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水面に踊る

作者: 野兎症候群


 城崎の駅に隣接して作られた「さとの湯」はお盆を利用して訪れた観光客で賑わっていた。賑わってはいるが混雑はしていない、つまりはちょうど良い人の入りの温泉だった。客は皆、日々の仕事から離れた晴れやかな表情で歩いており居心地のいい雰囲気が街中に満ちていた。斯く言う私もその一人であり、かの文豪たちが療養に来たと言う城崎で束の間の休息を享受するために来ていたのだった。


 城崎温泉は長い歴史のある温泉だったが、七つある外湯を回っていくと近代化と観光地化の進行が見て取れた。特に最初に訪れた「さとの湯」は洗練されたスーパー銭湯の様によく整えられており、現代の観光地として栄えているようであった。


 「さとの湯」の受付と休憩所は一階、風呂場は建物の二階と三階にあり、三階部分は露天風呂になっていた。露天風呂の隣には膝くらいの高さの石垣で囲われた風呂と同じくらいの大きさの浅い池があり、小さく波打つ水面からすると何かしらの水棲生物の住処となっているようだった。池の中央にはあまり周囲と調和していない西洋のエンタシスの柱が空に向かって立っていたが、その設計思想は不明で何らかの意味を読み取ることはできなかった。池の水は人工的に水質が維持管理されている様子で透明な水を通して池の底を見ることが出来た。池の底には緑と灰色を混ぜた様な何とも形容しがたい澱の様なものがあり、時折見えない何かの水棲生物の動きによって巻き上げられていた。


 露天風呂に出た私はその何とも言えない風情を眺めた後、風呂の縁に腰掛けてその小さな箱庭に目を落とした。別に何か見たいものがあったわけではなく、温泉に浸かる間の暇つぶしだった。


 水面はアメンボたちの楽園でだった。水面に浮かぶものは人工的に置かれた形の整った石くらいでその他のものは何もない。そんな水面には大小様々な大きさのアメンボたちが我が物顔で闊歩しているのであった。彼らの脅威となるような他の生物はそこにはいない。


 まじまじと見てみるとアメンボは面白い。子供は一ミリ程度の小さなものであるのに対して、大人のアメンボの胴体は二十ミリを超え、足まで含めれば五十ミリほどになる大きな個体もあった。人間でもここまでの体格差になることはあまりないだろう。私の専門ではないが、こんなにも成長の過程で体格差が大きくなる生物種は他にいるのだろうか。加えて面白いことに体格の大小にかかわらず体の形はどれもほとんど同じように見えた。彼らには体の大きさ以外に大人と子供を見分ける方法はないのだろうか。


 じっと彼らの姿を見ているとそんなアメンボたちの楽園でも争いが起こっている事に気がついた。ある個体が別の個体に頻繁に攻撃していたのだ。彼らのとっては広いはずの水面の上、とあるアメンボは別のアメンボに向かって行っては体当たりし、水面に波紋を作っていた。最初は交尾かとも思ったがしかし、所構わず近くにいるアメンボたちにぶつかりに行く様子から、オスメスを区別している様子はうかがえなかった。

 その個体が他のアメンボたちと争って生まれた波紋は時に大きく穏やかな水面を揺らせた。彼らに特別の能力を与えてくれている高性能な脚はそれでも彼らが沈まぬ様に水面を押し下げて耐えていたが、それは危うい均衡だった。


 ふいに吹いた風で水面が揺れる。日光が透過して垣間見えた池の底、澱の中に白くブヨブヨの物体が揺れていた。最初見たときにはそれが何かはよく解らなかったが、アメンボたちの争いを見てそれが彼らの死骸である事を悟った。


 均衡が崩れた結果なのだろう。水の上を歩くことは普通は出来ない。アメンボは進化の過程で特別な脚を手に入れて水の上で生活できるようになったが、それは薄氷の上を歩くような微妙な均衡の上に成り立っているからこそなし得るものだ。争いによって均衡が崩れた後には沈む他ない。


 視線を別の場所に巡らせると池を取り囲む背の低い石垣に幾つかの抜け殻を見つけた。ヤゴだ。彼らも元々はこの箱庭の住人であったようであるが、脱皮を終え、トンボとして巣立った様子だった。彼らは普通の水棲生物と同様に池の中で生まれ、そしてある時点から水の底から抜け出した後、それまで彼らが生きていた世界に別れを告げ、何処かへと飛び去ったのだ。


 私はずいぶん長く浸かっていた湯船から上がって椅子に座って目を閉じる。眼球には今しがた見た光景がこびりついていた。水面上の争い、水面下の死骸、石垣の上の抜け殻。それらはまるで私を取り巻いている人間世界と相似の関係であるようだと思った。いつまでも同じ平面で争いと平穏の中を暮らす者達、平面を越えその先の別の世界を目指す者達、形や大きさは違えど小さな箱庭の中には人間世界と似た構図があった。或いは、そう言った相似形は生物としての逃げられない宿命なのかもしれない。


 そろそろ上がろうかと思い、立ち上がった私の眼前を一匹のトンボが横切っていった。


「あっ」


 飛んでいった先を目で追っていくとツバメが飛んできて、気がついたときにはトンボは居なくなっていた。

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