35.美の女神は何を語るか(2)-ソータside-
シルヴァーナ女王に連れられ、王宮の奥の扉から、さらにその奥へ。
……女王の血族しか入れない場所なのだろう。誰一人、見かけない。
「ヤハトラから……何か聞いているか?」
「アサヒさんの経過は順調だそうです。ただ……」
「ただ?」
「ユウさんの方は少し厳しい状態だと聞いています。やはりアサヒさんが眠ったままですから……効率よくユウさんにフェルティガを渡すことができないようです。アサヒさんが目覚めるまで……恐らくあと2週間。……それまでどうにかもたせる、と……」
「2週間?」
「アキラのときを参考にすれば……だそうですが。アサヒさんが目覚めるということは、赤ちゃんが自らフェルティガを用いることができるようになり、アサヒさんはフェルティガをあまり吸収されなくなる、ということなんだそうです。ですから、その後はアサヒさん自身の意思でユウさんを助けることができるので……」
「そうか……」
ジャスラで神の領域を調べてもらえないかとも思ったが……やはり、無理なようだな。
「ヤハトラとは、ミジェルを介して連絡を取っています。ミジェルが歌を歌ってお二人を助けているそうですよ」
「歌?」
「ミズナさんに子守唄を教えてもらって……ミジェルのフェルティガと相性がよかったようです。それから、アキラにもミュービュリの歌を教えてもらって……」
「アキラ……大丈夫そうだったか?」
話に聞いていただけだから……本当に立ち直ったのか、ちょっと心配だった。
夜斗もかなり気にしていたし……。
「ええ。すっかり元気になって……一度、こちらにも報告に来てくれました。ヤハトラにも時折行っているそうですから、大丈夫でしょう。心配だったので……私もフェルティガをアキラに預けました」
「女王のフェルティガなら、きっと凄いんだろうな」
「ふふっ……」
シルヴァーナ女王は微笑むと、ちょっと俯いた。
「私達は……みな、あの方たちに救われたのですから。できることは……何でも……」
「……そうだな」
俺はしみじみと頷いた。
俺とトーマや、親父、ユズル……シルヴァーナ女王、シャロット、夜斗……。
これらの縁を繋いでくれたのは……朝日やユウ……そして暁だ。
「あ……ここです」
シルヴァーナ女王がぴたりと立ち止まった。
天井の低い通路を抜け――急に巨大な扉が目の前に現れる。巨大な岩石を削って作ったような、冷たい濃いグレーの扉。
女王はゆっくりと扉を開けると……すっと中に入った。
それは……大広間と同じぐらいの広さだった。奥に……立派な玉座がある。
ウルスラ王宮のどこにこんな大きな空間が隠されていたのか、と思うほどだった。
「……女王はあの玉座に座り、予言を賜るのです」
「ふうん……」
「私の場合は……ここに来ずとも予言を授かることがありますが……。あの玉座に座る女王の身体に、女神ウルスラの祝福が宿るのだろうと言われています」
「なるほど……ね……」
「ですから……女神ウルスラをお迎えするならば、あの玉座でしょう」
そう言うと……シルヴァーナ女王はすっと玉座の前に跪いた。
俺は玉座に近寄ると……腰に差していた神剣を抜き、そっと置いた。
そして女王の後ろに戻ると、水那と並んで跪いた。
「……美の女神ウルスラの輩下、女王シルヴァーナ。……我、汝に祈る。いま一度……そのお姿を……」
シルヴァーナ女王が凛とした声でそう唱え……深く頭を垂れる。
俺は胸の中の勾玉に手をあてると……女神ジャスラの事を思い出した。
女神ジャスラよ。……女神ウルスラを共に呼び起こしてはくれないか……。
「……!」
隣の水那の身体が、ぴくりと震えた。
顔を上げる。
玉座に置かれた神剣に……光が灯る。
紫色の靄が……溢れ出る。玉座を取り巻き……宙に昇り、踊るように予言の間を駆け巡る。
紫色の靄が辺りをぐるりと取り巻き……歓喜を表現するかのように揺らめくと、やがて何かの形を作り始めた。
華やかなドレスの裾……その隙間から見え隠れする足……細くくびれた腰……豊満な胸……ぷっくりとした唇。
長く緩やかに波打つ金色の髪……紫色の瞳。
「……女神……ウルスラ……」
水那がうっとりとするように呟いた。
シルヴァーナ女王に似ている……が、その姿はまさに異次元だった。
美の女神の名は伊達ではない。その場にいる者すべてを――魅了する。
「……あ……」
思わずボーっとしていると……女神ウルスラとはたと目が合った。
女神ウルスラはじーっと俺を見ると
“まあ……”
と言って手を口に充てた。
“……本当に、ヒコヤだわ――!”
「えっ……」
女神ウルスラが玉座から紫色の靄と共に俺に向かって飛んでくる。
シルヴァーナ女王も飛び越え……思いっきり俺に抱きついてきた。
「な、な、な……」
“全然見た目は違うのに……ここからヒコヤの魂を感じるわ”
ひしっと抱きついたまま、女神ウルスラが俺の胸をまさぐる。
どうしたらいいかわからず、
「は、はあ……」
と間抜けな声を上げるしかなかった。
“ずっと……気配は感じていたのよ。夢みたい……”
「いや……あの……女神ウルスラ……」
実態がない……紫色の靄で作られた身体とはいえ……そんな密着されるとどうしたらいいか……。
“……いやん!”
