お前をハックする
缶コーヒーを飲んでいる、冴えない男に見つめられていた。
偶然目があったというわけではない。
人間は知らない人間に数秒間見つめられただけで気分を害する。その視線がずっと向けられている。
俺の底をのぞき見るような目が意図的に向けられている。
今なら知っている。俺の視界は生前世界のカメラを通した視点から構成されるので、カメラを見つめられれば、俺自身が見られていると錯覚する。彼は俺を見ることができているわけではないはずだ。
しかし、今までカメラ、いや、「俺」を長時間にわたって凝視する人間はいなかった。まるで病気だ。
目が合い続ける。とてもではないが普通ではない。
気分が悪くなる。
男は表情を変えない。
特徴のない黒で揃えられた上下。
普段、人間は身長と同じ高さを基準に世界を見ている。
こうして仰ぎ見ることはあまりない。
男の周辺に目を逸す。人通りはほぼない。
俺は“目を閉じる”イメージをする。
男の姿は焼きついている。
目を閉じてもなお、見つめられている気がして、居心地が悪い。
この場所から離れ、自宅を目指す。
一番まともな場所だ。
俺は自宅付近に“移動”し、視界が変わる。
自宅には家具が運び込まれていた。
世界は俺を忘れようと努力する。
楽しい思い出を作り出す。
モノを買ったり、旅をしたりしてより良い日常を目指し、新たな思い出を作り出していく。
作り出してきた思い出が積もり、過去は薄れていく。
その思い出を底まで掘り返した先に俺がいるのだろう。その時には懐かしい気持ちが芽生えるだろう。俺の思い出話をして、いずれは笑うことができるようになる。
しかしその場所に俺はいない。
孤独感は積み重なっていく。見せつけられる幸せに押しつぶされるだろう。この世界を見せられ続ける意味はどこにあるのか。
解決できない思考は断ち切れずに無限に渦巻く。思考は次の思考を呼び出し、再帰は積み重なる。スタックオーバーフロー。
やがて狂うだろう。
誰もいないこの世界で。
静かに精神は壊れ、それは誰にも気づかれない。
大声をあげ、叫び、拳を振り回しても誰も聞かないし、モノは壊れない。溢れる感情は行き先を失い、参照されないデータがガベージコレクションされずにメモリを圧迫する。
叫ぶ。できるだけ大声で叫び、本能のままに動き回る。
何もわからなくなる。
「見ることは信じることか?」
誰かが俺を探している。視界にノイズが入る。
視界は目まぐるしく変わり、叫びに呼応して歪む。モノを叩き壊すイメージをして、世界を破壊する。ノイズで埋め尽くされる。ブロックノイズ、モスキートノイズ、ホワイトノイズ。全てのエントロピーが最大限まで高められていく。心臓が止まる。身体が熱い。中から熱せられる。熱い。熱すぎる。ちぎれるように頭が痛む。脳を両側からプレス機で押しつぶされ、目から脳にイガグリのようなものを送り込まれる。身体中を紙やすりで擦り、唐辛子を溶かし込んだ油を頭上から浴びせられる。全てが狂気。意識が保たれていることが不思議でならない。暴れ回っているがすでに俺はそれを意図していなかった。全ての生命システムが異常を検知し、最後まで俺を“生かせよう”と努力する。呼吸の回数は増えて酸素を供給し、心拍数は最大になってそれをサポートする。アドレナリンが臓器の働きをブーストし、筋力を最大まで上げる。
落ち着いてくる。
落ち着いていることがわかる。
落ち着きに向かっている。
落ち着く。
心臓がおとなしくなっていく。
そして世界が暗くなり、停止する。
OK、落ち着いた。
お前をハックする。
```
$ cat ~nishizaki/diary/004.txt
カメラを調べる
繋がっているはずだ
```
私は論理的な人間ではあるが、あるが故に第六感を否定しない。
全ての現象を科学で説明することはできない。
科学はありえないことを少なくとも否定できる学問に過ぎない。
私の精神を直せない医学を見てもわかるだろう。作用機序が必ずしも明白でない薬を患者に与えたら治っていました、めでたしといったくらいだ。
カメラが怪しい。そう告げるのは第六感だ。
特に、不正アクセスの対象のエリアがカメラ周辺に固まっており、カメラはその踏み台になっていると感じる。
一連の事件の犯人はカメラを操って覗き見をするだけではなく、踏み台にしてあらゆるネットワークに侵入することができている。
不正アクセスの発生率が高いエリアに足を運ぶ。エリアというよりは目の前のこの家を中心として数百メートル圏内に収まっている。本来ハッキングに物理的な位置は関係がないはずであり、位置的な局所性があるという事実は非常に興味深い。
