第215話 仰天は息つく間もなく
「まだ怒ってんのか?」
「怒ってません!」
ダンジョンの出口である根の樹を調べるために、ベイルとバニルのコンビは常に3メートル近くの距離を保ちながら樹の方へと根の上を歩いて向かっていた。
「やっぱ怒ってんじゃねぇか」
「だから怒ってません!」
頬を膨らませてベイルと意地でも目を合わせないバニルは、恥ずかしさでずっと火照り赤らめた顔を見せたくなくて前を歩く。
差し込む木漏れ日は緑溢れる地に温もりを与え、人の手が加えられていない神秘的な光景が広がる。
小鳥達の囀りや羽ばたく翼の音、泳ぐ魚達が見えるほどに澄んだ川のせせらぎ、鹿のような姿の草食動物の親子が並んで歩き草を踏む音。
どれもこれもが心地良いのに、バニルの心臓はずっと飛び出しそうなほどに速く強く弾む。
ベイルが愛していた者と瓜二つの容姿、名前、それに彼女の記憶がはっきりと残っている……それもベイルとの思い出ばかり。
悲しみに飲み込まれそうになった時も、辛くて苦しくて逃げ出したくなった時も、飢えや渇きで全てを投げ出したくなった時も、支えてくれた思い出。
本当に出会った事は無いのに、何百年も恋をしていた。
「……本当に……何でかな……」
ベイルはずっと迷っていた。
いつ見ても何をどう見ても、この世で1番愛していた人に見えてしまう。
さらにはその記憶まであり、自分を慕ってくれている事も知っている。
もしバニルの想いに今応えられるか、と聞かれたら、分からない、と答えるに違いない。
──だけど、あの時はどうだっただろうか?
アセンシル高原にて、捕らわれた一行を救うべくジェノサイドの拠点に入った際に遭遇したあの瞬間。
賢者ベントスのデロヴァエルに犯されそうになったバニルを見たあの瞬間。
ベイルは700年前に死んだバニルの面影など、欠片も想像しなかった。
その後は面影を重ねたかもしれないが、それでもあの瞬間だけは、目の前のバニルの事しか考えなかった。
たとえ同じ名前や血縁、瓜二つの容姿、共有された記憶……そんなものはどうでもよかった。
きっかけはそこにあったかもしれないが、確実に目の前でむくれているバニルに惹かれつつある自分に気が付いている。
触れ合うスキンシップに恥じらいは無いし、実際にヒマナの冗談半分の言葉で胸を掴む事に抵抗は無かった。
それでも、視線は常に向けてしまう。
死んだバニルは、似ているだけで全くの別人の彼女に惹かれつつある自分を、許してくれるのだろうか。
何を聞いても、死人は答えてくれない。
だからいずれ自らの決断を下さなければならない、想いを打ち明けて彼女に正直にならなければならない。
「……まだ……言えねぇか……」
双方の想いは未だ重ならないまま、巨樹の根の道を並ぶこと無く歩いて行く。
「ん?」
クレイセンダルの天樹イミルに負けず劣らずの迫力と神々しさを醸し出す巨樹の全貌が見え、見上げて少し立ち止まったベイルとバニル。
そして根の上に立つ2人は根の下を覗くと、賑わいを見せる人々も街が手の届く距離にあることにようやく気が付いた。
やや微妙な距離感だった2人は少しずつ会話を交わし出し、巨樹に辿り着く頃には並んで歩いていた。
「どうしたんですか?」
陽の光を浴びる姿はこの世のモノであることを疑わせ、永遠に目に焼き付けていたいと思えるほどに輝いて見えた。
そよぐ風も心地良く、美味しい空気を存分に吸い込めば思わず微笑んでしまう。
「いや……あれ誰だ?」
美の象徴たる巨樹の根元、ちょうど人1人が腰掛けるには持って来いの凹みに、白い長袖の服と黒の長ズボン姿の若い女がベイルの視界に入る。
艶やかな黒髪に澄んだ黒眼、丘のてっぺんである巨樹から街を見下ろし、活気ある人々の姿を見て幸せそうに笑っていた。
「どの方ですか?」
黒の靴や黒のタイツを履くなど、顔と手以外の露出をしない者。
バニルはベイルと同じ方向を見つめるが、どれだけ眉を寄せても人影など見えなかった。
「は? いやそこにいるだろ」
当然ながら常軌を逸するの視力を持つバニルだが、やはり何も見えない。
しかしベイルが指差す場所は、常軌を逸していなくとも十分見える距離にある。
ベイルとバニルのやり取りに気が付いた女は、この街の者では無いことが分かったのか、少し首をかしげる。
「あ、目合った」
「ホントですか?」
そんな何て事無いベイルの発言に、女は天地がひっくり返ったように衝撃を受けたようひ目を見開き、開いた口が閉じない。