不意に、女神ウルスラは玉座の方に引っ張られた。
神剣の方にぐんと引き戻される。
女神はハッとした顔をすると
“あ……そうね……まだ……力が……足りないのね……”
と呟いた。
“……駄目ね……思わず平静を失ってしまったわ。……わたしはまた……同じ過ちを……”
しゅんとなって俯く。
……そしてしばらくしてから……顔を上げた。俺の隣の水那を見つめる。
“……神剣から……勾玉を介して……知っている。神器が認めた……ヒコヤの伴侶ね”
「……ミズナと……申します……」
“ミズナ……。そなたがヒコヤの……。いえ……ヒコヤの、ではないわね。ソータの伴侶……ですものね”
そう言うと、女神ウルスラはニコッと微笑んだ。
笑顔から色とりどりの花が零れるような錯覚を覚える。
そしてシルヴァーナ女王に向き直ると、女神ウルスラの顔が真剣な顔つきに戻った。
“女王シルヴァーナ。……長い間、わたしを……ウルスラという国を苦しめていた闇が……この国から消え去ったわ”
「……はい……」
“……あの……闇……”
そう呟くと……女神ウルスラは左手で額を抱え……ぐらりとふらついた。
「女神ウルスラ!」
思わず叫ぶと、女神ウルスラは俺を見て……ちょっと微笑んだ。
“ヒコヤがテスラを愛していたことなど……わたしはとっくに知っていたのよ”
「……」
“でも……知らないふりをしていたかったの……。ヒコヤを想う自分が……何だかとっても愛しかったの……”
女神ウルスラが……とても幸せそうに微笑んだ。
しかし次の瞬間……まるで生気を奪われたような……鬱蒼とした暗い表情に変わった。
“あの……闇さえ……唆さなければ……わたしは……わたしなりに……ずっと楽しんでいられたのに……”
「唆す……?」
“……あれが何かは……どうしても思い出せないの。でも……かなり昔から……われら三女神に纏わりついていたように……思うわ……”
「……」
“ヒコヤが欲しいのか。力を貸してやろう。……そう囁かれたのを覚えている”
「それで……」
“……いいえ”
女神ウルスラはきっぱりと首を横に振った。
“そのときは……はねのけた……はずよ。それから……どれぐらい後のことかはわからないけれど……”
女神ウルスラはそう言うと、とても……とても悲しそうな顔をした。
“テスラが……わたしたちを裏切ったと。……女神であることを放棄して……ヒトになり、ヒコヤの伴侶になる気だと……わざわざ言いに来たのよ……”
「……!」
“テスラもヒコヤに惹かれていることは……知っていた。でも……女神であることを放棄して……ですって? それは……何かの間違いに決まっている。だけれど……あいつは続けてこう言ったの。テスラはヒコヤの子を宿している。女神を捨て、ヒトとなることを選んだからではないか……と……”
子を宿したことは……確かに事実だ。
だけど……女神テスラがヒコヤを選び、二人の女神と決別するなんて……そんなことはきっと、あり得ない。
限りある命のヒコヤと……永遠の女神テスラ。わずかな時間を……どうしても共有したかっただけ……のはずだ。
闇は……事実と虚構を織り交ぜ、巧妙に精神を揺さぶってくる。
……暁にしたことと、同じだな……。
“後は……もう……わからないの。ずっと……闇がわたしに囁き続けるの。女神の国造りなど……無駄だった。わたしの存在など……パラリュスにとって無意味だった。そんなことを……ずっと……”
「な……」
それは……地獄の囁きだ。
女神を以ってしても……狂うに決まっている。
その声を振り払うかのように……神剣を振り払っていたのか。
自分の身体に傷をつけ、血を流し……どうにかして、自我を取り戻すために。
そして……かろうじて、助けに来たヒコヤの姿を見つけた……。
「……っ……」
涙がこぼれそうになって……俺は思わず俯いた。
狂うしかなかった、女神ウルスラ。
どれだけ苦しかったのだろう……どんなに傷ついたのだろう……。
“――泣かないで……ソータ”
女神ウルスラが……俺を労わるように言った。
ハッとして顔を上げると……女神ウルスラがすぐ目の前にいた。
そして俺の顔を両手で包むと……額にそっと口づけをした。
“……わたしの刻印……よ。……われら三女神の神具……すべてを包み込む壺――聖なる杯のためには……必要……”
「神具……聖なる杯……?」
“わたしでさえ……堕とされた……あの闇を封じるには……恐らく……これしか……”
女神ウルスラの身体を作っていた紫色の靄が……だんだん薄くなる。
“でも……そのためには……テスラに……”
会わないと……という女神ウルスラの掠れた声だけが……予言の間に舞った。
気が付くと……紫色の靄はすべてなくなっていて、玉座にはうっすら輝いた神剣だけがその存在を示していた。




