第77話 Moon lullaby 2
「……よし」
その夜午前2時頃、ユリは部屋の扉を開き右側の廊下を見て人影が無い事を確認し、部屋を出て階段へと走っていった。
目的は脱出ルートの模索……監視の目を掻い潜り、この王宮から出る方法は無いかと模索しているのだ。
「はぁ……はぁ……」
「どちらへ?」
「うっ……」
ユリが階段を下ろうとすると、背後にシュベレットが現れた。
当然シュベレットはユリの護衛兼監視のために配属されているので、脱出するとなれば最も障害になるし、叶うならば味方につけたい人材だ。
ユリについている護衛兼監視はシュベレット1人のため夜も常に眠りは浅くし、如何なる事態に陥っても対処出来るように準備はしている。
「……ちょっと……お手洗い」
「部屋に付いてますよね」
「詰まってて……」
「ならば共用の便所がこの階にもありますが」
「そっちも……詰まってて……」
しかしユリの様子を見る限り、シュベレットが来るという状況を想定内に入れていないようにも思える。
泳ぐ目、動揺を隠し切れていない声、暗くて見えにくいが恐らく冷や汗もかいているだろう……額を腕で拭う動作が見えた。
理解不能な行動を起こすユリの姿に、シュベレットは思わずため息をつく。
「……ユリ様、今おいくつですか?」
「じょ、女性に年齢を聞くのは……どどうかと……お、思いますけどど?」
「それは自分が大人だと理解出来ているということですよね」
「……20歳ですー……」
目線が合わない、しかし強引に連れ戻しても意味は無い……動機を知り、その上で説得しなければ何度でも続けるだろうから。
ちなみにユリの年齢も出生日は王宮の方で管理されていたため、シュベレットがそれを直接教えた。
「ならいい加減お止めください、こんな子供のいたずらみたいな」
「じゃあ!!……私はずっとこうなの?……嫌だよ……嫌なの!!!」
するとユリは俯き階段を上り、シュベレットの胸ぐらを両手で掴んだ。
雲が流れ夜の静けさを醸し出す光を放つ月が、欠ける事無きその姿を現し、ユリが両目に浮かべる涙をも明るく照らし出す。
「私はこのまま死にたくないの!!!人並みに幸せになりたいって思ったっていいじゃん!!!私だって……私だって……」
ユリは顔を見せないように俯きながら、シュベレットに胸の内に秘めた思いを告白する。
「……ユリ様……」
そしてシュベレットは、その姿を見て気付く。
ユリは脱出ルートの模索のためだけに、こんな真似をしたわけでは無いと。
もちろん思いを赤裸々にさらけ出すならば、わざわざ騒ぎ立てなくても部屋で2人で話せばそれでいい。
だがそういうことではないし、それだけでは不足してるものだらけだ。
このようなバカげた行為をすればシュベレットはユリを追ってくる……そう、追ってくるのだ……理由は何であれ、追いかけてきてくれるのだ。
しかし果たしてそうなのか、それを試す必要があった……ずっとほとんどの時間を共に過ごしてきたとはいえ、素性を全く知らない男を無条件で信じられるほどユリの心は純粋に満ちてはいない。
話すためにあえてこんなことを決行した、そしてシュベレットは想定通りに追ってきた。
ここで冷酷な監視係ならば、有無を言わせずに部屋に引きずり戻すに決まっている……しかしそれをしない事もユリには想定通りだった。
積極的に親しくなろうと優しく接してくれたシュベレットに限ってそれはない……かもしれないなので、それも確かめる必要があった。
そうまでしないと信頼は出来ないし、自分すらも信じられない。
要するにこれはただただユリのわがままだ…人の心は完全に理解出来ないことを知り、その恐怖が拭えないユリがシュベレットを己自身を試すためのわがままだ。
シュベレットがユリを心配し人の心を持ってして向き合い、それにユリが甘えなければ成立しない、無謀なわがままだ。
それだけユリの人生の大半を占めた孤独とは、安寧に怯え不安を抱かせる。
「……シュベレット……あなた……長官なのに……私の世話係みたいだね……」
「……平和ですから……軍部なんて、税金泥棒と言われてる方が良いんです……まあ、税金泥棒はそれはそれでダメですけど……」
これはユリの純粋な疑問。
この人間界という世界における武力の最高戦力たるシュベレットが、何故自分なんかの護衛などを務めているのか。
戦争紛争からテロや小競り合いすらも起こらない平和な世の中では兵士としての仕事はほとんど無く、その分だけユリと過ごす時間が増えるのは必然。
始めはなるべくストレス無く職務を務めるために、ユリと親しくなるためにコミュニケーションを取り出した。
しかしそれだけではない……初めて見たときのユリの寂しげな顔をかわいそうだと思ったから……という気持ちもある……いや、そちらの方が大きいだろう。
「シュベレットは……幸せなの?……」
「……個人的には……そうではありません……」
「……どうして?……子供もいるのに……」
仮にこの王宮から脱出し自由になった所でそこから何も求めなければ退屈なだけだ。
もし求めるならば、やはり幸せだという結論に至る。
しかし幸せがどういうものなのか、イマイチ想像出来ないユリは最も身近なシュベレットにそれを聞こうとした。
しかしそれ以前の質問でのシュベレットの答えが、ユリが欲しい答えに至らせるだろう質問への道を閉ざす。
「……妻とは政略結婚のようなものでした……便宜を図ってもらい、特等の地位を約束させる……その代わりに、今の妻と結婚しろと……」
