52.運命の日が訪れる(1)-それぞれの朝-
エルトラ王宮の北の塔――先代女王、フレイヤは横たわったまま、窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
テスラの白い空……溢れる光。
「……フレイヤ様。アメリヤ様とミリヤ女王がいらっしゃいました……」
扉の奥で、神官の声がした。
「……構わぬ」
フレイヤが皺枯れ声で答えると、カチャリと扉が開いた。
「……おばあ様」
「……母上」
二人はそっと傍によると枕元に跪いた。
「……今日、か」
「……はい……」
アメリヤとミリヤ女王は頷くと、顔を上げた。
「アサヒとユウディエンは……さきほど、エルトラ王宮を出て行きました。双子をフィラに預け……東の大地に向かいます」
「……」
「われも……準備が整い次第……キエラ要塞に向かいます。テスラの――女王として」
ミリヤ女王はそう言うと、深く頭を垂れた。
「……長かった……のう……」
フレイヤはゆっくりと瞼を閉じた。
その身体は……どんどん老いて、小さくなっている。
きっと……あと、二、三日の命だろう。
「でも……間に合った。われは……テスラの平和に間に合ったのだ」
「……ええ」
「あの無鉄砲な娘を見つけてから……16年。……ふふっ……」
フレイヤは小さく笑った。
「……長かった……のう……」
◆ ◆ ◆
「あっ……」
一生懸命に書き物をしていたコレットは、肘をぶつけてインク壺を倒してしまった。
「やーん!」
「まぁ、コレット様!」
女官のマリジェンカが慌てて布巾を片手にやってくる。
……とは言っても、お腹が大きいのでそう素早くは動けなかったが。
「……もう、やーめた」
コレットはふくれっ面をすると、ぽいっとペンを投げて椅子から立ち上がってしまった。近くのソファにどさっと横になる。
机の上に零れたインクを一生懸命に拭いていたマリカが、溜息をつく。
「コレット様……」
「だって……落ち着かないんだもの。1週間前、シルヴァーナ様と姉さまが行ってしまって……」
「……そうですね」
マリカは二枚目の布巾を取り出すと、床に滴ったインクを拭き出した。
「……今日、なんでしょう? トーマとユズも行ったのよね?」
「……ええ。シルヴァーナ女王が召喚されたはずです」
「……むう……」
コレットはソファのクッションに顔を埋めた。
「……私も跳んで行きたい」
「冗談はやめてください!」
実際に瞬間移動ができるコレットの言葉に、マリカは真っ青になった。
「テスラに跳ぶなんて、とんでもないですよ!」
「……」
コレットは会いたい人のもとにすぐに跳んでいくことができる。それが……国を跨いで行えるかどうかは、定かではないが。
「……わかってるもん……」
コレットは渋々顔を上げると、半泣きのままマリカを見つめた。
「でも……昨日までは頑張ったけど、今日だけは無理だもの。何も手に付かない。ジェコブに言っておいて!」
「……そう仰ると思いました」
マリカは床を拭き終わると、溜息をついた。
「……神官長は、王宮にずっと籠っていただけるのなら……今日のご公務はなしでよい、と仰っていましたよ」
「……ほんと!?」
コレットはガバッと起き上がると、満面の笑みを浮かべた。
「ええ。もし公務に出られても……」
マリカがインクまみれになった布巾を眺めて溜息をつく。
「……こんなことばかりでしょうから」
◆ ◆ ◆
ジャスラのハールの海岸では、ホムラが自分の手下と共に大量の食糧を船に積み込んでいた。
「え、ちょ……ホムラ」
自分の小さな娘を抱えたエンカが、驚いた様子で船を見上げる。
「ひょっとして……あの島に行く気!?」
「おう」
「いや、だって、危険だって……」
「今日……だろ? ソータが最後の仕上げをするのは」
「うん……そうらしいけど」
ホムラはヤハトラに立ち入ることができなかったため……ソータが朝日を迎えに来た時も、ネイアを迎えに来た時も、会うことはできなかった。
ただ、ヤハトラからの文書で事の次第を聞いただけである。
「結局、何も起こらなかったじゃねぇか」
「そうだけど……」
「ここからあの島まで……この船だと、最低5日はかかる。あの島がソータのそれと関係があったとしても、ソータさえうまくやれば脅威でも何でもないはずだよな?」
「まあ……」
「ソータがヘマをしたとして……5日以内なら、オリガを寄こせるだろ」
「そうだけど……」
「ちょっと、ホムラー!」
丘の上から大きな声が飛んでくる。見上げると、ウパ車に乗ったセッカだった。
セッカはウパ車を飛び下りると、すごい勢いで海岸まで降りてきた。
「おう、セッカ」
「おう、じゃないわよ! 島に行くって!?」
「ああ」
「セッカさんからも言ってやってよ……」
エンカが溜息をついた。
「これ、ウチの干し肉! ちゃんと持って行ってよ!」
「おう、そっか」
「え……」
エンカがとても驚いた様子で二人を見比べた。
「止めない……の?」
「何で止めんのよ。あれから3週間……結局、何もないじゃない」
セッカは元気に言った。
「船で漁をしてる人は見かけるんでしょ? だったら、交流することを考えた方がいいじゃん」
「……何で……」
「ハールはこの時期、漁はしないじゃない。……この時期の魚はあまりよくないから」
