お別れ
置手紙だけ残して消えたノア、しかしその口調にひとつ違和感を持つ。
「ケイヤさん?」
ノアが無事なことに一度は安堵した圭哉は、今度は猜疑心を持ってソファーへ腰を落とす。
「あっ――いえ、ケイヤ! ケイヤですよ? ケイヤ」
「……」
絵に描いたような狼狽振り。慌てた声の後ろではマレウスのため息も聞こえてくるほどだ。
「――わたしはもう君の知る『ノア・サウセイル』じゃないんです。いいえ、元からわたしは『ノア・サウセイル』じゃなかったんです」
一拍の間を置いて、少女は隠す事を諦めたようにぽつぽつと真実を語り始める。
「以前のわたしはおそらく話していないでしょうが、『死者を選ぶ乙女の瞳』は発動の代償として記憶が消えるんです」
「なっ――、だが記憶はあったはずだ。占いとか、魔術師とかの……」
「それは知識であってわたしの言う記憶とはまた別なのです」
人の記憶には個人が経験した出来事に関するエピソード記憶と、学習することで獲得した知識に関する意味記憶の二種類ある。
これらは脳の記録する場所が異なり、記憶障害はそのどちらかに問題が発生した場合に起こるものである、と。
圭哉はそんな心理学の授業で習った事を思い出す。
教職である天海はそんな脳科学の初歩も初歩のことなんて最初からわかっており、圭哉とは全く違う疑問に得心が行ったという表情をしている。それは圭哉も一度は疑問に思っていたことだ。
「なるほど。どうやってラプラスの悪魔とも言える未来演算――量子コンピューター並の演算能力をどこから引き出していたのか気になっていたが、随分危うい状態だな」
「どういうことです?」
「灯滅せんとして光を増す……、分かりやすく言えば火事場の馬鹿力だ。生物は死を前にすると危険を脱しようと生体エネルギーを過剰に放出する。おそらく記憶の喪失を疑似的な死に見立てて、足りないエネルギーを補っていたんだろう」
「それを意図的に何度も……?」
少年はあまりの残酷さに絶句する。
疑似的とはいえ、おそらくは実際に行なわれた臨死体験は一度や二度ではないはずだ。
高天原の研究には行き詰った異能者の性能を上げるため、薬物投与や精神系の異能者を使って非人道的なことも行なわれているという噂を圭哉も聞いたことがある。
だが実際それに近いことが行なわれており、実体験したのがずっと一緒に居た少女だったのだ。
「……わたしが君に望んだのは守ってもらうことでも、魔術を消すなんて夢幻でもない。『わたしを殺してほしかった、ただそれだけです』」
「今さら……。なら、なぜそれを止めたんだ。どうして――」
――途中で姿を消したんだ。
最後まで言えなかった。
ノアの消失を知った時、最初に感じたのは自分を信じてくれなかったノアへの怒りでも、彼女の望み通りルールブレイカーを作り出せなかった無力な自分に対しての嫌悪でもなかった。
「ケイヤは……わたしを、殺したいですか?」
「――っ」
そう、少年は少女が居なくなったことに安心してしまったのだ。
マレウスから聞かされていた、ノアが死を望むかもしれない悲劇的結末を強いられずに済んだ、と。
圭哉が逃げた命題の解答ができるはずがない。
「わたしはもう誰も悲しませたくない。君の心に一生残る傷跡を刻みたくない。だからイギリスに帰ります。――大丈夫。わたしの魔術は人を救うために使えるよう、上と交渉つもりですから。だから、だからっ、バイバイ――ケイヤさん」
ノアだった少女の気配が遠のく。どうやらその場からも立ち去ったようで「後はよろしくお願いします」とマレウスに言い残すのが遠くに聞こえて、彼女は完全に消えた。
それでも圭哉は何も言えなかった。
「では、こちらからひとつ通達しておきます。我々は魔術師殺しの討伐を行ないません。少なくともそちらからの敵対がなければの話ですが……」
圭哉の無事を確保するためノアが説得したのだろう。しかしそんなことどうだっていい。今の圭哉には何一つ響くことはない。
むしろ何もできなかった自分がさらに惨めで格好悪くて――ただただ自己嫌悪させるだけだった。
「私からひとつ聞いておきたい疑問点がある」
茫然自失な教え子に代わって、大人であり今だけ保護者のつもりでいた天海がとある疑問を投げかける。
「どうぞ」
「『なぜ、ノアは自殺を選ばない?』 わざわざ白上の力に頼ることをせずとも、刃物でも魔術でも自ら行動を起こせばいいだけの話なはずだ。――まさか怖かったから、なんて感情の話じゃないだろ」
「当然な質問ですね。その答えは『困難』だからです。彼女の『死者を選ぶ乙女』には意思とは関係無しに動く自動防衛機能があります。大抵の攻撃は自傷も含めて先読みされ、攻撃者を黄金の黎明の上層部の用意した高級魔術具で撃滅する」
彼女は決して戦えない魔術師ではなかった。
未来を知る。どれだけの対策を施しても、彼女の魔術の前では無意味も同然だった。
ノアは自由に戦えないだけで、その戦闘能力は準魔王級魔術と称されるだけの力があるのだ。
それほどの力があってもノア・サウセイルと名付けられた道具には、自分の生き死にの自由すらなかった。
死者を選び、死を命じる――そして彼女自身が魔術の生贄であるからこそ。シメイの魔女なのだ。
彼女もまた社会の中心に組み込まれた歯車でしかなく、それどころかクラスDの少年なんかでは触れることもできないほどの、巨大な歯車のひとつなのだ。
「それではこれで今回の話は終わらせてもらいます。できれば……こちらの慈悲に素直に受け入れていただけること願っています」
まだ全部を話したわけじゃない。
何かを隠しているようにも思えるが、天海はこれ以上追求することはせず踏みとどまる。
彼女は大人だ、退き際を見誤ることはしない。
せっかく教え子が危険に飛び込むのを諦めたのだ。変に藪なんか突かず、黙っていた方がいい。
だからこそ天海は気付いた。
この使い魔越しに話していた魔術師もそのつもりで話さなかったのか、と。




