シメイ
昼間ならば釣り人や、恋人たちのデートスポットにもなる湾岸のオシャレなタイル道。
大学が所有する海洋調査用の少し大きな物から、部活やサークルの手ごろなサイズのクルーザー船まで。夜の帳が下りる最中、物悲し気にゆらゆらと波に揺らされている。
この場には、街灯に照らされ剣呑な空気で向かい合う二人の男がいた。片方は金髪に西洋人顔の成人男性、もう片方が黒髪の少年である。
そこでノア・サウセイルは自分の視点の異常に気付く。彼女の普段の視線よりずっと上――、男達より数メートル高い場所から見下ろしているのだ。
(これは夢? いいえ、違う。これは、……『死者を選ぶ乙女の眼』の見せる未来)
初めての経験だが、彼女の魂がこの感覚を知っている。
そう、これは未来。過去でもなければ現在でもない。必ず起こる未来の死だ。
ノア・サウセイルを救おうとする白上圭哉が誰かと戦おうとしている。
もし自分の記録が正しいなら、相手は特級魔術師。彼の勝てる相手ではない、隔離結界のせいで弱体化していたセリスとはレベルが違うのだ。
わたしなんかのためにこれ以上傷つかないで、はやく逃げて。
そう叫ぶのは簡単だ。ここがスクルドによって見せられている泡沫の夢でしかなくても、干渉することはできる。だがあの少年はきっと避難を促す自分の言葉に従わないだろう。
自分が傷つくのも厭わず危険に立ち向かう。ただ「後悔したくないから」という理由だけで。
金髪の男が腕に巻いた時計の針が進む度、魔術師の男と切り合う少年の傷は増えていく。
こんな光景見たくない、と拒絶したノアはその場で蹲る。
自分のために――、自分のせいで――。少女の心に鋭い痛みが突き刺さる。過去の自分が経験してきただろう無力感が彼女を襲う。
それと一緒に魔王級魔術『死者を選ぶ乙女』の代償として、ノアの記憶は失われていく。作り上げたジグソーパズルのピースをひとつひとつ取り除かれるように、自分を構成するありとあらゆるものを喪失していく恐怖に苛まれる。それは死と同義の絶望だった。
ノアはこの時のために携帯端末のメモ機能に記憶を残してきた。
だが、だが……しかし、日記に書き残された大切な思い出は彼女の記憶と言えるのだろうか?
既に自分はノア・サウセイルという人間とは別人と言っても過言ではないのでは……。
このまま自我と共に消えてなくなってしまう。自らの死を感じ取った少女の耳に、ふと――
もう名前も思い出せない少年の声が聞こえた気がした。
そんなわけがない。
今の少女は音量をゼロにしてテレビ越しにドラマを見ているのに近い。たとえこの場所に干渉することを選んでも、役者となった自分の声も観客のノアには届かない。
これはスクルドの眼を通して覗き見る特性上、仕方のない話だ。
だが、
「――、ノア――」
いつの間にか倒れ伏していた少年が男に向かって何かを話している。
会話は聞こえない、届くはずがない。しかし自分の名前だけは聞こえる。確かに聞こえてくるのだ。
これは幻聴だ。きっと何度も呼ばれてきたから、僅かに残る記憶が勝手に彼の声で再生してくれただけなのだ。
激しく動揺する少女が今度は幻視する、これから起こる未来を。
これではいつもと同じだ。
「――ケイヤ!」
気付いたら少年の名を呼び、少女は手を伸ばした。
例えそれが意味のない行為だとしても、少女は叫ばずにはいられなかった。
そこで、ノア・サウセイルは夢の途中で意識が覚醒した。
まぶたを開いた少女が最初に見たのは一匹の鳥だった。
「起きたようですね」
「――?」
目覚めたばかりの少女は無垢な表情で自分に話しかけてきた『モノ』を見る。
アクアマリンのような透き通った体は生物らしさの一切無い、幻想的で可愛らしい青い鳥。しかしその声は美術品のような姿に似つかない、男の低く落ち着いた声質であった。
「あなただれ? いえ、わたしはだれ?」
からっぽの記憶からではなく、知識から情報を拾い上げた少女はそれが魔術と呼ばれる物で作られた使い魔であることを理解させられる。
また記憶を失った真っ白で純粋な少女に青く透明な鳥は答える。
「あなたの帰りを待つ者ですよ」
その朝、ノアは行方を眩ませた。




