湖の騎士
ガキィイインッ!
硬い金属が衝突する音が何度も響き渡る。しかし、そんな剣戟の激しい衝突音に反して、夜の埠頭のどこにも火花が舞うのを確認できなかった。
「テメエはノアを救うって言ったよな? なら協力してくれ、こんなとこで戦ってないでさ。俺はあいつを縛る契約を破壊するつもりでここに来たんだ!」
「知っていますよ。ですが言ったでしょう? 『『死者を選ぶ乙女』には意思とは関係無しに動く自動防衛機能がある』、と。それに君があれを破壊するに至るか見極めるまで、協力するつもりはありません。なにせ――失敗が許される猶予は残されていないのです」
この男は最初から殺し合うつもりなんてなかった。ここで仕掛けてきたのは圭哉のルールブレイカーが完成しているかを確かめる。ただそれだけのために命を張りに来たのだ。
「だからって……、こんな戦いに意味があるのか!」
「そう思うなら君の力はスクルドに届きません」
限られた照明の明かりの中、マリウスの剣はノアを救う唯一の切り札となりうる圭哉の命を奪う危険も顧みず振るわれる。
そうしてなおも続く二人の戦いは幾度と得物を交えるがひとつの違和感が残る。
なぜ金属と金属が激しく打ち合って火花が一度も散らない?
そもそも剣と剣の衝突で火花が散るのは、金属の接触時に起こる摩擦熱で近くの可燃物が燃えるのが原因だ。
つまり『金属が削れて炭素を生み出す』、あるいは『発火するのに必要な摩擦熱を起こす』事が無ければ火花は散らない、ということだ。
圭哉の場合は、神破振りの謎金属がこの程度でビクともしないからである。ではマレウスの方は? と尋ねられたらこう答えよう。
彼の剣の材料は鉱石の類ですらないから、と。
「くそったれが! 二連続でこんな相手かよ。パワーはあっちが上だが技術がある分、セリスの騎士よりやっかいだな!」
剣戟の合間、距離を取った圭哉は軽く痺れる右手の調子を確かめるように閉じたり開いたりした。
マレウスの剣は剛剣だった。騎士のような真っすぐな剣技――マレウスの本質は魔術師でなく騎士なのだから当然であるが――は圭哉の刀技と遜色ない。しかし戦闘技術には歴然とした差があった。
虚実、視線による誘導、剣の隙を埋める巧みな体術。
挙げればきりの無い技術の数々。
どれだけ上手く型をなぞることができても、相手は巻藁ではなく人間なのだ。純粋な身体能力、駆け引きや読み合いといった心理戦は神破振りから得た知識ではどうにもならない分野である。
武器の扱いだけが拮抗していても、身体能力と心理戦において圭哉とマレウスの間にはどうしようもない練度の差があった。
「実戦経験の不足、肉体の貧弱さ。それでセリスに勝てたのは、あの子が他のことにリソースを割いていたからに過ぎません。本来なら君が我々に勝てる道理はありません」
マリウスのほうはというと何食わぬ顔で、テニスプレイヤーがガットの調子を確かめるように軽く剣を振る。
その切っ先からは液体らしき何かが跳ねるのを圭哉は見逃さなかった。
「学生に実戦経験なんてあるわけねえだろ。あとあんたの言う力基準なら人類の大半はもやしだっつーの」
一度、二度、……三度。最初の蛟以降、剣のみで戦うマレウスに圭哉の顔が驚愕と困惑に染まっていく。
(どうなってやがる。あれは魔術で作られた剣のはずだ。どうして神破振りの力が通じない)
マレウスの剛剣に圭哉が必死に喰らいつこうと、何度目かも覚えていない刀と剣の接触が起こる。
照明の光が剣の中で幻想的に踊る、水晶にも似た剣。
彼の剣は水だ。剣という形状に海水を押し固めた魔術であると圭哉は確信していた。
だがそうなると魔術で作られた剣が、なぜ神破振りで打ち消せないのか? という疑問が残る。
(いや、剣を振った時に出た液体は剣を構成する海水の一部のはず。ならルールブレイカーの影響を受けてるのは間違いない)
どちらかというと圭哉こそが理不尽な力を持つ側なのに、そのありえない光景に動揺していた。
「なんでルールブレイカーが効かねえっ」
とうとう疑問が口に出てしまい、その苛立ちは余裕しゃくしゃくに構えるマレウスにぶつける。
マリウスの視線が一瞬地面に向く。それが踏ん張るための行動だと思った圭哉は全力で刀を振り下ろす。次の瞬間、またかと自分の学習能力の無さに苛立つ。
「答えを知りたいならまず君の力を見せなさい」
パワーによる拮抗ではなく、技術での受け流し。お手本にしたいくらい綺麗に、刀の腹に剣を沿わせて横に逸らされた。
(回避行動っ)
すぐさま来るであろうカウンターから逃れるため指示が頭から出されるが、今まですり減らしてきた精神と肉体の疲労が反応を遅らせる。
「遅いですよ」
「ぐがっ」
過労気味のスケジュールだった報いは重い掌底となって圭哉に返ってくる。
