スタシェルシュヴァイン 第三節
「投与結果を報告しろ」
大きくパーマのかかった金髪の青年は、端末を操作している白衣の研究者に声をかける。
「現在、ヴィッサリア・カニンガムからウィルスの発生は見られません」
研究者は、三十代か、または四十代と思われる風体をしていた。その中では、ストラヴィンスキーが最も若いだろうが、彼の口調は年上の人々に対するモノではなく、部下に対するそれであった。
「隔離室内のウィルス生存状況は?」
「八三%のウィルスが生存期間を過ぎ、死滅しています。残りのウィルスも三十分以内には完全に消滅し、隔離室は無菌状態となる計算です」
淡々と報告をしようと心がける研究者たちではあったが、自身の予想を上回る結果の数々に、少しずつ声が上ずってしまう。彼らの表情はそうした驚きと、今までの自分たちの数年間の研究成果を、瞬く間に塗り替えていくそれに対する嫉妬が折り重なっていた。しかしそんな中であっても、恐らく最も彼女に対し、心血を注いでいたはずのストラヴィンスキーの表情は、全くと言うほど変わらず、冷たい表情を続けるばかりであった。
「最後の一%のウィルスの死滅も確認。投与からは二七分三五秒」
「今の記録をセキュリティレベル:иに保存。続けて投与から、ウィルス再発生までの時間の計測は続行。試薬BとCはまた後日、状況を変えて投与する」
「承知しました」
機械的に淡々と支持を出していくストラヴィンスキー。予想とは異なる反応を示す上司に、思わず顔を合わせる部下の研究者たち。彼らは、私情を持ち込まないその姿勢にこそ、若くしてここまで成功できた理由であろうと、自分の中の疑問に折り合いをつけていた。
合理的な考えだ。辻褄の合う予想だ。
しかし、冷静そうに見えるその双眸に宿していたのは、間違いなく狂喜と形容されるべきものだった。
三本の試薬を研究所に渡して数日が経過した。彼らの研究成果を聞くべく、私は再び彼らの鉄の要塞に赴くことにした。勿論徒歩ではない。
一度目訪れた時は、最寄りの都市からの片道を、徒歩も含め、八時間近くかかったものだが、今日は特に事故もなく、同じ時間に出発したというのに、今回は正午前に到着することができた。
研究所に到着すると、数人の妙齢の研究者に迎えられた。しかしその中にストラヴィンスキーの姿は見当たらない。
「ストラヴィンスキーはどこへ?」
その問いに対して、恐らくその中でも一番年長であろう男性が答える。
「ええ、施設長は今朝がた、ヴィッサリアに例の試薬の二本目を投与した後、最後の一本を持って、ご自身の研究所に向かわれましたよ。試薬を一度調査したいと」
「ん?彼の研究室はここにないのか?」
「あ、いや。ここにもあるにはありますが、彼にはもう一つ、この近くの都市の大学にあるんですよ。まぁ、設備としては、こちらの方が優れているはずなんですが、ね……」
彼は私たちを信用していないのかもしれない、研究者はそんな愚痴をこぼしながら、以前と変わらない白い廊下を歩き、例の隔離室へと向かう。
「そういえば、あの薬の効き目は」
「はい!とても凄い効力です。初回の投与時のデータしかありませんが、その時はおおよそ三十分で、彼女の肉体からウィルスは発生しなくなり、以降六時間もの間、再発生を防いでいました。本当大したものです。我々も見習わなければ」
研究者の表情は喜々として、私に結果を報告する。
「なに、そう委縮しなくても。貴方たちの研究成果あってこそのあの試薬だ。ウィルスの発生や、進化、性質。そういったものを明らかにしたのは、間違いなく貴方たちだ。誇っていい」
決して彼らを励ましたいと、お世辞を言ったわけではない。実際にこの研究所の成果は素晴らしく、他のメレトネテルのデータと比べても、ここほど正確で精密なものは存在しないと言っても良い。
「いえ、それも……ひとえにストラヴィンスキー君の努力ゆえです。我々は、彼の研究を後ろから支えているに過ぎない。我々は……変な話ですが、彼ほど、彼女と正面から向き合っていない。いや、向き合えないんです。彼女と接すれば接するほど、知れば知るほど、私たちは彼女の今の姿に耐えられない。多分、理解しがたい話だと思いますが……」
