義姉からの知らせ
「……」
不貞寝――というわけではなく、ただただ圭哉はベッドの上でぼーっと寝そべっていた。
天海に「しばらく睡眠を取れ。来週から補習を再開するからな」、と空室になったゲストルームに放り込まれた。
担任が心配するように圭哉はここ数日はまともな休養も取らず走り続けた後。布団の柔らかい感触に包まれた少年が眠りに落ちるまで数分と掛からなかった。
それでも眠っていられたのは三時間程度だろうか。
脳が――肉体が――深い眠りにつくことを拒絶する。
まるでまだ間に合うぞ、と頭の奥で叫んでいるように落ち着かない。
『わたしはもう戻りたくないっ』
ノアから投げかけた助けを求める言葉が圭哉の耳から離れない。彼の懸念していたとおりに、後悔がずっと頭の中いっぱいにこびりついて頭痛と吐き気を感じる。
これじゃ休養にならない。圭哉が諦めてベッドから起き上がると、机の上に置かれた朝食と紙切れが目に留まった。
「おにぎりと――置手紙? 先生からか。えーっと『父に呼ばれて少々留守にする。帰るなら鍵は気にするな』っと」
ちらっと壁掛け時計で時間を確かめると、現在の時刻は正午前。
「これ以上、先生に迷惑をかけるのもあれだな……」
どれだけ気持ちが落ち込んでいても空腹はやってくるものだ。その事実が腹立たしくて無意識に舌打ちをしながらも、先生の用意した食事に手を付ける。
塩と海苔だけのシンプルなおにぎり。圭哉はそれを無言で口に放り込んで改めてこれからのことを考える。そして先生に匿ってもらう必要はもうないのだ、ということに気付いた。
少女が罪悪感を感じていた「彼の日常」を取り戻すためにも、家に帰らなくては。
そのためにも立つ鳥跡を濁さず。
飯を食ったら簡単に部屋の片づけを始めよう。少し動く気力を取り戻した圭哉、そこに彼の携帯端末の着信音が鳴り響いた。
「――♪」
(いったい誰からだ。もしあいつらなら居留守でいいか)
なんとも扱いが適当な悪友たちである。
ベッドの上に放置された端末を手に取ると、画面には「義姉」の二文字。
「……」
正直、面倒くせえ。と、考えてしまう圭哉。今のやさぐれている状態で話したくないのだが、出ないとあとが面倒だ。
「おっす、不肖の弟。生活費振り込んでも連絡が来ないから心配したんだぞ?」
仕方なく通話に出た圭哉は数日前に聞いたばかりだと言うのに、義姉の声に懐かしさすら覚える。
「どーも、親愛なるお姉様。こっちも忙しかったんだ。それと今更だけど、サンキュー」
月一の定時連絡。圭哉が高天原の学園区で一人暮らしをするようになってからできた暗黙のルールであり、軽い雑談だけで終わるのがいつもやりとりだった。
だが、今回は話さなければならない事がある。
「美鈴ちゃんから聞いたぞー、またやんちゃしてるらしいな」
何が嬉しいのか。語尾に「にゃはは」が付きそうなほど陽気な義姉。
「ならなんだよ」
からかう気満々な義姉に、圭哉は不機嫌な態度を隠そうともしない。
内心、いつの間に天海先生をちゃん付けで呼ぶぐらいフレンドリーになってるんだ? と、考えるが――そこにツッコむと藪蛇になるのは目に見えてたから触れようともしない。
「もー、そんなへそ曲げなくてもいいじゃない。お姉ちゃんは別にお説教なんてする気ないんだから。誰かのために頑張ったんでしょ? なら良し、それだけよ」
何が「良し」なんだ。
何気ない一言が圭哉のカサブタすらできてない傷口に触れる。それが八つ当たりと分かっていても、圭哉は声を荒げずにはいられなかった。
「俺は助けられなかったんだよ!」
すぐに「……わりぃ」と圭哉は謝る。だが義姉は動じていなかった。
「なに遠慮してんの、お義姉ちゃんに全部ぶちまけたらいいんじゃない。そんなもんいつまでも抱えてたって仕方ないんだから」
その言葉で圭哉のずっと押さえつけていた感情は溢れる。
「っ――どうにかしたかったんだ。あいつは……、死じゃなくて生きることを選んだ。けど、何度も何度も記憶をなくして、ダチとか、家族とか、誰も何も憶えてなくて……、それって生きてるって言えるのか?」
事情を知らない義姉にはきっと意味不明だろう。だが彼女はただ「そう……」と、相槌を入れながら最後まで弟の懺悔を聞いていた。
「正解なんて俺にはわからない。誰もが笑えるご都合主義なんていくら考えても思いつかなかった。――俺は、どうしたらよかったんだ?」
「さあね。私が言えるのは世の中全部思い通りに行くなんてありえない、ってこと。白くなった髪の毛を見つけたり、増えた目尻のシワに気づいたり、そういうどうにもならないことを経験して人は大人になるのよ」
「……」
普段の圭哉なら、『それでも俺は俺らしく在ってやる』――ぐらいの啖呵を切るだろう。しかし厳しい現実を叩きつけられて、何一つ言い返す気概も出ず視線が彷徨う。
その視線の先にノアが忘れていったコンビニのビニール袋が――。
「けい――『諦めるな』、なんて慰めて欲しい? 背中を押して欲しい? もしそうなら、あんたにあの子を救うなんて無理だから諦めなさい」
義姉は魂の抜け殻みたいな義弟を今度は突き放す。