「そうだね」
「でも、あっちの海まで行くと……違うのかもよ。それに、このあと解禁になって、漁に出たとき揉めるとマズイでしょ」
「……まあ……一理あるね……」
圧倒されながらもエンカはかろうじて頷いた。
「ハールの海を守るためにも、こういうことは大事よ。あんたもレッカの後を継いでハールの領主になるんなら、よく考えなよ」
セッカはそう言うと、バーンとエンカの背中を叩いた。
「……俺には向いてない気がする……。ホムラんとこでどうにかしてよ」
エンカは溜息をつくと、かなり痛そうな顔をしながら自分の背中をさすった。
◆ ◆ ◆
ユウは聖なる杯が入った鞄を肩から提げている。
朝日はレイヤとメイナを抱え、ユウの背中に掴まっていた。
サンが「キュウ!」と鳴いて下降する。……下は、フィラ――暁の絶対障壁により、村全体が白い靄で覆われている。
「……あ、理央だ」
絶対障壁から理央が姿を現した。上を見上げ、朝日達に手を振っている。
サンは理央の傍に急降下すると、ゆっくりと村の外れに降り立った。
「朝日!」
理央が朝日の元へ駆けてくる。
「理央……」
「レイヤとメイナね。……ふふっ、可愛い」
理央がレイヤを、ユウがメイナを受け取る。
朝日は抱っこ紐を肩から外すと、理央に渡した。暁から話を聞いた朝日の母、瑠衣子がすぐに用意し、暁を通じて渡したものだった。
「これ……」
「ミュービュリのものなんだけどね。仕方なく……」
「こんな便利なものがあるのね。でも……これならこっちでも布で作れると思うわ。あんまり神経質にならなくても大丈夫よ」
理央は一度レイヤを朝日に戻すと、肩から抱っこ紐を下げた。「こういう作りになってるのね」とか言いながら興味深そうに眺めまわしている。
そして朝日とユウから双子を受け取ると「よろしくね」と二人に挨拶した。
レイヤはぼけーっと理央を見上げていたが、メイナの方はユウから離れて泣き出してしまった。
「あらあらあら……」
「メイナ……今日だけは、いい子にしててね。後でいっぱい、パパが抱っこしてくれるから」
朝日がそう話しかけてメイナの頬を撫でると、メイナは涙をいっぱい目に溜めていたものの声を上げて泣くのはやめた。
「うぐ……」
「よしよし」
朝日は続けてレイヤの顔を覗いた。
こちらはというと、理央の髪の毛にじゃれついてご機嫌に笑っている。
「あらら……ご機嫌ね?」
朝日は微笑むと、レイヤの頬をつついた。
「やっぱり男の子だからかな。……ひょっとして、面食い?」
「馬鹿ね」
理央は笑うと、ぽむぽむと双子の背中を撫でた。
……ふと、朝日をまじまじと見つめる。
「それにしても……出産からまだ2週間ぐらいしか経ってないのに……朝日、元気ね」
「普通に動く分にはね。闘えって言われたらちょっと辛いけど」
朝日はちょっと笑ってそう答えると、深呼吸をした。
――真面目な顔つきになる。
「……それじゃ、理央……」
朝日が言いかけると、理央はハッとしたような顔をした。
「――そうよね。呑気に喋ってる場合じゃないわ。今日……いよいよ、だものね」
「……うん」
「フィラの人達は全員、何があっても絶対障壁から出ないこと。俺達の誰かが連絡に行くまで、必ず待ってること。……頼むよ」
ユウの言葉に、理央は力強く頷いた。
「わかったわ。……任せて。念のため、フィラの浄化者も全員ちゃんと保護しているから、大丈夫よ」
これから封じ込めるにあたり……デュークが大暴れする可能性は、かなり高い。
暁たちには遠く及ばない浄化者では、逆に命の危険があった。……前にヨハネに殺された少年のように。
そのため、現在東の大地にいるのは闇の影響が少ない、フェルティガエではない兵士のみだった。
結局この1週間、ヨハネが侵入したという報告はなかったため……夜斗は悪影響を恐れ、フェルティガエを引き揚げさせていた。
「……じゃあね」
朝日が理央に言った。
理央は力強く頷くと、双子を抱えて絶対障壁の奥に消えた。
――待っててね、レイヤ、メイナ。後で……笑顔で迎えに行くからね。
朝日がそう強く想いながらユウの方を見ると……ユウは、さっきまで抱いていたメイナの感触を思い出すかのように、じっと自分の両腕を見つめていた。
「……ユウ?」
朝日が話しかけると、ユウはハッとしたように振り返った。
「ごめん。ずっと一緒だったから……淋しくてさ」
「……そうだね」
この十日間……朝日とユウ、そして双子の四人は、エルトラ王宮でのんびりと過ごしていた。
朝日が傷を癒し、体力を回復する間――ずっと、一緒にいた。
一緒に遊んで、一緒に寝て……一緒に笑って。
――暁が産まれたときもこうだったな。暁はすぐ発現して大変だったけど、ユウがよく面倒をみてくれたっけ。
朝日は、そんなことを思い出した。
暁は一度だけ、抱っこ紐を届けに現れた。ちょうどユウが北東の遺跡に行っていていない時で、暁はとても残念そうにしていた。
……後で帰って来たユウも、その話を聞いてひどく落ち込んでいた。
でも、これさえ終われば……家族五人、のんびりできる。
そう思い、朝日は「ふん!」と気合を入れた。
「……でも、今日だけ! 全部終わったら、ゆっくりしようね」
「……うん」
宥めるように言う朝日に、ユウは少しだけ微笑んだ。
そして二人は再びサンに乗り――フィラを離れた。




