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携帯電話

2002年ころに書いた話です

   



 休み時間になった瞬間に、実夏は携帯電話をとり出した。顔の正面にもってくると、授業中、頭の中に流れていたメロディーを電話に向かって歌った。

 実夏は、携帯電話をメロディーメモとして使うことが多かった。思いついたときにメロディーを吹きこむのにちょうどいい媒体だと気付いたのは、いつだったろう。

「るーるーらるーるるー」

 歌い終わると、前の席にきていたあやめが最後のフレーズを繰り返して、うん、いいよね、といって、まるでなつやすみの小学生のように笑った。

 実夏は、夏制服に指定されているベストを着ていたけれどあやめは着ていなくて、白いブラウスだけで高校に来ていた。窓の外は、梅雨明けの七月の日差しがふりそそいでいて、夏を主張している。そういえば子供の頃は、あのまぶしい太陽を、直接見ていた。いまでは、室内の生活が主体になってしまったからなのか、太陽を見つめることなんてなくなった。実夏は、窓の外に落ちている光を見ただけで、目が、しゅっ、とするのを感じた。

「ねえ、またリトルボイス行くんだけど、実夏も来れない?」

 あやめは実夏を見て笑っている。あやめはいつも、何の曇りもない表情でひとと接している。その表情を目のあたりにすると、実夏はいつも、歳の離れた妹のことを思い出した。

「ごめん、きょう横浜なんだ。追い込みでね」

 連日、気温は三十度をあたりまえのように超えてきて、湿度も高く、じめじめしていた。この時期になると実夏はいつも、相棒のコンディションに気を遣わなければならない。念のため顧問に理由を話して、クーラーの効いている職員室に置かせてもらっているから、まず問題は起こらないだろうけれど、やはり湿度と温度変化には注意しなければならない楽器だった。

「あ、そうか、もうそんな時期かあ。またコンクール、見に行くよ」

「ありがと」

「今年はどう? 調子」

「今年から一般に混じるから、正直きつい」

「そんなあ。去年のジュニア全国三位のくせに」

「うん、とにかく頑張るよ」

 今年から高校生になって、コンクールも一般枠からの出場になる。バイオリンで食べていくのが、実夏の夢だった。一般に混じってどこまでやれるのか、受験勉強をするコースに進んでおいたほうが無難なのか。今年のコンクールの感触ですこしは自分の進路も導かれるかもしれない。実夏は、同級生たちより一歩先に、岐路に立たされている事実をじんじんと感じていた。

 とにかく、やれるだけやってみるしか、ない。

「あ、そうそう、リトルボイスなんだけど、十時までやってるから、帰りに寄る気、ない?」

 実夏が、このところいつも考えてしまうことをまたじっと考えていたときに、あやめが言った。

「八時くらいには、戻ってくるけど……」

 けど、できれば、家で今日のところを復習したい。感じをつかめるかどうかは重要だ。

「結香がね、会いたがってたの。あのバイオリンうまい子とまた合わせてみたいなあ、って」

 実夏の思いとはべつに、あやめがそこまでしゃべったとき、午前最後の始業チャイムが鳴った。席を立ったあやめに、おぼえとくよ、と実夏が言うと、あやめはやっぱり、夏を迎えた子供のように、嬉しそうに笑った。



 バイオリンを抱えて、実夏は新幹線に揺られていた。夏とはいえ、すでに日は落ちていて、窓の外には夜の景色が流れていった。あるところでビブラートを柔らかくかけるか、また違うところではレガート気味に弾くか。解釈によって曲の表情も微妙に変わってくる。弾き方に、どれが正解、ということはないが。今までは先生の解釈がかなりの助けになっていたけれど、実夏なりの解釈をそろそろかためなければならない。オーソドックスだけど、マイクを用意して録音してみた方がいいかもしれない。