「えっ?」
「あの子を魔術から解き放てば、それを為した元凶のあんたはもっと大きな物に巻き込まれる。『魔王級の魔術師』を一人消すってことはそういうことよ。自分の生き様に他人を使うな。その程度の覚悟なら大人しく諦めて日常に戻りなさい」
義姉の聞いたこともない冷たく真剣な声。しかし圭哉にそのような小さなことを気にする余裕はなかった。なぜなら、
「ノアを魔術から解き放つ方法があるのか、殺すんじゃなく?」
高天原の異能者でもない義姉が魔術との関わりをほのめかす。そのことに疑問はいくつも浮かんだ。
けれど時間が無い。どうして魔術を知っているのか尋ねるよりも、彼女の知る手段とやらを聞き出すのが最優先だった。
急がねば、彼女達がこの海上の大都市から脱出してしまう。もしかしたら、もう学園区には居ないかもしれない。
本当に間に合わなくなる。
圭哉の錆び付きかけいていた頭が再び動こうとしている。
「後で知って後悔して欲しくないから言うけど……一応、ね。でもわかってる? それを選ぶってことはもうクラスDの一般人――その他大勢では居られないってことよ」
「それは迷うような問題か?」
「西の魔術師と東の異能者で戦争に発展するかもしれないのに?」
圭哉は「――は?」と固まった
せっかく動き出していた頭に冷や水をかけられたような、熱くなっていく気持ちが一気に冷やされる。
「『契断刀 神破振り』。それがあんたの持つ世界の抑止力のオリジナルよ。もし抑止力の存在が露呈すれば……これ以上の説明はいらないでしょ」
一瞬、自分の異能が戦略兵器扱いされるのかとも思ったが、「まさか――」圭哉は気付く。
神破振りのオリジナルがどこかに存在しているのだという事実に。
「そうよ、けいの持つ神破振りのオリジナルは存在していた。あれを分かりやすく説明すると、私たちの持つアプリと同じ。契約してその力を借りるという代物。刀そのものにもある程度の神秘を破壊する力は持ち得ていたけど」
「存在していた?」
「過去形なのは……、ある人が所持していたのを十年前に強奪されたから」
「それって……」
圭哉が義姉に引き取られた時期と一致する。それを聞きたい衝動に襲われるが、「今気にするべきはそんなことじゃないでしょ」と叱られてぐっと抑える。
「――っ、わかってるさ」
「その神破振りは今もあんたと仮契約の状態で繋がりがあるのよ。それがあんたの刀の種」
ピロンッ!
「今データを送ったわ。迷いを振り切ってそれでも、女の子を救いたいって覚悟があるならそれを開きなさい」
端末がデータの受信を知らせる着信音が鳴る。送られてきたものを確認する前に、圭哉の義姉は「用件は済んだから」と言って通話を切ろうとする。
その前に圭哉は、
「義姉さんは迷わないのか?」
最後に問いかける。
データには、おそらく自分の異能を本来あるべき姿に昇華させるのに必要なデータが入ってるだろう。
それを開けばもう後戻りできない。
少なくとも二度と神破振りの具現化を行なわない、それぐらいのことがなければ――どこがでルールブレイカーの存在が露呈してもおかしくない。
「迷わないなんて言うのは人の道を外れた狂人だけ。誰だって迷うことの一つや二つあるわ」
「俺は義姉さんの迷う姿なんてちっとも想像できない」
「それは言い過ぎでしょ。私だってたまには迷うわ。明日の晩御飯は何にしようかなー、とか」
思わず「おいっ」と突っ込みそうになるが、次に漏らした義姉の本音に圭哉は何も言えなかった。
「愛する義弟の命を危険に晒して可能性を提示するか、黙って箱入りの平和に閉じ込めるか――とかね。それでも一度選択したなら、あとは信じるだけよ」
「……」
「あんたがどっちを選ぶか知らないけど、さ。――私の選択を後悔させないでよ」
「ああ」
通話の切れた端末をベッドに放り投げて、天を仰ぐ圭哉。戦争という大きなリスクが彼の理性に重くのしかかり、ようやく抜け出せそうになっていた足が再び思考の沼に絡み取られる。
心のどこかで「早く動け」と駆り立てる自分と、「大勢を危険にさらすのか?」と問いかけてくるもう一人の自分が口論を始める。
エアコンの風に揺らされて、さっき視界に入ったビニール袋がカサカサ耳障りな音を立てる。
「あいつ――隠れて食ってたな」
二つ買ったはずのカップ麺がひとつ減っている。ゴミ箱の中には綺麗に洗ってある空の器が一食分。
(どうして、あいつはそこまでこんなのに拘ってたんだ。ここ数日でもっと美味しい物も色々食っただろうに……)
何気ない疑問が浮かぶ。
「ああ、なるほど。そういうことだったのか……くそったれ!」
そして、――その答えに思い至った。
記憶を奪われ続けた少女にはこれが数少ない残された大事な思い出だったんだ、と。
圭哉と初めて会った日。空腹で倒れた彼女が受けた人の優しさと温かさ。彼女にとってカップ麺とは――世間一般で言う遠い昔食べた母の味にも匹敵する、圭哉との大切な思い出の味だったのだ。
気付けば圭哉はベッドの携帯端末を手に取り、勢いよく立ち上がっていた。そして、そのまま振り返ることなく部屋から飛び出して行く。




