71.遺された者は何を想うか(2)
星一つない、藍色の空……チェルヴィケンの隠れ家から出てきた朝日は、思わず空を見上げた。
何年もの間……ユウはここで、この空をこうして見上げていたのかな、と考えながら。
(ねぇ……ユウ。こんなの見つけちゃったよ)
朝日は手にしていた紙を広げた。
隠れ家の小さな部屋――ユウが寝起きしていたベッドの下から出てきた、1枚の絵――。
まだ幼い頃に描いたのだろう。白い髭のおじいさんと茶色い髪の男の子と黒い髪の女の子が手を繋いでいる絵だった。
どう見ても、色鉛筆で描いてある絵だった。
ヒールがユウにミュービュリのことを教えるために、ミュービュリの品物もある程度揃えてあったのかもしれない。
(……パパにミュービュリを見せてもらったときに、描いたのかな)
ミュービュリに行くのを――朝日に会うのを、とても楽しみにしていたと言っていた。
何歳のときに描いたのかは知らないが、かなり上手だった。
絵の中の三人はみんな笑顔で、今にも踊り出しそうだ。
「……っ……」
切なくなって、涙が出そうになる。すると……前と後ろに抱えていた双子が
「ん……だっ」
「……う? あう?」
と声を出してぐずり出した。
「あ……ごめんね。大丈夫だよー」
「う……」
「む……」
「ほらー……元気、元気! この季節の夜は……風が気持ちいいよねー!」
朝日はその場でくるくる回る。少し泣きかけていた双子が笑顔になる。
二人の澄んだ青い瞳が――朝日を勇気づける。
「はーい、ジャンプー!」
ひょいひょいっと朝日が崖に登ると、双子はきゃっきゃっと声を上げた。
「わー……真っ暗だけど……点々と灯りがついてるね」
朝日は独り言を言いながら、東の大地を見下ろした。
中央には大きな穴が開いたままになっている。その周りはぐるりと柵ができていて、ところどころにテントが張られていた。エルトラの兵士たちだ。
この要塞跡はこのまま残されるそうだ。三女神が降臨した地――パラリュスに平和が訪れた瞬間を忘れずにいようと……後世まで語り継いでいこうということらしい。
そしてその周りにはエルトラ軍が駐在していた。この中央からいよいよ開墾を進めるのだ。
女神が天界に昇ったあと……東の大地は瞬く間に緑に覆われた。
ずっと地下に縛り付けられていたデュークがいなくなり……急に大地が芽吹いたのだ。丈の短い草があっという間に生え広がっていった。
「――テスラの色が、変わるまで……か。本当に……そうだったね」
朝日はポツリと呟いた。
「――ここにいたのか」
声がして振り返ると、夜斗が立っていた。少し離れたところに、サンが佇んでいる。
「メシができたってよ」
「あ……ごめん」
慌てて笑顔をつくる。そんな朝日を見てちょっと溜息をついたあと、夜斗はゆっくりと彼女のところまで歩いてきた。
「……こんな夜遅くに何してるんだ」
「明日からウルスラに行くでしょ? しばらく離れるから……その前に、隠れ家に行っておきたくて」
朝日はちょっと笑うと、遠くの隠れ家を指差した。
「レイメイに見せておきたかったの。……それでねぇ、こんなの見つけちゃった」
手に持っていた紙を夜斗に開いて見せる。
「ほら……ユウが小さい頃に描いた絵!」
「へぇ……」
「ユウって……本当に器用だったんだなって思った。絵も上手!」
「確かに……」
「ねぇ、レイヤ、メイナ。……もう少し大きくなったら……パパのことも教えてあげるからねー」
朝日はそう言うと、くるくる回りながら二人をあやした。
二人は楽しそうに、きゃっきゃっと声を上げている。
「……ミュービュリのことはどうするんだ? そのうち話すのか?」
「言わない」
朝日は間髪を入れず答えた。
「フィラの人間としては……多分、知らない方が幸せ」
「……そうなのか?」
「うん」
夜斗の心配そうな顔とは裏腹に……朝日はとても晴れやかな顔をしていた。
「他のフィラの民と同じように……私も暁も、テスラの外の島で育ったって言う」
