寝ぼけ魔女
次の日の朝、泥のように眠りこくった白上圭哉は寝返りで走った背中の痛みと、何やら温かく――そして柔らかいモノが押し付けられる感触で目を覚ました。
ぼやける視界に入ったのは朝日の淡い明かりが差し込む、知らない部屋。
(ここはどこ――、って先生の家か)
見慣れない目覚めの景色をぼーっと眺めながら圭哉の頭は徐々に覚醒していく。
自分が今いる場所は自身の家ではなく、担任の天海美鈴が暮らす高層ビルだ、と。
ゲスト用の布団が一組しかないということで、唯一の男である圭哉はブランケットとソファーで眠ることにしたのだが……。なぜか体が熱い。もっと詳しく言うならば寝る前に被っていたブランケットが妙に生暖かく、そして重く感じる。
邪魔なブランケットを退けようと手だけを動かしていたら、
もにゅっ! ――んっ。
変な感触と艶やかな声が返ってきた。
この揉んでいると幸せになりそうなモチモチクッションをいつまでも触っていると、
「あの……ケイヤ? 寝ぼけていりゅのはわかりましゅが、そろそろわたちのほっぺを解放しれくれましぇんか?」
首を体の方に曲げると、じっとこちらを見つめる青い瞳と目が合う。
圭哉は彼女の片頬が赤くなっているのには触れず――そんな余裕がないというのが正しいが――、さっ! と手を引っ込めた。
天海が使っているシャンプーと同じシトラスのような柑橘系の香りがする金髪は寝汗で白い肌に張り付き、寝巻に借りたサイズの合わないシャツを着たノア。
そのなんともなまめかしい英国少女の姿に圭哉は体だけでなく顔まで熱くなるのを感じた。
そんな青少年の動揺を気づかない少女は彼の上で身じろぎしつつ、
「それと――どうしてわたしの布団にケイヤが居るのですか?」
と、どこかぼけーっとした口調で尋ねる。
まるで圭哉が彼女の布団に入り込んだような言い様だ。一瞬そうなんじゃないかと思わされるが、横を見ると寝具にしたソファーのクリームイエローが視界を埋め尽す。
「お前が居るのは白上さんの寝てたソファーです」
「そうですか――わたしが寝てる間に連れてきたんですか? もうケイヤってば、むにゃむにゃ、……おやすみなさい」
「そんなわけあるかっ、二度寝してんじゃねえぞ! 低血圧魔女!」
寝ぼけていたのは圭哉も同じだ。朝から大声を上げて、もう一人の同居人に気付かれないはずがない。
「あんた、教師の家でそれはないでしょ」
ソファーの背から痴漢を見るような目で、天海が自分の生徒を見ていることに気づいた。
「……裁判長、情状酌量の余地は?」
どうせトイレで起きたノアが寝ぼけてソファーとベッドを間違えたのだろう。
道中に落ちていたノアの枕を拾う天海はため息を吐き、
「ならさっさと起きなさい。いつまで寝ぼけた女の子と一緒に寝てるつもり?」
と、抱き枕にされている圭哉を静かに叱りつけた。
「速やかに起床させていただきます」
圭哉は体の上に乗っかり二度寝に入ったノアを乱暴に落として、背伸びをしつつ起きる。
どしんっ!
