聴覚
足音が聞こえる。高いヒールがアスファルトを叩く音。革靴が水溜まりを避け切れず、水を弾く音。数秒後に、当人であろう、微かに舌打ちをする音。その様を見て、数メートル後ろを歩いていた人がせせら笑う音。
何故、自然と耳に沢山の音が飛び込んでくるのだろうか。アパートの室内で寝転びながら、隆康は一人で考え込む。
今までは、普通の学校生活を送っていた。内気で気弱な性格の為、いじめにもあった。だが、そんな状況から抜け出す事に成功した。
きっかけは、誰かの手助けがあった訳でもなく、己の考え方や性格を変えただけの事だ。
まずは、大きな声で周りに挨拶をする。常に笑顔は絶やさない。話しかけられたら、熱心に相手の話に耳を傾け、適度に相槌を打つ。
聞き上手が話上手になるは、的を射る。その効果があったのか、隆康へのいじめは無くなり、いじめていたグループは、他の奴へと目を付けていった。
その光景を見ながら、負の連鎖になるのではと逡巡もした。だが、もう俺は標的では無くなった。もう関係無い。俺以外が、どうなろうと見えない振り。聞こえない振り。
いじめの対象が、すぐに俺以外の、更には今まで心配してくれていた友人に移った時でさえも、そんな振りをし続けた。
こんな自分は愚かなのかと自問自答するが、いじめの恐怖感がその先へと至る思考を遮断した。
遮断せざるを得なかった。
クラス内では、かなり目立つ存在となった。明るくて元気な人。話しやすい人。きっと、周りからの印象はそのように様変わりした事だろう。
小学校であれば、一気にクラスの人気者。俺は、最下層から這い上がった。言わば、人知れず努力して、一番上位の層に食らいつく事が出来た立派な成功者だ。
だから、後悔はしていない。
八畳の狭い和室の部屋から起き上がり、開いた窓から網戸越しに外の風景を見下ろす。
今日は生憎の雨。大粒ではないが、肌にまとわりつく様な小雨が薄暗い空から降ってきている。窓が開いたままだったせいか、小雨がふりこみ、窓の付近の畳が湿り気を含んでいた。
どの位濡れているのだろうかと、屈みこみ右手の人差し指で湿った畳を押さえてみる。ぐじゅぐじゅとした感触がかえってきた。
予想以上の感触に、思わず指を離し、手の平を自分の顔の方に向けた。手がかなり汗ばんでいた。
もう十月を過ぎるこの時期。何故こんなに手が汗ばんでいるのか分からない。右手だけではなく、両手とも汗ばんでおり、両方の手の平をじっと見つめると、全身を悪寒が駆け巡る。
風邪のひきかけかと、自身の体の不自然さに首を傾げつつ、ひとまず汗を洗い流そうとシャワールームへと向かう。
汗で湿った服を脱ぎ、下着も脱いで洗濯機に放り投げた。シャワールームのドアを開けた瞬間、見慣れた顔が目に飛び込んだ。
同じクラスで始めの頃、一緒によく遊び、俺がいじめにあっていた時は、とても心配してくれていた友人だ。名前は尚樹。
今は、口元からだらしなく涎を垂らし、手足はまるで人形のように、ぴくりとも動かない。眼は焦点が合っておらず、息の根が止まっている事は明白であった。
かつての友人だった物を見る視線がある。俺自身だ。絶命し、頬には涙を流した跡も残っていた。
「あ。そっか」
頭の後ろを掻きながら、他人事のように先程の聴覚の鋭さを思い出した。
人間、死の瀬戸際になると感覚がかなり研ぎ澄まされると言うが、あれはその一種ではないだろうか。
数時間前に、突然尚樹が俺の部屋に上がり込んできた。怒りの形相を浮かべ、俺に詰め寄り、幾度となく疑問をぶつけてきた。
どうして俺を裏切った。どうして俺を殴ったり、蹴ったりする。どうして他の奴らと一緒にその様を見て、豪快に笑える。
涙を浮かべながら、必死に下らない疑問をぶつける尚樹がうっとおしいと思った。非常に面倒だとも思った。
俺は最早勝者であり、敗者の惨めな小言を聞く耳は持たなかった。
俺は、尚樹にすぐに出て行けと恫喝し、腕を引っ張り追い出そうとした。
すると、あろうことか尚樹は俺の腕を振り払うと、両手で俺の首をがっちりと掴んで絞めあげようとした。
呆気に取られ、すぐに反撃は出来なかったが、死を回避する為に、すかさず俺は尚樹の首を両手で絞めた。
力は俺の方が勝ったようで、俺の首を絞め続けていた両手の力は緩み、尚樹は口元から泡を出し、両目を見開きながら息絶えた。
朦朧とした意識の中で、尚樹だった物をシャワールームまで引きずり込み、ドアを閉めた。疲れがたまったせいか、それとも、死の呼び声が高まったせいかは分からない。急激な倦怠感が俺を襲った。
倦怠感とぐちゃぐちゃになった頭の中を一旦整理しようと思い、俺は和室まで戻りすぐに寝転んで瞼を閉じた。
そして、眼を覚ました。
眼を覚ました瞬間、ここがアパートの三階であるのに、あんなに鮮明に様々な音を聞き分ける事が出来たのは、俺自身が死の瀬戸際に立っていたせいなのかもしれない。
今日の出来事を思い出し、歓喜に打ち震える。裸のまま、洗面所の鏡を見る。
くっきりと、俺の首筋には尚樹の両手の跡が残っていた。
その跡を、指で撫ですさりながら、またあんな感覚を得る事は出来ないだろうかと、舌なめずりをし、ぎらつく眼つきで考え込む俺がいた。