「……」
「じゃ、おうちに帰ろうか。ね、レイヤ、メイナ」
朝日は双子に笑いかけると、サンのところに歩いていった。
夜斗はその後ろ姿を……複雑な表情で眺めていた。
◆ ◆ ◆
パラリュスの白い空……夏の終わりの、眩しい光の元。
ジャスラから西にある……神の領域ともドゥンケの島とも呼ばれていた場所では、セッカが森の集落の女性達と一緒に山で薬草採りをしていた。
「あー……それそれ! それが、私が言ってる薬草!」
「へぇ……これがねぇ……」
森の集落の女性が不思議そうに手にとり、見つめる。
「こっちでは使っていなかったね。あの……」
赤い花を指差す。
「花なら煎じて飲んだりするけどねぇ」
「どんな効能があるの?」
「滋養強壮だね。ダンナに飲ませるといいよ」
「はは……」
セッカは少し疲れた笑いをした。
「ウチはいいや。……あれ以上元気になられても、困るから……」
「……そうだねぇ……」
女たちは麓を見下ろした。
海辺では、ホムラが漁師たちに船の造り方を教えている。
何を言っているかまでは聞こえないが、威勢のいい声だけはここまで飛んでくる。
「おっかない人かと思ったけど……面倒見のいい、いい旦那さんじゃぁないか」
「へへっ……まぁね」
セッカは照れたように笑った。
一方、その海辺では……エンカが島で獲れる生き物を見せてもらっていた。
「へー……こんなのいるんだねぇ」
「おうよ。初めて見るのか?」
「うん。あ、ねぇねぇ……こっちのは?」
「これはリーダイカといって、下ろして生で食っちまうな」
「生!? 焼かないんだ!」
「獲れたてなら生でイケるぞ。食ってみるか?」
「うん!」
人当たりがよく、どんな話も楽しそうに聞くエンカは、熟練の漁師たちの間でも可愛がられている。
これで40近い中年だとは、誰も思っていないだろう……。
「……ん?」
ホムラは海辺からずっと山沿いにつけられている、一本の細い道をみつけた。
「おい……あれ、何だ?」
近くの大工に聞く。
「あれは……ドゥンケさまの祭壇がある丘に続く道だな。今は旅に出るって言って……いないけど」
「ドゥンケ……」
レジェルとミジェルから事の顛末を聞いていたホムラは、一瞬、息を呑んだ。
「一番にとれた農作物とか、海の獲物を捧げてたんだ。昔はいつの間にかなくなってるって感じだったけど、旅に出る直前とかは……」
漁師はちょっと顔をほころばせた。
「美味しかったって言ってくれたりしてよ。おっかない風貌だったから、俺達も怖かったんだけど……船が壊れて俺が海で遭難しかかったときは、助けてくれたんだ」
「……そうか」
「ドゥンケさま……いつ旅から帰ってくるのかな……」
男は遠い海の果てを見つめた。
どれだけ待っても――ドゥンケは帰って来ない。
島の民とドゥンケの交流は、ほんのわずかな期間だった。
しかし……それでも、太古の昔からずっとこの島を見守ってきたというドゥンケがいないことは、この島全部が見捨てられたようで……話などしたことがない民も不安に思っているようだった。
「ちっと……行ってみるかな」
「もう、何にもねぇぞー」
男の言葉にホムラは黙って手を上げて応えると、山を登り始めた。
細く長い、ウネウネした道を登っていく。
島の民は、ここを年に一度は登って……恵みに感謝していたんだな、と思った。
――いて当たり前と思っていたものが……ある日突然、いなくなる。
「……ソータの馬鹿野郎」
ホムラは舌打ちした。
「せめて……何か言って行けってんだ」
あの日……ソータは水那と共に、天界に昇ってしまった。
ホムラやセッカは、レジェルとミジェルから……そのことを聞いた。
自分達のところに来る余裕なんて全くなかったことは、わかっていた。
それでも……ホムラは悔しかった。
二十年近くジャスラで旅を続けていた。ずっとこの場所にいるもんだと思っていた。