 そこまで考えると、実夏は座席にもたれて目を瞑った。

 ―― Ladies and gentlemen, we will soon make a brief stop at ODAWARA. Thank you.――

 ……まだ、すこし休める。

 ……レディスアンドジェントルメン ウィーウィルスーン メイク ア ブリーフストップ アト オダワラ センキュー

 実夏は、アナウンスをぼんやりと頭の中で繰り返しながら、新幹線のシートに沈みこんだ。



 携帯電話の着信で目がさめた。ぼんやりと寝起きの頭を感じているうちに電話の揺れはおさまってしまった。着信はリトルボイスからだった。

 実夏は両手をぐいっと前に出して伸ばしながら、軽く首を回した。寝て、頭がすこしすっきりしたようだ。

 実夏は、携帯電話をじっと見てから、顔に近づけて思いついたメロディーをうたいはじめた。



 実夏が制服のままリトルボイスに寄ったとき、既に時計は九時近くをさしていた。国道沿いにある、オレンジの屋根がライトアップされたその店は、だだっぴろい海に浮かぶ島のようにまわりの景色から浮きあがっている。実夏は、ころんころん、とカウベルの音を鳴らしてドアを開けた。ピアノの旋律が耳に流れ込んできて、カウンターにいた結香に、あ、みかちゃんひさしぶり、と声をかけられた。にっこりと笑った結香の顔は、見ている実夏までとても気持ちよくなってしまうほど綺麗で、そのままモデルにでもなってしまえそうだ、といつも思う。

「こんばんは」

 実夏が挨拶をすると、結香の奥に座っていた達也から、こんばんは、と返ってきた。

「あれ? たっちゃん?」

「はい」

「ここは、はじめて?」

「お姉ちゃんに連れられて何回か」

 実夏の覚えている達也と、どこかずれている。達也には半年ほど前に会ったけれど、成長期の男の子はその記憶をとびこえて、細長くなっている。

「なんか雰囲気かわったね。背、伸びはじめた?」

「はい、ここ三ヶ月で、五センチくらい」

「じゃあ、もう、あやめのこと抜いた?」

 ピアノの音が、止まった。

「いま、同じくらいだと思いますよ」

 中学に進学したとたんに丁寧になった達也の言葉遣いが気になって、普通に話してよ、と言おうとしたとき、すとん、と実夏の隣にあやめが座った。

「実夏。来ないかと思ったよ、もう」

「だって、呼び出したでしょ。もう」

 実夏とあやめは同時に笑った。

「はい、サービスで。そのかわり、あとでよろしく」

 いつも実夏が注文するアイスティーをマスターが出してくれた。実夏は、ありがとうございます、と言ってひとくち飲んだ。つめたくて気持ちよかった。

「じゃ、次は、私のばんね」

 結香が席を立ってピアノに向かった。ゆったりとした旋律が店を埋めてゆく。

 実夏は、あやめを通して結香と知り合った。自分のバイオリンに壁を感じていたとき、あやめにここに連れてこられて、はじめて結香と会った。そのとき、実夏とあやめは中学二年生で、結香は大学二年生だった。

 結香の演奏は、技術的にはもうひとつ(プロとしてやっていくには難しい、というレベルなので相当のものだ)だったけれど、いつも、空気が伝わってきた。楽しかったり、寂しかったり、嬉しかったり、かなしかったり。実夏はそういうピアニストと合わせたことがなかったので、はじめて結香と弾いたとき、震えがきた。パートナーによって、こんなにも演奏が違うものなのか、ということを、頭ではわかっていたつもりだったけれど、はじめて、身体で感じることができた。

 今日の結香の演奏は、とても、透明だった。でも、透明すぎて、どこかかなしかった。

 結香の演奏が終わると、あやめは実夏に弾かせたがったが、もうちょっと待って、と言ってアイスティーを飲んでいると、再びあやめがピアノに向かった。あやめは、何を弾こうかすこし迷っているように、ぴいん、とひとつの鍵盤を叩いた。そして、そのひとつの音からイメージを繋げていくように、メロディを紡いでいった。

 聞いたような進行だな、と思っていると、その曲は『あかとんぼ』のメロディをなぞりはじめた。これから本格的な夏に向かうというのに、あかとんぼ、か、実夏は思わず笑ってしまった。あやめらしい演奏だ。