腹を貫いたダンプカーが突っ込んできたかのような衝撃、その直後に感じるのは体が砕け散ったのではと勘違いするほどの激痛。少年の体は、くの字に曲がって浮かび上がり、胃から酸っぱいものとさっき食べた夕食が食道を逆流してくる。そして少年は意識を保つのが精いっぱいで神破振りも手放してしまう。
「スクルドはこの程度でどうにかなるほど甘い相手ではありません」
「………………」
耳元で独り言のように囁いた男の言葉が少年の耳に届いている。
マレウスの声には何年も探し求めてようやく見つけたモノが、いつものパチモンと変わらない期待外れな物だった、そんな諦念と失望にも似た感情が感じられた。
「これではノアを救うのは到底――」
ノア。
その瞬間、今にも飛びそうな圭哉の意識は再び彼の下に戻ってきた。
「何……意味わかんねえことを。テメエが勝手に、決めんじゃねえ、よ」
もっと、もっと力を――。
そう願う圭哉に答えるかのように、地面に落ちた神破振りは一瞬脈動し……虚空へ消えた。
その直後、圭哉から放たれるプレッシャー。マリウスは本能的に後退しようとするがその前に、ガシッ! と圭哉の腹に突き刺ったままの腕を捕まれた。
当然、男も抵抗を試みるが……ビクともしない。
「肉体の強度が上がってる? まさかっ、剣技だけでなくマナによる身体強化も――」
『逃がさねえぞ』
その言葉は口からではなく眼から発せられていた。一発ぶん殴ると決めた圭哉は男の腕を掴んだまま一歩引いて距離を作る。
マレウスが再び目にしたのは世界の抑止力から脳へ強引にインストールされる膨大な情報のせいで眼と鼻から血を流す少年の顔と――遠い昔に男が失った闘争心を燃やす黒い瞳。
乱雑に顔の血を拭った少年の――、
「それは俺が『決める』ことだ!」
クラスDの左拳が男の顔面を捉えた。
マナとは、生き物が行なう生命活動の循環から外へ吐き出された生命力である。
圭哉の身に起こった爆発的な身体能力の向上は、そのエネルギーを体外に漏らさず体の内に押し留めることによって起きる肉体の過剰な活性化による作用だった。
(まさかマナによる肉体の強化をこの短時間で修得するとは……)
勢いよくぶっ飛んだマレウスは海に落ちるか、コンテナにぶつかるかする前に、剣の圧縮を解く。
水晶の剣から現れたのは身長一九〇センチメートル以上の細マッチョな肉体をも包み込む圧倒的な量の海水であった。それが空中でクッションとなってマレウスを受け止める。
そして何事もなかったように地面へと着地する彼の表情に、わずかに歓喜のようなモノが混ざっていると感じたのは圭哉の思い込みだろうか。
マレウスは服に付いた水滴――シャツもズボンも撥水加工されたみたいに、染みではなく玉のような水が付着している――を軽く払い落し、顔に付いた血をハンカチでふき取る。その頃には良く言えば大人な、悪く言えば冷めたサラリーマンのような表情に戻っていた。
「驚異的な成長曲線ですね。子供だから、なんて説明では追いつけないほどの」
魔術師や異能者が羽化する瞬間とは決して平坦な場面ではない。獅子が我が子を千尋の谷へ突き落とすのと同じで、命がけの試練を乗り越えてこそ生命は次のフェーズへ移ることができる。
「……」
乱れた呼吸を整える圭哉は無言で男を睨む。それを気にせずマレウスは試練を次に進める。
ここにきて、元騎士は剣を抜く。
「ではこちらも次の段階に移ります。これを破壊できないようなら……人知の及ばないモノには到底届きませんよ。――『精霊より授けられし剣』」
ようやく自分の思い違いに気付いた。
圭哉はマリウスがずっと剣で戦っていると思っていた。――だがそうじゃない、この男は鞘に入った剣を使っていたのだ。
「俺はずっと鞘で遊ばれてたのかよ」
ようやくまともな戦いになると思っていた。なのに相手は自分の得物すらまともに握っていなかったという真実。
体から湧き出る力で高揚していた闘志に冷水をぶっかけられた気分だった。
「遊んでいたとは失礼な。私は本気でしたよ? 本気で君を試していた」
「この野郎っ」
剣だと思っていた水晶の『鞘』から、出てきたのはこれまた水晶の刀身である。
正確には鞘という枷を外したというのが正しいのかもしれない。
鞘と同じ水晶のように透き通った刀身はまるで芸術品のように美しい。しかしその刀身から放たれる存在感は今までの比ではない。見ているだけでその水晶の中に取り込まれてしまうんじゃないかというこの世の物かすら怪しい魔性を感じる。
「私の歩みは剣と共にあった……。最初の剣は『憧憬』と共に父から頂いた。騎士だった頃は『忠義』と『誇り』によって王から授かった聖剣を。その剣を返却した後は死んだ妻に託された『願い』と魔剣を……。私にとって剣とは人との繋がりを意味する」
剣への愛着を語りながら、マリウスは片手で持った刀身が一〇〇センチほどある騎士剣を真っ直ぐ地面へと向ける。
「君を招待します。私の湖へ」
……ぽちゃんっ。
一滴の水滴が落ちた。
そこから広がるのは水たまり。いや、湖と呼ぶのが相応しい広大な水たまりであった。




