日常
「ご面会されたとは思いますが…現状意識がなく、無反応覚醒状態です。いわゆる植物状態と言われ、目を開けることはできますが、周囲の環境に反応することはほとんどなく、自発的な動きも限られています。」
まだ若いお医者さんは確かそう言いました。
お父さん、お母さん、そして私は一言も言葉を発することはできませんでした。
「刺激に対する基本的な反応はあるものの、それが意識的な反応であるかは明確ではありません。たとえば、声に対して目を動かす、不意の音に反応してびくっとするなどはあるかもしれません。」
お医者さんも重い空気が辛いのでしょう。静まった部屋に声が響きます。
「経管栄養でお食事を摂る形になります。我々としては今後の回復を考えて、リハビリなどを続けていく方針となります。ご面会でお話や手を繋ぐなどは回復の助けになるので、皆さんも我々と一緒に頑張っていきましょう。」
お母さんがすすり泣いているのが聞こえてきました。
その時に私の頬にも涙が流れていることを自覚しました。
後のお話は覚えていません。気がついたら家のベッドで朝着た制服のまま横になっていました。
お父さんとお母さんの声が聞こえます。
「脳死とは違って、回復の可能性はあるわけだし…」
大学の先生をしているお父さんはいつだって冷静です。でも今日は、語勢はだんだんと小さくなり、最後には自分に言い聞かせているようにも聞こえました。
お兄ちゃんとは最後に何を話したか覚えていません。多分、一つ屋根の下で暮らしていればするような大したことのない会話でしょう。
その日は結局ずっとベッドに横たわっていましたが、眠りについたと思ったらすぐに目が覚めて、家族から一人、もしかしたらいなくなるかもしれないという重さに押しつぶされそうになります。いつの間にか疲れて眠ってしまいますが、時々目が覚めては暗い気持ちになり、それを繰り返す間にカーテンの隙間からうっすらと朝日が見え始めました。
いつものように登校の準備をします。
朝ごはんは食べる気がありません。
食卓に出ると、お父さんとお母さんは焼かずに素の食パンを食べていました。
「もう行くのか」
「うん」
家の重い空気から逃れたかっただけでした。夜中に雨が降ったのか、湿っている道路を歩きながら、学校の近くの公園を歩きます。
学校に行く気はありませんでした。お兄ちゃんの病院の受付が開くまで時間をつぶした後、病院まで歩きました。
お兄ちゃんは最初に見たときと同じように、酸素マスクや点滴、心電図の機械などに繋がっていました。
とても深い眠りのように安らかな顔をしていました。しかし起きることはないのでしょう。
諦めのような感情が私の中に存在することに気づき、私は自分を嫌悪しました。
***
「BCIという技術があります」
ある日の説明で、お医者さんは私たちに本を見せながら、新しい治療方針を考えていると言いました。
「これは私の研究分野でもあるのですが」
と前置きして、脳波をコンピュータで分析してお兄ちゃんの意志が確認ができるかもしれないこと、ただし最初の脳波の学習期間では、しばらくはつけるだけでコミュニケーションは取れないことを説明してくれました。
その日からお兄ちゃんは頭にたくさんの電極をつけることになりました。
多数の電極から出た配線は箱のようなものに繋がり、さらにそれがパソコンに繋がっているというような機械です。
最初は私が手を握ったり、声をかけたりしても特に何も起きませんでしたが、最近では脳波に動きがあるように見えます。しかしお医者さんはまだキャリブレーションが終わっていないといい、意志を読み取るにはもっと時間がかかるようでした。
お兄ちゃんの様子は安定していましたが、左足の色がおかしいのが気になりました。
看護師さんも足の様子を頻繁に確認しているようです。
***
ある日食卓に行くと、お母さんが無表情で、
「片足の膝から下はなくなるらしい」
と言いました。
何のことか戸惑いましたが、お兄ちゃんのことだとわかりました。
深夜に左足の切断が必要と連絡があったようです。
そして切断された足は火葬場で火葬するらしいのです。
私は気分が悪くなって、しゃがみ込んでしまいました。
「今日手術があって、火葬場に行かないといけないけど行く?」
お母さんは努めて取り乱さないようにしているようですが、声の震えが伝わってきます。
「ミカは行かない。学校に行くね。」
私は日常を手放すことが怖かったのです。
しかし、学校にいても何一つ集中できませんでした。私は放課後のチャイムが鳴ると、すぐにお兄ちゃんの病院に向かいました。
病室に入ると、お兄ちゃんはいませんでした。通りかかった看護師さんが「お兄さんはICUにいます」と話してくれました。
手指の消毒をして集中治療室に入ると、お兄ちゃんは人工呼吸器をつけられてベッドに横になっています。左膝には包帯が巻かれていて、足はなくなっていました。
あまりにも不憫で、色々な処理しきれない感情が込み上げてきて涙があふれてきます。
話しかけようと言葉を探しますが、何一つかけていい言葉は見つかりません。お兄ちゃんの手に触れると、暖かいことだけが救いでした。
***
脳波は話し声に応じて波打つように見えますが、まだコミュニケーションができる兆候は見られないようです。お医者さんによると、もしかしたらお兄ちゃんの脳はまだ回復の途中なのかもしれないとのことでした。ただ、よく見られないような脳波が見られているのは不思議であるとも言っていました。
その後、お兄ちゃんは植物状態でも爪が伸びたりするので、看護師さんに爪を切ってもらっていました。髪も伸びるので、時々切ってあげるそうです。
鼻からチューブを入れて食事をするのですが、やっぱり味はしないんだろうななんていうことを考えたりしていました。もしお兄ちゃんに意識はあって、食事の感想を言うのなら何て言うのかを考えてしまいました。
よく病院に行くので、受付の人や病棟の看護師さんに名前も覚えられてしまいました。病院に行くと、必ず「ミカちゃん」と声をかけてくれます。
この生活はもうそろそろ一ヶ月になります。