「実夏さん、このところ気をつめすぎてる、って心配してたよ」

 マスターが実夏に話しかけてきた。マスターの視線の先には、楽しそうに赤とんぼを弾いているあやめがいる。実夏はすこし戸惑って、カウンターにいる結香を見た。彼女と目が合うと、そのきれいな顔は、実夏に向かってにっこりと笑いかけた。

 あやめのやつ……。

「あやめ、って純すぎるよね」

 実夏は席を立つと、バイオリンケースを椅子の上で開けた。

「純?」

 マスターが訊き返した。実夏は糸巻きをまわし、弦を張りながら頷き返した。

「あいつ、心がきれいすぎるんだよ」

 ……十六にもなって。いつまでも、かなしくなるほど、正しい。

「そうだね」

 結香が、ゆっくりと言った。

 実夏は、弦を(はじ)いてだいたいの音を合わせると、あかとんぼを弾いているあやめの隣に行って、ゆっくりと主旋律を重ねた。実夏が演奏を合わせてきたことがわかると、あやめはにこっと笑って、演奏を伴奏主体のものにかえた。

 実夏はそのまま、ワンコーラスのあかとんぼを弾いた。

「楽しかったね」

 あやめの言葉に、実夏は苦笑した。

「楽しかったけどさあ、季節を考えてよ。これから夏なのにあかとんぼはひどいでしょ」

 実夏はピアノで(アー)の音を鳴らすと、きっちりとピッチを合わせた。

「えー? じゃ、どんなのがある?」

「えーと……」

 実夏はしばらく考えてから、バイオリンを顎に挟んだ。五小節目からあやめが演奏に加わってきて、更に、そのあとに結香のアルトが重なった。


ともだちができた すいかのめいさんち

なかよしこよし すいかのめいさんち

すいかのめいさんち すてきなところよ

きれいなあのこの はれすがた

すいかのめいさんち


 ――これって夏の歌なのかなあ。

 ――さあな。

 達也とマスターがふたり、店の隅で話していた。



 一学期の期末テストも終わって、実夏とあやめは部活をさぼってリトルボイスに行くことにした。七月の太陽を浴びながら、鳴きはじめたせみの声を聞いて、ふたりで商店街を抜けた。スーパーの店先のやさい、銀行の駐車場にとまっている車、ローソンの青いプラスチック看板、そば屋の窓にかかっているすだれ、古本屋の店頭に並んでいる文庫本たち、昔からやっているらしい、アイスクリームを売っている食堂。夏のひかりが、街のなか全てのものをまぶしく照らしていた。実夏は、アイスクリームを五つ買うとあやめと食べながら、普段より色彩の強い商店街を歩いた。

 

「マスター、おみやげ」

「ああ、『一富士』の……。あそこも昔からかわらないよな」

 実夏が差し出した紙袋を、サンキュ、といってのぞくと、もなかにつつまれているバニラアイスを見て、マスターはひとつを口にくわえた。

「今日、結香は来てないの? あ、アイスコーヒー」

 あやめは店内を見まわしてから、実夏の隣に腰を落ちつけた。

「んー、このところ、きてないな。このまえ二人が来たとき……、あかとんぼのときからきてないよ。……実夏さんはどうします?」

「アイスティーで」

 マスターは、咥えていたアイスクリームをくしゅっと食べてしまうと、コーヒーを淹れはじめた。

 結香とあやめは、この喫茶店でピアニストとして働いている、と言っていた。働いているというより、ピアノを弾くかわりに食事をさせてもらっているようなものだ、ということだった。

 実夏は、結香のことでひとつひっかかっている。なんとなく眠そうにしていたり、話しかけても反応が鈍いことがある。片頭痛の薬、といって飲んでいる薬……。あれは強いのだろうか、それとも、違う種類の薬、なのだろうか。

 アイスコーヒーとアイスティーが、実夏の前にとん、と置かれた。あやめはすでにピアノに向かっておとなしめの曲を弾いている。他の客も多いので、さすがにあかとんぼを弾くわけにもいかないだろう。実夏は、アイスティをひとくち飲むと、じゃ、あたしもいってくる、とバイオリンを持って、ピアノに向かった。



