価するに値します。ですが――何度もいいますが、私が見たいものはそこじゃない」
躊躇なく追撃の蛟――最初の物よりずっと小さな腕サイズの――に圭哉は突き飛ばされ、水たまりの中で天を仰いだ。
「はあ……はあ……」
そろそろ二〇に及ぶ神破振りを具現化しただろうか。その疲れが顔にも現れていた。
――もう少しで何かを掴めそうなのに。
足りないピースが何かわからず、ただただもどかしさで自分の物とは思えなくなるほど重い右腕を太陽に向かって伸ばす。
「停滞が見えてきましたね。そろそろ心が折れましたか? なら腕の一本でも斬り落とせばまた必死になりますか。たしか君の利き手は右……でしたね」
カツカツカツ、と舗装された道の上を歩くような足音を立てて男は近づいてくる。この空間を生み出した魔術師が水に足を取られることも、水を吸った服で動きにくさを感じることもあるわけがない。
圭哉は立ち上がることもせず寝転がったまま、
「なあ、聞いても良いか?」
と投げかける。
「……どうぞ」
この空間において不自由ばかりな圭哉と違って、何の不快感もないマレウスの表情は険しい。
もしかしたら本当に、少年が諦めてしまったのではないだろうか。
もっとも恐れた事態に眉間の皺を深くする。
「ノアの記憶を奪った契約が無くなれば、あいつの記憶は戻るのか?」
「わかりません。契約が破棄された例はあまりに少ない、その結末も曖昧にしか伝えられていませんので。戻るかもしれませんし、失ったままでもおかしくありません」
「そっか。なら最後に、もし記憶が戻らなかったら――あんたとセリスが家族だってことをノアに伝えるのか?」
「……」
沈黙、それが答えだ。
ノアは何度、家族のことを忘れたのだろうか。
セリスは何度、自分たちが家族だと伝えては申し訳なさそうに謝るノアに胸を痛めただろうか。
マレウスは何度それを見て自身の不甲斐なさに震えただろうか。もし代われるものなら、と願った数は一桁だけでないはずだ。
圭哉にも彼らが背負う物はもう見えていた。
父親であるこの男も、姉妹であるはずのセリスも恐れているのだ。真実を知った時、自分のせいで血に塗れた家族の姿を見せてノアが自責の念に押し潰されるのではないか、と。
「あの子はもうこちら側に関わせたくない。できればそういったモノと無縁な生活をしてもらいたいですが……」
記憶が戻ることによって、また契約を強いられるのではないか?
いっその事このまま――ただ記憶は戻らず契約だけを破棄して魔術世界と距離を取る。
そんな結末がマレウスの理想であった。
「知るかよ……。俺はただのクラスDなんだよ、クラスSにもなれない半端者――」
濁った瞳の圭哉は気怠そうにのろのろと立ち上がる。
そして広げた右手をマレウスに向けて――
「契断――黒錬、神破ふ……」呪いの言葉を口にする。
その言霊は神破振りの中に禁忌として隔離される、異物を引き出す起動キーだった。
『触れれば取り返しのつかないことになる、その魔術回路を使うな』
神破振りに設定された警告文と生物としての本能が警鐘を鳴らす。
しかし、もうこの危険物を使うしかマレウスのアロンダイトには届かない。そう圭哉は諦めてしまっていた。
「これは――届くか」
今までとは様子の違う、ルールブレイカーの具現化をマレウスは嫌な勘をさせたまま静かに見守ることを選んだ。
そう静観した――してしまった。過酷な任務を幾度も乗り越えてきた魔術師らしからぬ、己の直感を無視した行動。
いつもの彼なら止める判断をしていたはずだ。
しかし――今回こそ、娘を救えるかもしれない。その迷いが彼の判断を誤らせた。
目の前で起こるのは今までの少しずつ研磨して研ぎ澄ましていくような具現化ではない。
まるで地獄と呼ばれる混沌から呼び出してはいけないモノを、恐ろしい何かを顕現させようとしている。そんな気配を肌で感じて、止めるべきだったと今さらながら後悔してしまう。
異物を呼び出そうとする少年の足元ではマレウスの生み出した世界に綻びを作りはじめる。
そして――その時はやってきた。
少年の右手から地獄の蓋は開き、マレウスは『何か』と目が合う。
その瞬間、理解してしまう。
あれは表に出してはいけないものだ、と。
あんなもので娘は救えない。きっと忌々しい契約もろともその身を喰らうことしかできない――全てを台無しにする力だ。
黒くドロドロとしたヘドロのようなモノが少年の右手から顕現する――その直前。
『――ケイヤ!』
少女の声は少年に届いた。




