スタシェルシュヴァイン 第一節
「ヤマアラシのジレンマ、って知っていますか?」
純白に穢れた壁が四方を囲い、世界を闇で塗りつぶすような光が降り注ぐ。その不浄なる空間の中心にいた少女が紡いだ言葉。その言葉は空気を伝い、私に届いたものではない。耳障りな機械音を発し続ける、古ぼけたスピーカー越しであった。
『ああ、知っているよ。詳しくはないけどね。よくそんな昔の哲学者の言葉を知っているね』
私は机に置かれたマイクに口を近づけ、囁くように彼女に返事をする。その小部屋の中、唯一美しいと形容できるのは、あの少女だけだった。自身が発する言葉が、そんな美しいモノを汚してしまうのではないかとさえ思えた。
「けど、詳しくは知らないのですね。どこまで知っていますか?」
ベッドの上に横たわるその少女は、その美しく輝く白い体を動かすことはなく、私に問いかける。
「えっと、ああそうだ。ヤマアラシは、互いに仲良くなろうとしても、温めあおうにも、その針で友を傷つけてしまう。そんなジレンマだったか」
私の答えを聞くなり、やっぱり、と小さく声を出す少女。
「あれには、本当は続きがあるんですよ?ヤマアラシは決してその後、孤独に過ごすわけではありません。その後、ぬくもりを感じ、かつ互いを傷つけない。そんな最適な距離感を見つけ出すんです」
体は動かさず、首だけをこちらに向ける。ガラス越しに目が合い、私の頬が熱を帯びる。
いや、体はそもそも、ベッドに縛り付けられて動けないだけだ。動かせるのは頭だけだ。
「……そうか、そういうお話だったんだね。なんだ、綺麗なお話じゃないか」
マイクの方に再び顔を寄せる。本当はそこまで顔を近づけずとも、彼女に言葉は届く。だが、向けられる視線に耐えきれず、熱が暴走しそうになったため、たまらず顔をそむけたくなった、その口実が欲しかっただけだ。
視線は外したが、彼女の様子がうかがえないわけではない。マイクや他の機器の近くには、彼女の様子を三六〇度、あらゆる角度から撮影したカメラから送られる映像を映すモニターが存在するのだ。彼女もまた、私の方に首を向けるのを止め、再度無色の天井を眺め直す。
「ねえ、先生?」
「なんだい、ヴィーシャ」
私と彼女を取り巻く異常に反し、そこにあったのは本当に他愛のない会話だった。
まるでそう、どこにでもいる恋人同士のやり取りのように。
「私たちも、互いに傷つかない、そんな距離を見つけられると良いですね……」
諦観を含んだような、今にも糸が切れそうな、か弱い声だった。
降り立った大地は白に染まっていた。
飛行機と電車を乗り継いで、朝方に小さな都市に到着した。しかしそこで休むということもなく、すぐに車に乗り換え更に数時間、疲れに疲れ切った身に、轟轟と吹き荒れる吹雪が追い打ちをかける。まるで目の前にカーテンがあるかのように、視界は白に閉ざされ、自分がどこへ向かって歩いているのかさえ理解できなかった。
生命維持に耐えうる体温を失うかのような寒さであったため、”自分で発熱”できない案内人たちは、その職務を放棄して家路についてしまった。
勿論彼らを止める権利など私には存在しない。殉教しろ、などと言うつもりもさらさらない。とはいえこの極寒の中では、今頃彼らが温かい家で温かいコーヒーでも飲んでいるのではないかなどと、嫉妬に身を焦がさざるを得なかった。
暴風に逆らい歩みを少しずつ進める。私の数少ない熱血は、これ以上は命に支障が出ると唸りを上げ続けるが、我が身を形成する鉄の体は、”何の問題もない”と、吹雪にも負けず劣らず冷徹に、その訴えを棄却する。
ある時はかつての仲間を恨み、またある時には吹雪を呪う。そんな不毛なやりとりを続けること更に二時間。もう既に時刻は十六時を回ろうかという時に、ようやく視界に白以外の色が映り込む。
その色へと向かうにつれ、徐々に白の景色は黒へと染まっていき、やがて要塞の如き全容があらわになった。それは医療施設とは思えぬような鉄の城であり、その入り口もまた、重厚で頑強な鉄壁であった。
「帰りもこうだと考えると、嫌になるな……」
目的地に到着したことへの安堵と、同じ道程を再び歩むことになることの恐怖を綯い交ぜにしながら、私は城門の側に備えられていた端末を操作する。すると端末からはノイズのような音と、人間の声が聞こえてきた。
「誰だね」
機械ごしでもわかるような、まるで来訪者そのものを良く思っていないかのような声色。そちらから呼んでおいて、あんまりな態度ではないか、と内心思ってしまったためか
「アラドカルガから来た、リューベックだが……」
と、私も少し冷たい態度で挨拶を済ませる。すると通話先の相手は短く、え?と声を上げ
「なっ、アラドカルガの!?申し訳ありません!!え、本当に!?」