 携帯電話のボイスメモを聞き返しながら、実夏は五線譜に音符を書き入れていく。自分の声を聞いて、譜面に表して、その旋律をバイオリンでなぞって、また譜面を見て……、それが、実夏の曲の書き方だった。

 きっちりと楽譜にしていくと、ただの断片だったものが徐々にイメージとして形づくられてゆく。けれどその作業は、実夏の意図とは別の流れに乗ってすすんでいって、最後にはいつも、思い描いていたものとはまったく別のものができあがっている。つくっている実夏とは別のところで、曲が息づきはじめてくる。それをうまく誘導して、形として完成させてやる。そんな作業だった。

 携帯電話を手にとって、続きのメロディを探そうとした実夏の指が止まった。

 ――みかちゃん……、おねがいがあります

 結香の声だった。不自然すぎるほどゆっくりとしゃべっている声を聞いて、実夏は自分の眼圧が上がっていくような気がした。

 ――みかちゃんは勘がいいから気づいているかもしれないけど……、私、精神科にかかってて、その治療のためにここを離れることになりました。薬も、うまく症状を抑えられないようで、きちんと専門の病院に入らなければいけないみたいです……。病院、遠くにあるし、治っていくかどうかもよくわからないので、もしかしたらもう会えないかもしれない……。

 目の前にあるはずの五線譜が、突然そらぞらしく見えた。実夏は、右手に握っている弓を、きつく握りしめた。

 ――それで、あやめには、様子を見て、伝えられるようだったら伝えてください。ひきょうだけど、あやめのことが好きすぎて、自分からはどうしても言えないの……。あと……、うん、やっぱりいいや。あやめとみかちゃんと一緒にいたとき、たのしかった……。みかちゃんと一緒にピアノ合わせたとき、私、ぞくぞくした。私はだめだったけど、みかちゃん、日本を代表するバイオリニスト、に、なってね……。じゃ、ね。ばいばい。

 メッセージが終わるとすぐに、実夏は携帯電話の履歴を見た。三日前の深夜、公衆電話からの着信になっている。実夏は、目を瞑って唇をかんだ。頭の中をまとめようとしたけれど、うまくまとまらなかった。

 右手に力が入りっぱなしになっていることに気づいたけれど、すこしでもそれを緩めたら。なにかが崩れてしまいそうで、どうしても弓を離すことが出来なかった。



 ――あやめです。実夏、コンクール頑張って。行けなくてごめん。中部大会には行くからねー、ってプレッシャーかけてるかこれじゃあ。でも実夏なら県大会なんて余裕だよ余裕。そうそう、あれから、結香、見ないんだけど、何か知ってますかー? 私はこのところ、毎日リトルボイスに出てます。実夏も時間できたら来てねー。それじゃ、実夏がんばれー。

 実夏は、朱いワンピースを着てコンクールの控室にいた。ドレスを着飾っている人もいたけれど、弾いているときに普段と感触が違うと気が散ってしまう可能性がある。負の要因になりうるものは徹底的に排除したい。

 実夏は、あやめのメッセージをもういちど聞くとゆっくり頷いた。

 あやめにはまだ結香のことを話していない。実夏だってあやめのことが好きで、話しづらくて、ずっと先延ばしにしていた。なつやすみがこんなにありがたかったのははじめてだった。

 いちど話をしたくて実夏は寮に電話をしてみたけれど、結香はもうひきはらったあとだった。そのあと連絡を取ろうとしたけれど、なにしろ、実夏が知っているのは結香が通っていた大学と、出身地くらいだったので、どうしようもなかった。このことをあやめにどうやって伝えればいいのか、そればかりをじっと考えて途方にくれる日が続いた。

 けれど実夏は、結香のメッセージを何度も聞いているうちに、あることに思い至った。

 実夏がコンクールに出ることは、結香も知っていたはずだ。こんな地方大会じゃ無理だろうけれど、全国大会なら、きっと結香の耳にも入るはずだ。毎年、実夏が全国大会に出ていれば……。そうすれば、もしかしたら……。

 あやめ……。絶対に、もういちど結香と会わせてやる。

 実夏は息を深く吸いこむと、自分の相棒と一緒にステージへ進み出ていった。




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