「いえ、なんとなくだが、わかるよ」
私自身も、彼女の底知れぬ魔性に魅入られかけた故に、彼の言い分は非常によく共感できた。同時に彼女と数年もの間、真正面で接することが出来ているストラヴィンスキーにもまた、ある種の異質さを覚えるほどであった。
以前と同じ通路を行き、以前と同じエレベーターに乗る。再びあの暗い一室の前の鉄扉にたどり着く。研究員がその扉のロックを、手慣れたように一つ一つ解除していく。
扉がゆっくりと開く。モニター室は以前訪れた時と同じく、照明は付いていなかった。しかし今回、研究員はその部屋の電灯はつけずに、壁面のモニターやコンピューターの電源だけを入れる。どうやらモニター室だけではなく、隔離室内部も明かりが灯っていないようで、目の前の厚いガラス越しに、彼女の姿をとらえることはできなかった。モニターの方で確認すると、どうやら彼女は今眠りについているようだった。以前と同じ姿、ベッドに縛られ身動きが取れない状態で、彼女は穏やかな表情で寝ていた。この様子に私はどこか言い知れぬ違和感を覚えた。
「君」
「どうかなさいましたか?」
「彼女は一度目の投与時、どのような様子で?」
「ええ、ストラヴィンスキー君は、彼女が運動してもウィルスが活性化しないか検査する、ということで、部屋の中を歩かせたり、飛びまわさせたりしていました。普段の規定を超えるレベルの運動でしたが、何ら問題はありませんでした。彼自身は、効果の持続時間いっぱいまでここで監督をしていましたよ」
「で、今回の投与の目的は?」
「どうやら就寝時の時の薬の効果を確かめているようです。今朝がた薬を投与するとともに、麻酔も入れて彼女を寝かしつけたんです」
一度目は飛び跳ねさせ、あまつさえずっと監視していたというのに、今回は監視も無く、それに彼女を寝かしつけているだけ?
一度目と二度目であまりに相反する状況である。それも『異なる状況下での、投薬の効能』を調べる目的というなら多少は納得いくが、しかしそれなら順序が反対であるような気がする。彼女が運動やストレスでウィルスを進化させてしまう、そういう体質についての研究成果を発表したのは間違いなくこの研究所であり、そしてその中心に立っていたのはストラヴィンスキーである。ならば、場合によってはこの隔離室さえ超えかねないウィルスを発生させる危険性があったというのに、彼はあろうことか隔離室で運動させていたというのだ。
いや、けしてアラドカルガの研究員たちの実力を疑っているわけではない。しかし万全を期すのであれば、本来先に薬の効能が本物かどうかを確かめてから、その次に、運動時の効果などを調べていくべきだ。研究員が、試薬を与えたというのに、未だ彼女にストレスを与えぬようモニター室の電灯を最小限にとどめようとしている姿勢も、その違和感をより浮き彫りにさせることになった。
この時の疑問は、先ほどまでは見えていなかった、この空間そのものの違和感に気付くことを可能とした。
(このモニター……何かおかしい)
目を付けたのは、ヴィッサリア・カニンガムの愛らしい寝顔を映し続けるモニターであった。その画面で、彼女は先ほどから変わらずに寝息を立てている。そう、何一つ変わらず、まるで同じシーンを何度も繰り返しているように。
「彼はここを何時にでた?」
「え?あ、確か朝の八時頃……でしたかな?」
モニターからは目を離さず、背後に立っていた研究者に再度問いを投げかける。
「で、彼女に試薬を投与したのは?」
「それは……七時頃ですが……はて?」
首をひねりながら、記憶を手繰り寄せる研究者。彼はここまでの私の質問の意図を理解してはいないようだった。
「至急、この施設における、レベルの高い職員を数名集めてもらえるか?」
「は、はい?いきなり……って何をしているんです!?」