と狼狽えながら、物腰を改め始める。
もしや、私は何か約束の日程を間違えていたのだろうか。時間は確かにとっくに過ぎているが、それでも吹雪の多い地域なので、数時間の遅刻は許容範囲だと事前に伺っていたはずだ。相手の様子を鑑みるに、私の来訪は何やら想定外の事態であったのだろうか。
「その、すみません。確か車で来る予定では?」
「ええ、途中まではそうだったんだが、この吹雪で車が止まってしまって」
「え、じゃあ徒歩で!?」
「ええ、まぁ」
通話の相手は未だ狼狽を続け、相槌を打ち続けている。私としてはさっさと中に入れてほしいのだが、施設が施設だけに、こういう部分はしっかりと確認を取らなければいけないのも重々承知はしていたが、
「すまないが、事情の説明なら後で何度でもする。兎に角この門を開けてくれないか。寒くて死にそうだ」
死にはしないが、いずれにせよ寒さで心が参ってるのは確かであった。
「いえ、そうしてさしあげたいのは山々なんですが……」
「私がアラドカルガであるか疑っているのか」
煮え切らない態度を続ける相手を、少し強めの口調で責めたてる。なんならもう、相手に許可を取らず、勝手にセキュリティロックを解除してやろうかと思ってさえいた。
「実はその、その扉壊れていて……今開かないんです……」
「……は?」
後からわかったことであるが、その情報は私の案内をしていた男のみしか知らず、あろうことか別れた時に本当の入り口が、そこから更に二キロ以上離れた場所に位置していることを、私に伝え損ねていたのだった。
一通りのIDチェックや、病原体の検査が済み、簡単な白衣に着替えさせられる。外から見た時は軍事施設か何かのように見えたが、幸いここはまっとうな医療機関であった。黒鉄の要塞の如き外見とは裏腹に、その施設内部は、その壁面も機材も一様に白で統一されていた。
「このたびは大変申し訳ありませんでした」
何度と謝罪を繰り返されながら、私と施設長のアルセーニー・ストラヴィンスキーは、白一色の廊下を並んで歩いていた。ストラヴィンスキーは、施設長を任されるには若そうで、また態度からも気の弱そうな部分が垣間見えた。
「構いませんよ。予定外のことをしたのは私だ」
落ち込んだように顔は床をむき続けていたため、その長くてくるくると巻いた金髪は未だに彼の顔を隠し続けていた。私が何度か話しかけるたびに、髪の隙間からこちらの様子を伺うが、すぐにまた目を離してしまう。
「君たちには責任はないんだから気にしなくていい。強いて悪いと言うなら、この吹雪だけだ」
冗談交じりに彼にねぎらいの言葉をかけるが、やはりビクともしない。
うむ、困った。
「ところで、件のメレトネテル女性の部屋はあとどれくらいで着くんだ?」
話題を転換しようと、仕事の話を戻す。ストラヴィンスキーもまた、その言葉に意識を切り替えたかのように、顔を上げる。
「はい、あともう少しですよ。あとはあの直通のエレベーターに乗るだけです」
エレベーターにはボタンは二つしかなく、一つは今我々がいる地上階、そしてもう一つは地下五十階行きのものであった。エレベーターはどんどん地下深くに潜って行く。その深さのあまり、音声通信もろくにできなくなるほど、衛星からの通信が微弱になっていた。
本件のメレトネテル、ヴィッサリア・カニンガムは、八坂アカリとは別のベクトルで、大きな特異性を抱いていた。八坂は長命なことを除けば普通の女性で、日常生活を送ることも許可されたが、カニンガム女史に、それは叶わない。その特性ゆえに厳重に世界から切り離す必要があったのだ。
彼女は未知のウィルスを生まれた時から発生させていた。
詳細は省くが、つまり、彼女に触れれば死ぬ。
彼女が吐いた息を吸っても死ぬ。
彼女の揮発した汗に触れても死ぬ。
生まれながらにヴィッサリア・カニンガムは、誰とも触れられず、誰とも生身で会うことのできない呪いを背負っている。
この施設は、彼女のために作られ、職員は彼女のために雇われている。雇い主は勿論我々アラドカルガだ。
呼び鈴を鳴らしたかのような音が鳴り、エレベーターの扉が開く。エレベーター内は少し薄暗かったこともあって、突然現れた光の空間に目を覆う。
「到着しました。さ、こちらへ」
ストラヴィンスキーの手引きのまま、私は彼の後ろをついて行く。彼は先ほどの様子とは打って変わって活力にあふれた歩みをしていた。先のやり取りで、気を入れ替えたのだと思っていたが、どこかその考えには違和感があった。
というのも彼は、取り繕った真面目な表情というよりは、年相応の明るく、朗らかな顔をしていたからだ。その眼は床などに向かず、遥か前方にある扉を見ていた。いや、それすらも彼の視線の先ではなさそうだ。
