8「勇気を与える勇気」
翌朝。
あまりに早く寝たものだから早朝に目を覚ましてしまう。
時刻は朝の4時半。
約束の時間まではまだまだ時間があるが俺はそそくさと制服に着替えて市民体育館へと向かうことにした。
家にいてもやることがなく暇な時間を過ごすことになるだけだ、適当に散歩でもしていよう。
俺は可愛い妹の寝顔を見てから家を出た。
緑の生い茂る散歩道をだらだらと歩く。
時折俺と同じように散歩をしている早起きじいさんとすれ違う。まだ日も登っていない時間帯だ、こりゃ散歩というより徘徊だなと失礼な事を思いながら適当に会釈をした。
この道をずっと行けばいずれ市民体育館に辿り着く。
まあこの時間に着いてもやる事がないのでどこか公園でもあれば立ち寄ろうと考えていたのだが、なかなか見つからない。
俺はさらにペースを緩め、杖のついたおじいさんに抜かされてしまうほどの牛歩で歩いていた。気づけば会場のすぐ近くだ。
「お、あったあった」
俺は会場手前で公園を見つけ、自販機で微糖の缶コーヒーを買ってベンチに座り込んだ。
甘ったるい味が口いっぱいに広がりその奥からほろ苦さが押し寄せてくる。
「あれ?先輩?」
聞き覚えのある声が聞こえる。
「みかんか」
声をかけてきたのは有谷みかんだった。
ランニングウェアを着て、お世辞にも頭が良さそうとは言えない犬を連れている。
「ももと約束があって早く来すぎたからここで待ってんだよ」
「ああ、例の試合の件ですね」
みかんとりん先輩は俺より先にももからお願いをされている。知っていて当然か。
「そっちはランニングか?」
「そ。私の家ここから近いんですよ。運動は美容にもいいですからねー」
肩にかけたタオルで汗を拭う。
それにしてもみかんはこういうスポーティーな格好が似合うな。
キュッと引き締まった身体に思わず目を奪われてしまう。
「先輩、なんか変なこと考えてます?」
「い、いや考えてねーよ」
ジト目で俺を睨んでくる。
近い、顔近い。
「先輩も運動した方が健康にいいですよー。ね、ポンー。」
「ポン?」
「はい、この犬の名前です。可愛いでしょ?」
そうだなと言いながら適当に撫でてみる。
おい、こんなヨダレを撒き散らかしながら人にじゃれてくる奴のどこが可愛いんだ?
「あ、そっか。一昨日の放課後にもも先輩と2人で残ってたのってそういうことだったんですね。てっきり加護野先輩がもも先輩に彼氏がいるって知らなくて手を出そうとしてるんじゃないかと思っちゃいましたよ」
う。
心に突き刺さることを笑顔で言うんじゃない。
「もも先輩、手作りのお守り渡すんだって息巻いてましたからね。なんだかいいですよねー、そういうの」
「そうだな」
「栗宮先輩も幸せ者ですね。あんな可愛い彼女がいるなんて」
「そうだ……え?」
みかんはさらりと言った。
「みかん、今なんて言った?」
「え?だから、栗宮先輩もあんな彼女がいて幸せですねって」
栗宮。彼女は確かにそう言った。
その名前は聞き覚えのあるものだった。
俺は比較的友達の数は少ない方だがそれでも同じクラスには何人か仲のいい連中がいてその中の1人が栗宮幸太だ。
バスケ部のエースで2年にも関わらず大学からは既にいくつか推薦の話がきている。
将来を約束されたようなそんな秀でた人間だがそれをひけらかす訳でもなく、誰にでも優しいいい奴だ。
連中とは恋愛の話なんてしないから知らなかったが、どうやら奴がももの彼氏らしい。
バスケ部に彼氏がいると言っていたから後で栗宮にどんな奴か教えてもらおうと思っていたのだが、まさか栗宮がその彼氏本人だったとはな。
「ももの彼氏って栗宮だったのか」
「あれ、知らなかったんですか?普段仲がいいって聞いてるから知ってるかと思ってたのに」
聞いてる?誰に?
「とにかく今日はちゃんともも先輩のフォローしてあげてくださいね。あの人けっこうあがり症だから勇気が出なくて渡せないってこともあり得ると思います。きっと先輩もそれをわかってて加護野先輩を呼んだんだと思います。だからちゃんと背中を押してあげてください。金庫が開けられないならあと一歩の勇気が出ない女の子の心の鍵くらいこじ開けてくださいね」
なんだかうまいことと酷いことを同時に言われたようだが、そんなことよりみかんがここまで他人思いなのを知らなかったから俺は少し感動してしまった。
俺はももとうまくいかなくて半ば不貞腐れて今日を迎えた訳だが、こうして改めてお願いをされるといくらか力になってやりたいと思えてくる。
俺の気持ちは叶わなかったがそれならせめて山岡ももの気持ちは叶えてやりたい。
ももは言っていた。
彼氏と付き合っていてもうまく自分の気持ちも伝えられず彼のために何も出来ず苦しい思いをしていた、と。
今日だってきっと本当は自分の力だけで相手に気持ちを伝えたいに違いない。
しかしこれまで勇気を振り絞る場面でことごとく失敗を繰り返し、後悔して挫折して自分だけではどうにもならないことを知った。それでもなお自分を変えたいと彼女は俺に声をかけた。
そうまでして成し遂げたい思いが彼女にあるのなら俺は俺にできる精一杯をしてやろう。
みかんのおかげで俺は勇気を与える勇気を貰った気がした。