「あぐっ――イタタッ。んん、もうーなんですか、よっこいしょ。……ぐぅー」
一方落とされた少女はのそりと芋虫のような動きでソファーに戻ると、地面に転がるブランケットを拾って二度……いや三度寝を始めた。
「これ、どうします?」
「大目に見てやれ。疲れてるんだろ」
日本とイギリスの時差は約九時間。時差ぼけを直す余裕すら怪しい逃亡生活は精神的にも肉体的にも限界だったのかもしれない。
それを理解し、「……そうでしたね。悪かった」とすやすや眠るノアに謝り、雑に乗せられた布を手に取り優しくかけ直した。
それから七時間ほど経過して、現在の時刻は午後一時。
本来なら学校で補習を受けるはずだった圭哉なのだが、
「補習はこっちでなんとかしとくから、彼女の傍に居てあげなさい」
天海の心遣いによって免除――ではなく延期という形で融通を利かせてもらうことになった。
そういうわけでソファーでぐーすか眠るノアを放置し、圭哉は魔術を消す方法はないか調べ始めた。
とはいっても天海先生の紹介で彼女の父である医者に相談するか、一般にも開放されている都市ライブラリーの論文を探す程度しかできることはないのだが……。
当然ながら参考になりそうなモノをそう都合よく見つけられるはずがなく、それどころか取っ掛かりにすらたどり着けず空腹で作業を中座することとなった。
慣れない論文を読み込んだせいでショボショボする目で圭哉が台所で食事の支度をしていると、ご飯の匂いに釣られて眠り姫が起き出してくる。
「なぜわたしはソファーで寝てたんでしょう?」
さっきの事は夢の中のできごととでも思っているのか。ノアは同じような質問を繰り返す。
「さっきのは夢じゃなくて現実だぞ」
「えっ、わたしの体を弄んだの……ケイヤ?」
「人聞きの悪いことをいうなよ? こっちは別に昼飯を一人分減らしてもいいんだぞ?」
「ふふん、わたしには昨日買ったあれが――。あっ、いや冗談ですよ。だからそんなゴミを見るよな目で見ないでください」
ひとがわざわざ二人分の支度をしてやっているのに。
カップ麺に異常な執着を見せ続けるノアのおふざけから一転、照れ臭そうな――けれどどこか心苦しそうな顔でポツリと呟く。
「ケイヤは優しいですね」
「なんだよ、いきなり」
「こんなに迷惑ばかりかけてるのに、こうやって厄介者の食事まで作ってくれるんですよ? どんなお人好しですか、わたしが聖人認定っしちゃいますよ?」
体と心を休ませることができたおかげで、ノアは改めて周りをじっくり見ることができた。……見てしまったのだ。
そして気付いた。自らの行いがこの少年にどれほど苦労を――、危険を背負わせていたかを。
「厄介者って……それは違うだろ」
「違いません。わたしのせいでケイヤは傷ついた。わたしのせいで日常を壊した。マレウスも、セリスも――ルールブレイカーを持つケイヤを処分しようとしてる! わたしのせいで――! わたしのせい――!」
少女の精神は限界だった。魔術によって多くの死を見てきたが故に、溜まりに溜まった負荷は風船のように膨れ上がり破裂する寸前にまで達していた。
「ああ、そうだな」
「ごめんなさい、ケイ――」
少女がまた謝ろうとするのを遮り、圭哉は本音を告げる。
「ノアのおかげで俺は『自分を誇れる』」
俯いて涙を浮かべていたノアは思いもしなかった答えに「えっ?」と涙が一度引っ込んでしまう。そして、キョトンとした顔で圭哉の顔を見返す。
「困ってる女の子を助けた俺は誰かに誇れる自分でいられる。俺は女の子を守るために傷つきながら戦ったヒーローなんだって」
それは小さな嘘だった。彼はまだ少女を助けたとも、守れたとも思っていない。それでも彼は続ける。
「日常生活でなんの役にも立たないわ。上達もしない異能のせいで補習を受けて、自分の不甲斐なさに自己嫌悪する。そんな日常からノアが救ってくれた」
『俺はヒーローに助けられるモブ側っすよ』
天海に言った冗談めかした本音がまた、胸に突き刺さる。そんな悲痛にまみれた心を奥底に隠して少女の心を守りたくて言葉を紡ぐ。
「俺に助けを求めてくれてありがとう――ノア」
「ひっぐ――うぐっ」
彼だって理解している。
魔術師からノアを守れても、それが僅かな猶予でしかないことを。きっと次はもっと理不尽な現実が襲い掛かってくるだろう。それを乗り越えてもその次のもっと大きな……。
クラスDの自分ではノアを守る防波堤にも抑止力にもなれない。いつかどうにもならない現実の波に飲み込まれてしまうだろう。
白上圭哉はヒロインを守り通せる、逆境を打ち砕くクラスSではないのだ。
それでも――それでも、今は。隣で後悔と心細さで泣きじゃくる少女の頼れる男でありたかった。