声のトーンが低くなり、暗い表情で話すシュベレットを見たユリは唖然とする。
「……コーゴーの最重要決定機構、つまりコーゴーの最も偉い方々は特等聖戦士を忌み嫌っているので、私を入れて情報を横流しするように言われました……」
今まで見せることのなかった、シュベレットの弱さを曝け出している。
いつの間にかユリは胸ぐらから手を離し、一歩段差を降りてシュベレットの目と潤んだ自分の目を合わせる。
「……子供は、妻と別れさせないためのつなぎのようなもの……全世界の人々を害悪から救いたいという……」
今まで知ることのなかったシュベレットの心の内とユリは邂逅する。
「純粋な夢のために入ってみれば、ドロドロな大人の都合……それに飲まれ、他人に操られてきた……ろくでもない人生です……」
「……知らない……聞いたことない……何で……」
思考がまとまらない……思った言葉を、そのまま口にしただけだ。
「そりゃあ……言った事ありませんし……聞かれませんでしたし……」
話の内容の半分も理解出来なかったが、結婚が幸せじゃないというシュベレットの口ぶりにはひどく驚いた。
そしてシュベレットの過去を知ったユリの、浮かんでいただけの涙がひとつまたひとつとこぼれ落ちる。
かわいそうだとか、そんな感情よりも先に現したのは……同情。
話を聞きシュベレットの過去を想像し、同情して涙を流している。
完全に知ることはない、その感覚は想像も出来ない、そんなユリですら同情し涙する。
それから思った言葉を口にしただけの言葉に真摯に答えるシュベレットの言葉を右耳元でユリは聞く。
「……じゃあ……今私を抱きしめてるのは何で?……」
ユリが胸の内に秘めた心の雫を受けとめるために……それから……まだある……。
「……体に染みついた忠実な部下のような体質は中々拭えません……」
きっとこの感情は、咎められて、蔑まれるものだ……。
「特等の10位は必ずクルエルの監視のためにルブラーンに異動になります……ユリ様とは……疲れ切った私に、天から授けられた光なのだと思いました……」
しかしこの抑えきれないものは同時に誰もが理解出来、誰もが溺れるものだ。
「私は無神論者ですが、運や奇跡は信じます、それとこれは別ですから」
孤独を生きてきたユリにとって、シュベレットは父というよりも親友……いや、それ以上の存在となっている。
だがそれは、シュベレットも同じくだ。
「……いいの?……」
涙は止まらない、様々な感情がユリの心でこんがらがるために、高まった感情が収まらない。
───この瞬間ユリは初めて、愛を知る。
他者から受ける愛の温かさ、喜びが、ユリの凍り付いた心を、少しずつ溶かしていく……。
「……先日、コーゴーから本部に来るように令状が届きました……私に便宜を図った方が捕まり、妻と子供も拘束されました……私はコーゴーから追放されます」
「……じゃあ……もうルブラーンには……」
「そうですね……人間界での……長官職も降りなくてはいけません」
しかしこれは、シュベレットの差し金だ。
シュベレットがある男を頼り、便宜を図った者を、自分から自由を奪った者を償わせるために憧れの地位と名誉を捨ててまで決断した。
「……お別れなの?……」
「……ですが、私は約束します……いつか近いうちに幽閉されているユリ様を救い出し、ルブラーンを脱出します」
「……え……」
「ハロドック・グラエルという男を、ご存じですか?」
そのシュベレットの依頼を実行したのが、紛れもないそのハロドック・グラエルという男だ。
ユリの身柄を引き渡す条件として、シュベレットでは踏み込めない壁と現状の打破を依頼したのだ。
「……確か……全世界で何千年も指名手配されてるのに……捕まってないっていう……」
「はい……その方はユリ様を救い出すために今、人間界にいます……私は彼と協力し、あなたを助け出します」
それがシュベレットの望みだった。
如何なる理由があろうとも、人を監禁するなど、あってはならない……彼女もそれを望んでいない。
職務を放棄し、地位と名誉を放棄し、築き上げてきた全てを放棄し、ユリの願いを叶えるため、それだけのためにシュベレットは動いていた。
「……シュベレットは……何でそんなに……私の事……」
ユリは様々な感情が体に巡り、止まりかけていた涙を再び流し始めた。
「……あなたが好きだからです、そのほかの理由なんてありません」
「……私は全然……好きじゃないんだけどね」
ユリは泣きながら笑顔で、シュベレットに上目遣いでそう言った。
「……私のエゴですから……それに……あなたが幸せになるための道を、隣で歩く者は……私であってはならないですから」
「……ありがとう……うっ……うぅ……ありがとぉ……」
「……ユリ様……」
込めていた思いを言葉にするには、ユリにとっては難しすぎる。
だがシュベレットは、言葉にせずとも受けとめていた。
ありったけの思いが、言葉に出来ない思いが、シュベレットの服を濡らす。
ユリの王宮脱出計画は頓挫した、だがそれ以上に大切なものを得た。
無言で背中をさする、今の彼女には言葉なんて蛇足だ、今はこれでいい……近い未来に訪れる運命の悪戯に巻き込まれる……ならば、今だけは誰もが許してくれるはずだ。
夜の王宮中に響き渡るユリの慟哭には誰も気付くことはなかった……そしてシュベレットは泣き疲れ、眠るまで一歩も動くこと無く、ユリを抱きしめ続けた。
全てを捨てても護る意味のある彼女を、受けとめるために───