そしてハッと我に返ると、ゆっくりと立ち上がり少し早足で2人の元に歩み寄ってきた。
「こっちに来たぞ」
「いやだから、何がですか?」
悪ふざけかからかっているのか、はたまた本当におかしくなったのか、などベイルの不審な言動を疑うバニル。
そんなことはつゆ知らず、ベイルは目の前で立ち止まった女と目を合わせる。
「お前、ここに住んでんのか?」
「…………やっぱり……」
「は?」
さらに1歩ベイルの前に歩み寄るとさっきまでとは打って変わり、喜びに満ち満ちた満面の笑みを浮かべて大声を出す。
「──私の事が、見えるんですね!!!」
「……何言ってんだお前」
喜びのあまり体をウズウズさせて今にも踊り出しそうな女は、まだベイルが指差した方を見ているバニルの顔を伺った。
「彼女には見えてないんですね」
「……らしいな、何でだ?」
包み隠さずに、衝撃の発言をベイルにかました。
「そりゃもちろん──
──私、死んでますから!!」
※ ※ ※ ※ ※
「そうやな、うん」
「やっぱり!! 俺です! ランディですよ! 覚えてませんか!?」
初めて自身を見て名前を呼ばれた事に驚くキリウスだが、顔色は特に変えずに返答した。
すると自己紹介をしてきた男──ランディは嬉しそうに質問を続けるが、キリウスはやや困惑しながらこう答える。
「知らんわ」
何故自身を知っているのか分からず、やや目を細めて疑るキリウスの返答が予想外だったのか、ランディは一瞬硬直する。
落胆したランディは焦燥に似た表情を浮かべて、キリウスの両肩を掴んで訴えかける。
「何でだよ! 20年経てば忘れちまうような仲じゃなかったじゃないか!! 何でそんな事言えるんだよ!!!」
「落ち着きなさい」
動揺のせいかキリウスを大きく揺さぶるランディの肩を、キリウスの隣で蚊帳の外に置かれていたビオラは背後から軽く叩く。
「っ……すまない、取り乱した……」
「アナタが誰かは知らないけど、彼には20年前以前の記憶が無いから、多分知らないのはそのせいよ」
「……記憶が……無い……」
海パン一丁のキリウスは何がどうなっているのか分からず、頭を乱暴に掻いてランディに問うた。
「ここは何なんや? 何でお前はワイを知っとるんや?」
「……ホントに記憶が無いのかよ……喋り方はそのまんまなのに……」
「いや質問に答えてくれ」
「……ここは〝クカルエルナ〟……あんたは俺達が元いた場所で一緒に暮らしてたんだよ」
「その元いた場所ってどこや?」
キリウスはピンと来なかったが、ランディの言葉にビオラは衝撃を受けた。
そんなことが本当にあり得るのかと、思考が追い着かなくなるほどに。
「──〝癒波動の地〟だ」
※ ※ ※ ※ ※
「バニルちょっとそこで待ってろ」
「え?」
ベイルは死んだと嬉しそうに語る謎の女の手首を握り、バニルに会話が聞こえないくらい遠く離れる。
「……普通に触れんのか……」
「すごい……誰にも触れなかったのに……」
「見えて聞こえて触れるって、俺からしたら普通じゃねぇか……で、死んだってどういう事だ」
ベイルの言動に疑心暗鬼になりつつあるバニルに背を向けた2人は、並んで顔を近付けて話し始めた。
「……それは間違いありません……私の遺体がこの丘に埋められています、墓碑もすぐ近くに」
「ここで死んだのか?」
「いえ、死んだ場所は違いますが、ここに暮らす皆と一緒に元いた場所で死んだんです……それで気が付くとここに、もう20年くらい」
「……その幽霊になった理由は何だ? この樹は関係あるのか?」
「分かりません……それにあなたが初めてなんです、幽霊の私が見えたのは」
「なるほど……一旦こっから離れるから、ここにいろよ」
「あ、はい! 待ってます!」
久しぶりに人と会話したことが嬉しくて、つい大きな声で返事をしてしまう。
「あの、お名前……伺ってもいいですか?」
「いいけどまずお前からな」
「そうですね! 私は魔人族……いや、元魔人族かな? とにかく魔人族で、名前を──
──エルナ・ロマノフと言います!!」
無言で口を閉じたまま、ベイルはまばたきの数を増やす。
そして数秒の時間を要して思考が追い着くと、言語化出来ない腹の底からの本音がぶちまけられた。
「はあッッッ!!!???」
その名はベイルと最も近しい存在、無くてはならない存在──ラルフェウ・ロマノフと同じ名だった。