こじんまりとして清掃も行き届いた家だ。比較的築浅だろう。
学生服の女の子が出てきて、歩き出す。
この家が狙われているというのは薄気味悪い。なぜなら、以前の未成年者略取事件の被害者の女の子が住んでいる家だからだ。あるいは、それが理由なのか。
私はあまり視線を向けないようにしながら、家と周辺のカメラの物理的な位置を覚える。
もちろん先ほどとは服を変えている。傾いた太陽が逆光となりカメラの感度を下げてくれる。顔までは見えないだろう。
家は狙われる要素はないはずだった。以前の犯人も逮捕されている。
女の子についていく。十分な距離を取る。女の子ではなく、“覗き魔”に悟られないためだ。私のスマホは位置情報を逐一ログしているから、後々、覗き魔による不正アクセスが起きた地点と照合しマッチすれば、ストーカー的な犯罪の可能性を見出せる。
あとを追っていくと、先ほどの病院にたどり着く。
やはりな。
何らかの関係性があると見て間違いはないだろう。
先ほど観察して推測した、カメラの視野外で女の子の後を追う。病院に入っていく。
ここからはあまり動けない。法執行機関ではあるものの、ここからは令状などがないと動きづらい。
カメラは女の子を追うように回転し、病院の入り口を覗く形で停止した。
覗き魔は女の子の生活パターンや馴染みのある場所をほぼ知っていると見て間違いないだろう。そして、ホテルの一件と関連があるのも偶然ではないと感じる。
私はカメラの範囲外でラップトップを開く。
PRISMにアクセスし、最新のログをダウンロードする。そして、今ちょうど不正アクセスされていたであろうカメラに対してCameradarというツールでRTSPの接続先をスキャンし、VLCで接続する。病院の玄関を映した映像がフィードされてくる。辞書攻撃で管理画面のIDとパスワードを特定し、Docker経由で起動したTor Browserで管理画面を開く。そして、オーバーレイテキストを適当に設定し、映像の中央に最大のフォントサイズで配置する。
「Seeing is not always believing, do you agree?」
見ることは信じることか?私はそうは思わない。中学生の頃にマトリックスを見て一日中眠ることができなかったことを覚えている。感覚が電気信号であることはすでに医学では明らかなことだし、思考も結局はニューロン同士の電気信号の連なりでしかない。つまりもし任意の電気信号を脳内に流すことができれば、見ていることも考えることも全て現実ではない虚像とすることもできるだろう。
カメラの映像が動く。カメラのステッピングモーターの音が回線を通じて私のラップトップから微弱な音で再生される。私を探している。驚いたか?無理もないだろう。
しかし突然映像が止まった。
目を細める。
同時にVLCが落ち、隣で開いているhtopに表示されたCPUの使用率とストレージの転送量の値が急増する。私のマシンで見慣れないプロセスが起動している。
まずい。
急いでラップトップの電源を長押しし、電源を切る。
RCEか?いずれにせよこのPCを今後使うのはまずい。私はラップトップを裏返し、バッテリーを抜いた状態でカバンにしまう。
その場を足早に立ち去る。
歩きながら考える。全ての出来事を整理する。全てのパッチは最新で、またVLCは仮想マシンの上で動いていたはずだ。そしてhtopはホストマシン側で立ち上げていた。すなわち、VLCをRCEされただけではなく、VMエスケープが行われ、ホストマシンのCPUのリングプロテクションを超えた…すなわちリング0の権限も奪われたことになるということか?そうなると2重のゼロデイ攻撃を成し遂げたということになる。
それも、この短時間でだ。普通はターゲットを決めて、侵入ルートを考え、脆弱性を洗い出してからハッキングをするものだ。私がここにアクセスし、その上VLCで映像を見ること、そしてそれが仮想マシンの上で動いていることを前もって知るはずもない。しかもVLCへのRCEが成功した瞬間、時間差なくホストマシンへ侵入できたということは高度に自動化されていることを意味する。
おおよそ個人のハッカーで行える攻撃ではない。おそらくは国家レベル、それもイスラエルのユニット8200のような軍事組織か?
しかしそのような組織が日本の女の子を狙う理由とは何があるのか?何一つ意味が通じない。少なくとも覗き魔やストーカーのレベルではない。
薄気味の悪さを感じ、あの頃のようにパーカーのフードを深く被る。同時に自分の奥から力強い意志が湧き上がってくる。
お前をハックする。