そのうちウルスラやテスラに行き来するようになったが……平和になったらジャスラに帰って来るもんだと思い込んでいた。
ホムラがソータと最後に会ったのは……もう1年半も前のことだった。冬の間はテスラの調査ができないと言って、ジャスラに帰って来たときだ。
(デーフィの家で……旅の話や時には馬鹿な話をして、大笑いしたっけな)
その翌年の冬――水那を取り返し、そのあといろいろ忙しそうにしていて……結局、会えずじまいだった。
(セッカが二人を見送ったとき……ちょっと無理すれば行けたのにな。どうしてあのときそうしなかったんだろうなぁ……)
「馬鹿は、俺か……お?」
長い道の先に……少し広い場所がある。
鬱蒼とした樹に囲まれた、その奥に……朽ちてボロボロになった柱と、祭壇らしきものがある。
ここに、島の民は収穫物を捧げていたのだろう。
「……」
ホムラは広場を見回した。
ドゥンケはいない。
でも……せめて形だけでも造っておけば、民の拠り所にはなるんじゃないのか。
「……ここに小さくていいから祠みたいなものを造るかな。……そうだ、雨避けのひさしもいるよな」
“……”
不意に気配を感じて……ホムラはパラリュスの白い空を見上げた。
――しかし、何もない。
「……グゥ……グルグルグル……」
「おわっ!」
急に近くで獣の声が聞こえた。
驚いて声がした方を見ると、黒い小さな四足の獣が祭壇の陰からホムラをじっと見ている。
「……何だ?」
ジャスラでは見たこともない獣だった。まだ子供なのか……大きさは50センチもない。ホムラなら片手の手の平だけで抱え上げられそうだ。
真っ黒で、かなり険しい顔をしている。頭には小さな角が二本生えていて、瞳は赤。
怯えているのか、牙を剥き出しにしている。
「……どうした? 怖くねぇぞ」
ホムラはしゃがみ込むと、黒い獣と視線の高さを合わせた。しかし獣は
「グゥゥ……」
と唸ったまま、近付こうともしない。
「……この島特有の獣かな……ちょっと聞いてみるか」
迂闊に触れては駄目な生き物かもしれない。
ホムラは立ち上がると、元来た山道を引き返して行った。
◆ ◆ ◆
“じいじー!”
ヴォダが海底で眠るモーゼのところに飛び込んできた。
“……こら……”
モーゼはもう身体を動かすのも億劫になっていた。わずかに胸ビレだけ震わせる。
“お前はもう旅立ったのだから帰って来てはならぬと……”
“ソータ……ソータがどこにもいないよー!”
“……”
ヴォダが半泣きになっている。
“女神さまたちに会えたよ。でも……ソータもいなくなった。ずっと、この半年ぐらいの間、探したの。パラリュスの、行けるとこ、全部”
“……アキラから聞いたのではなかったのか……?”
“聞いた。でも……信じないもん。ソータ、一緒に旅するって、言ったもん”
ヴォダがモーゼの周りをぐるぐる回る。
“じいじ……ソータ、もういないの?”
“……”
モーゼは答えない。
“う……”
ヴォダはぷるぷる身体を振るわせた。
“……む?”
モーゼの身体全体が……一瞬、ぴくりと震えた。
“……む……”
“ねぇ、じいじ……何か、言ってよ”
“――わが孫よ”
モーゼはかすかに笑った。
“お前は廻龍の自覚が足らぬ。心を落ち着けて……もっとゆっくりパラリュスを廻ってみることだ”
“……落ち着けて……?”
“……そうだ”
“……”
ずっとせわしなく動き回っていたヴォダは、モーゼのそばに寄り添うとじいっと静かに佇んだ。
“――あ……!”
ヴォダがぴくりと身体を震わせた。
“じいじ……!”
モーゼの身体をツンツンする。モーゼはかすかに笑ったまま、何も言わなかった。
“ヴォダ……行ってくる! じいじ、また来るからねー”
“もう来てはならんと……”
モーゼの言葉は……むなしく海底に漂っていた。ヴォダはとっくにいなくなっていた。
ソータと旅をしていたせいもあり……ヴォダの泳ぐ速さは並大抵ではない。
モーゼはふっと息をつくと……再びゆっくりと眠りについた。