研究員の怒号も無理はない。何せ私は、隔離室の扉を解放し、その中に遠慮なく足を踏み入れたのだ。
「いくら試薬を投与したからといって、防護服もなしに入っては困る!最低でもこのマスクを!一刻も早く……」
彼は壁に掛かった簡易な酸素マスクを手に、私の後ろを慌てて追いかける。無論彼は私の行動をとがめるつもりであったのだろうが、目の前に広がる光景が、否応なしにそれを不可能にした。
「ヴィッサリアが……いない?」
「ヴィーシャ、そろそろお昼ご飯を食べようか?何が食べたい?」
私は両手に複数の紙袋を持ち、少女は辺りを不安げにきょろきょろと見渡していた。
「あの、私少し……」
銀髪の少女は、右手で私の白衣の裾をちょこんと掴み、項垂れていた。
「ああ、すまない。いきなりこの人混みは辛かったね。どこか人のいない所へ行こうか」
「あっ!ありがとう……ございます……」
私たち二人は、少し町外れへと赴き、近場のこぢんまりとした、静かな公園に到着した。そこはまるで小さな森を再現したかのように、一面木々に囲まれていて、都市からは隔離された空間を形成していた。
「ここなら人は少なそうだ。少しここで休んだら、食事をとるとしよう」
その公園の木製ベンチに、私とヴィーシャは腰を下ろす。特に会話も無く、鳥の囀りだけが木霊する。わざわざ苦労して外に出たというのに、これではいつもと変わらない。そして今回もやはり、最初に口を開いたのは、ヴィーシャだった。
「あの……先生?」
「なんだい?」
いつも通りの会話。受け身の私は自ら話題を振ることはなく、常に最初に言葉を発するのは彼女だった。
「今日は本当にありがとうございます……外の世界をまた見せてくれて。……けど」
「君は、普通に生きていいんだよ」
「え?」
問いを完全に言いきる前に、私が答えを返したものだから、ヴィーシャは目を丸くして、驚いていた。
「君は、普通の少女なんだ。普通の、ね」
「違います!私は……私は……」
再度言いよどみ、うつむく少女。ダメだ、また私は彼女が話を始めるのを待ってしまっている。いやこのやりとりも決して苦というわけではないが、生憎私たちには時間が限られている。時計を見ると、そろそろ十三時。二度目の投与をしなければならない時間でもある。私たちに残された時間はあと六時間しかないということになる。いや、帰路の時間も含めればあと三時間程度だ。
時間はない。決して無駄にしてはいけない。きっと私は今回の一件で首が飛ぶ。二度とヴィーシャには会えないかもしれない。この薬の研究が進み、生産量が増え、彼女はそれこそ自由に外に出られるようになったかもしれない。それまで我慢すれば私はこんな時間に追われることは無かったのかもしれない。
けど、私は、この薬を見てからというものの、不合理で愚蒙な狂想に駆られてしまったのだ。
彼女を檻から救わねばならないという、妄執に。
彼女に美しい世界を教えねばならないという、憐憫に。
きっと後悔はない。私がクビになろうと、きっとまた誰かが彼女を救う役割を果たしてくれる。いや必ず彼女は救われる。
であれば私は、ヴィーシャの隣にいる人間などではなく、
「ヴィーシャ」
「え?」
ヴィーシャを救う装置で構わない。
先ほどの公園から徒歩で数分。かなりギリギリにはなったが、目的地には到達できた。この薬を投与するのはできるだけ安全なところが良いと思っていたからだ。
「ここは……少し研究所に似ていますね」
「この施設は私個人が属する研究所です。さ、ヴィーシャ。こっちだよ」
彼女の手を引き、私個人の研究室に連れて行く。今日は休日故に、研究所に研究員たちはいない。
研究室の中の白い椅子に、ヴィーシャを座らせ、投与の準備をする。思えば危険な賭けだった。彼女にこの薬に対する抗体が少しでもできていたら、私はどうするつもりだったのだろうか。アラドカルガの仕事を信頼していた、と言えば聞こえはいいが、単に無策だっただけだ。
「先生の研究室、綺麗ですね」
「何もないだけさ」
