優しさが包まれたなら
肉体に縛られない生活というのは楽だ。眠りは別として食事をしなくてもいいし、性欲とやらに行動を操られることもない。全ては自分の「高尚」な理念に基づいて行動できる。マズローの欲求五段階説の最も下の「生理的欲求」はもちろん、何も緊迫した危険や金銭的な問題もないので次の段階の「安全欲求」も常に満たされているのだ。それどころではなく、社会から切り離された存在ということもあり、三段回目の社会的欲求も必要がない。
というのも、俺はすでに生前世界を離れていて、生前世界と通じるには生前の俺としてではなく、何者でもない亡霊としてしかアイデンティティを示すことができないからだ。
もはやこの世界では名前は意味を持たない。現実世界に干渉するために、その情報は消さざるを得ないのだ。
一方、名乗らない—正確には名乗ることができない—ことによって四段回目の承認欲求をも不要とする、やたら高次な存在になっているようなのだ。
市のサイトのハッキングは結果としてうまくいって、多くの報道がなされた。犯人はもちろん見つからず、ダークウェブを使って匿名化された難事件ということになっていた。あの後、市は道に街灯とガードレールをつけ、夜でも道の境界がわかるようにして、また道から外れても川に落ちないようにした。
死んだのに俺は何をやっているのだろう。死んだら全てが終わるのではなかったのか。もしくは、別の死があるのかと考え続けている。それはまるで生きているようなもので、あるいは生そのものだった。
俺が生前世界を去ってからしばらくしてもミカはあまり楽しそうな顔をしなくなった。存在は失ってから価値に気づくとはよくいうが、そういうことなのだろうか。そうであれば、うれしさもあるし、胸を締め付けられるような気持ちにもなる。
妹の様子を隠れて覗く兄、というのも褒められたものではないが、あまりにも感情の起伏がないミカをみて俺は心配せずにはいられなかった。
「つらい」とこれ以上ないシンプルで直接的な救難信号をTwitterに投稿し、それが一度や二度でもないとなると誰しもが心配になるものだ。
そうしたミカを気遣うような返信が届いていて、心配しながらも俺は人間の優しさに安堵を抱いた。
「ぶらん」さんはとくにそうだ。大変だね、力になりたい、話を聞かせてと、妹を気遣ってくれているようだ。うまくはないが優しそうな筆致で描かれた—サンリオのキャラクターが入ったメモ用紙に描いた落書きのようだ—自画像と思わしき女の子のアイコンで、同年代にも思える。
そのうちに親しくなり、ふたりは会うことになった。女の子同士でしか話せないこともあるだろう。立ち直るのに、ほかの人のポジティブな考えを取り入れることも必要だ。
俺に肉体があったら、ここはソファーか椅子を立ち上がって、体を伸ばしているところだ。そしておそらくコーヒーなどを入れて、すこしばかり現状抱えている問題がひとつづつ解決していく様を想像しながら、リラックスしている。そういう妄想をひろげつつ、瞑想に入る。はたして俺が存在できている意味はなんなのだろう。あるいは理由は。
なんらかの宇宙のバグなのかもしれない。科学的にはありえないのだから。宇宙のバグで、消滅したはずの情報が生前の世界に影響を及ぼしているというわけだ。ハイゼンバグという言葉がある。これはバグを調べようとすると動きが変わったり、あるいは直ったりするというバグだ。多くは状態が変わっていたり、変化を見落としているためにそうなるのだが、実際のところ全く再現しなかったり、理由がわからないバグだってある。完璧に見える世界でもどこかに間違いがあるのかもしれない。そしてそれを見つける人がいなければ、見つけられない間は、それは間違いでもバグでもないのだ。
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$ cat ~nishizaki/diary/001.txt
私は、サイバー取締局フォレンジック課の西崎だ。
表舞台に出ないからあんまり知らないという人も多いだろう。
デジタル省の下に位置する部局だ。
とくにハッキングをうけた端末の分析を行う部署と考えていい。
1日12時間ターミナルと向き合うことが苦痛じゃない人間しかいない部署の中では、私はしゃべれる方だ。ただずっとしゃべってないと気持ちが落ち着かないってんで、私は自分でこうやって独白をつづけている。はて、おかしいんだよな。logrotateされたわけでもないのにその日のログが消えてるんだぜ?別にiノードが壊れたってわけでもなさそうだが。imodeじゃないぞ。ファイルの索引みたいなのが保存される場所と言っていい。まあ、とにかく訳のわからないことが起きてログファイルが壊れたのかもしれない。
とりあえず、つくば市のハッキング事件に関してはどうしようもない。これは確かに不思議で、ビットフリップでも—それも、結構な範囲で—おきなきゃ起きえない。いや、カーネルに棲み着いたタチの悪いルートキットかもしれないな。とりあえず、サーバーには何の証拠もないってことだ。これをいまから文書にして警視庁サイバー犯罪対策課に送らなきゃいけない。幸い文章を書くのは得意だ。頭の中の「独白」をそのまま書けばいいからな。
べつに正義でやってるんじゃない、ハクティビズムだのなんだのはどうでもいい、とにかく得体の知れないやつの残した残滓を追いかけるのが楽しいだけだ。
そう、PCはスリープにはしないよ?どうせ税金だしな。ロックはするがそのまま帰る。
こうして外から見る庁舎も立派だろ?この赤坂見附から新宿で小田急に乗り換えて東北沢につけば家だ。
ここだ。
おまえは私の脳に棲むのは初めてか?まあいい。リスパダールでプロセスをkillできるからな。さようなら、マルウェア1275番。
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