扉のコンソールを操り、何重にもかけられたセキュリティロックを解除していく。そのロックはアラドカルガである私でさえも、解除に数十分は要するだろう。
ロックの外れる音が五回ほど鳴り、その後空気の抜けるような音と共に、鉄の扉は開いた。
そこに現れた空間は暗く、ほのかに端末などの明かりが照らしているだけだった。ストラヴィンスキーは慣れた手つきで装置を起動していき、部屋に明かりが灯る。最後に端末が複雑に積まれた机が接している壁面のスイッチを押すと、その黒い壁は透明なガラスへと変貌していた。
ガラスの向こうにいたのはベッドに横たわる一人の少女。瞬間、私の目はその子へと奪われていた。
この美しさを形容する言葉はない。
この少女を表現できる言葉はない。
まるで一度も汚されたことの無いような白い肌、月光を発しているかのように輝く銀髪。
デザインドは、そのシステム上、美男美女になることは多い。人によっては両親の遺伝子から生まれてくるであろう子供に、出来る限り近づけようと頼む場合もあるが、生まれてくる子には美人であってほしいと願うのは、別に不自然ではない。
仕事柄、美しい人々によく会いはした。しかし、これほどの感動を受けたのは、お世辞抜きで初めての経験だった。
不意に肩が叩かれて、我を取り戻す。ストラヴィンスキーはその後、席について机の上のマイクを起動する。
「おはよう、ヴィーシャ」
「おはようございます、先生」
親しげにカニンガムの愛称で呼ぶストラヴィンスキー。今なら彼の視線の先が何であったか分かった気がした。
「今日はお客さんもいるよ。アラドカルガのお偉いさんなんだ」
そういって、私に目を配る。マイクから離れ、私にどうぞ、と言わんばかりに手をやる。ストラヴィンスキーの座っていた席に腰かけ、軽く咳ばらいをしてから話し始める。
「こんにちは。紹介に預かったアラドカルガのリューベックだ」
新参者の登場に戸惑っているのか、彼女からの返事はない。
「ヴィーシャ、挨拶を返さないのは失礼だよ」
ストラヴィンスキーは立ったまま、顔だけをマイクに寄せて言葉をかける。その言葉に応じるように、少女は私の方へと顔を向ける。
「……初めまして……。あの……すみません……」
囁くようにして答えるが、その後すぐに白い肌を赤く染め、目をそらす。かなり恥ずかしがり屋なのか、その後は顔を合わせてくれなかった。
普段なら、そんな様子は人によっては嫌な印象を受けるものだが、彼女に関しては好感度が上がるだけだった。彼女のすることなら、何でも許してしまいそうだ。
そしてその逆に、彼女のためなら何でもできそうだった。
「申し訳ない。ヴィーシャがこんなに人見知りだったとは。思えば私の時も、最初はこうだったかもしれません」
マイクから顔を話して、カニンガムの方を穏やかな瞳で見つめていたストラヴィンスキー。恐らくこれ以上は私と会話してくれないだろうと、ストラヴィンスキーに席を譲ろうと立ち上がる。そして持ってきていたアタッシュケースから、一本の注射器を取り出した。
「これが話に聞いていた薬剤ですか?」
「ああ、効果があるかどうか、それはわからないが、試してみる価値はあると思う」
その注射器をストラヴィンスキーに手渡し、その薬剤についての説明を続ける。
「彼女のウィルスに対しては、どんなワクチンも無意味だった。多分まだまだ研究は続くと思う。だが感染源である彼女からウィルスを発生させない、という研究方針で完成したのがこのバイアルの薬だ」
私の説明を受けながら、注射器をまじまじと見つめているストラヴィンスキー。それは研究者としての好奇心ゆえか、それとも……
「それを作った奴曰く、仮に効けば数時間はウィルスを発生させずにいられるらしいが……」
「す、数時間!?そんなにですか!?」
彼は私の言葉に目を見開いて驚愕していた。私自身は研究者とは程遠いので、これの効力がどれだけ凄いのかは理解できなかったのだが、彼の反応を見るに、相当出来のいいものらしい。
「では、早速投与を……と。折角ですからリューベック様もご一緒しますか?」
「いや、私が入って彼女を緊張させても申し訳ないからね。慣れているあなた一人でやったほうがいい」
そう言って、私はその部屋を後にした。先ほどのはどちらかというと建前で、本音としてはこれ以上彼女の姿を見ていられなかった。美しさに目が潰れそうだとか、そういう意味ではない。いや、それもあるかもしれないが。
憎たらしくて仕方なかったのだ。
カニンガムが私との会話を拒否したこと?違う。
親しげにストラヴィンスキーが話していたこと?違う
美しく輝く少女を、醜く縛り付け閉じ込めている、あの空間そのものが、憎くて仕方なかった。