彼女のカーディガン(外出用に私があつらえたものだが)の裾をめくって、白い陶器のような腕に薬を打つ。痛みは殆どないはずだが、少女は少し右目を瞑る。
「はい、お疲れ様。じゃあ先ほど食べ損ねた昼食にするとしようか」
「あ、あのっ……!」
注射器を机に置き、食事の用意をしようと立ち上がった私の背中を、ヴィーシャは呼び止めた。
「どうかしたかい?」
彼女は少しだけ俯いて、しかしそれは先ほど公園で見せたような悲しい姿ではなく、頬を赤く染めながら、体を揺らしている姿はさながら、恋文を出す前の女学生のようで
「わっ私、ガルブツィーが食べたいな」
どうやら彼女の差し出した恋文は、料理の注文だったようだ。
一三時〇五分
「今から行けば、近くの町まで最低何時間かかる?」
研究所から出る準備をしながら、近くにいた研究員に話しかける。
「早ければ二時間強といったところでしょうか……しかしストラヴィンスキー施設長が、あの街のどこにいるのやら……そもそもあの街にいるのかさえ……」
「なるほど、大体一五、一六時頃には到着する予定か。彼が薬を投与したのは七時ごろ。二つの薬を使い切るのを想定しているのだとすれば、約半日猶予があることになる。十分間に合うさ」
周りの研究者たちはかなり大慌ての様子で、中にはこの世の終わりだと言わんばかりに、顔面蒼白、目は死んだ魚のようなものたちさえいた。
「しかし、それは探す時間を考慮しない場合で……」
「いや、もう彼の居場所は確認した」
「えっ?」
まあ、驚くのも無理はない。我々アラドカルガのことは知っていても、その能力までは知らされている者は殆どいない。
私と二人の研究者が共に車に乗りこむ。先ほどの話が正しければ、一六時頃には到着する。街での猶予時間はおおよそ三十分程度だろう。彼らの位置は既に発見しており、そこは都市の中心にある自然保護区のような場所の中央の広場だった。衛星からの映像を少しだけ「覗き」、彼らを今も監視し続けている。
普段はこうした強硬手段を取ることはない。これはあくまで最終手段。常に対象をこういう風に監視しているわけではない。しかしこの衛星映像のハッキングも、それほど完璧なものとはいえない。あくまで数分に一度撮影される写真から、ヴィーシャたちの姿を探しているだけなので、彼らが再び行動を開始すれば、またその検索作業を再開することになる。
(っ……!動きだした)
更新された監視していた座標の写真には、二人の姿は無かった。近隣の地図を片端から調べるが、二人は見つからない。先ほどの写真は十分前のもの。その時間で行ける範囲なんて大した距離ではないはず。しかし公園は森林で鬱蒼としており、衛星からでは木々の下の様子までは判断することはできない。念のため、公園近辺の監視カメラなども調べるが、どうやらいずれも、森林内部の全容を理解できるほどのものではなかった。
「君たち、ストラヴィンスキーの行きそうな場所に候補はないか?」
「えっと、先ほど言った彼個人の研究所は、その街にありますが……まさか」
「ああそのまさかだ。見失ったよ」
少しは顔に血の気が戻っていた研究者たちの顔が、再びカニンガム女史にすら負けないほど真っ白になっていた。
一六時〇三分。
近隣の都市に到着し、我々はカニンガム・ストラヴィンスキー二人組の捜索を開始する。衛星からの情報や、街中の監視カメラ、それに加えて個人の持つ携帯端末のカメラなどから捜索を続けているが、相変わらず見つからない。もとよりそれほど栄えている街というわけでもなく、人口も多い訳ではない。ある意味では、我々アラドカルガが一般人とそれほど変わりない能力しか持てなくなる場所と言える。
しかし研究員の話を聞く限り、彼らの行く先がストラヴィンスキーの研究室である可能性は高いだろう。まずは研究室へと歩みを進めようとしたその時、私の脳内にけたたましいほどの警報が鳴り響く。私の母国ではそれなりに聞きなれた警報だが、しかし間違いなくこれが示唆するものは、破壊的な自然の猛威の前触れである。
他の研究員たちに注意する間もなく、雪に覆われた大地が唸り声をあげた。