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人造のアーダム  作者: 猫一世
セラギネラ
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セラギネラ 最終節

 国道から外れた山林の中、鬱蒼とした木々を抜けた先の小さく開けた場所で、俺とエルは手を合わせて、小さな砂山に向き合っていた。

「悪いな、ふゆ。こんな寂しいところに置いていくことになってしまって。必ずいつか連れて帰るからな」

 本当はこのまま連れて行きたかったが、生憎今の俺たちには動物専用の葬儀を行う余裕はなかった。いつこの逃避行が終わるともわからなかった。

「ねぇ、堅洋。この後はどうするの?」

「わからん」

 逃げ続ける、その道程でどんなことが起きるのか、どこまで行くのか、いつまでこの生活を続けるのか、眼を背け続けてきた当たり前の問題が、ふゆの死をきっかけとして俺の前に立ちはだかる。

 考えられない。胸を抉り穿つ悲しみの杭は、俺から思考を奪い去る。




 山を下りながら車を停泊させた国道沿いの寂れた喫茶店へと戻る最中、俺とエルは一言も言葉を交わさなかった。ふゆの死は非常に自然なモノだ。目立った外傷もなく、天寿を全うしたと言って申し分ないだろう。逃避行とは無関係の筈、だがもし俺がエルと出会わなければ、とどうしても考えてしまう。もう少しふゆは長生きできたのではないかと。

「堅洋、止まれ」

 俯きながら歩いている俺の肩を、後ろからついてきていたエルが掴む。

「どうしたんだ、エル」

「奴らがいる。この先に」

 ぼやけていた思考が、その言葉で一気に覚める。

「まさか、どうやって俺たちの場所がわかったんだ!」

 エルは目を瞑り、何かに意識を集中させている。

「車の近くに二人いる」

「たった、二人か?」

 思ったより数が少ない。それこそあの夜の襲撃から考えれば非常に手薄だ。 

「もしかして、俺たちを見つけたわけじゃないのか?」

 手分けして捜索している黒服たちがたまたま俺たちの車の近くに立ち寄っただけではないか。

「そうかもしれない。けど……」

 エルは未だ警戒を解かない。俺とは違い、あの組織の恐ろしさを知っているがゆえだろう。

「わかったよ。じゃあ少し待ってから……」

 様子を伺った後に、車へと戻ろうと提案しようとした、その時だった。エルは突然顔をあげ、目を見開く。

「マズイ!堅洋、あの二人がこっちに来る!!」

「な、なんで!!」

「わからない、けど凄い速さ、これじゃ」

 突風が髪を激しく揺らす。舞い散った砂塵に、思わず腕で顔を守る。視界が閉ざされたのは、ほんの一瞬。しかし改めて目を開くと、そこにはいつのまにか男と女の二人が立っていた。

「お初にお目にかかる。私はテリピヌ、イルルヤンカシュの者だ」

「私はアリヤと申します。お見知りおきを」

 二人は丁寧に挨拶をするが、隣のエルは警戒を強めるばかりだ。

「殺す」

 エルが今にも飛び出しそうだったが、男の方が両手を掲げるのを見て、立ち止まった。

「まあ待て。私たちは君と闘いに来たわけではない。交渉に来たんだ」

「交渉だと?」

 エルの燃え滾る殺意は収まらない。それどころかその男の言葉は鞴のように、エルの炎をたきつける。

「ああ、交渉だ。ケンヨウ君。君は先日、愛犬を亡くしたね?」

 そうやってニヤリと頬を邪悪に歪めるテリピヌ。その顔は今まで冷静であったはずの俺の胸に不快な煮えを覚えた。

「それが一体何の関係が」

「蘇らせてやる」

「は」

 口から飛び出しかけた怒りの声は、テリピヌのその一言で蓋をされる。

「そんなことできるわけがない」

 命を蘇らすなど、そんなこと常識じゃあり得ない。こんな言葉は交渉になるわけがない。

「驚いたね。イェリコと長く過ごしていたにも関わらず、君はまだ常識などという、つまらない物差しを持ち出すのかね」

 そう、三か月前の俺なら、間違いなくそんあ荒唐無稽を信じない。

 だが、今は違う。そんなあり得もしない話を、ひょっとすると、と思えてしまう荒唐無稽がずっと隣にいる中で暮らしていた。

「君も目にしただろう。イェリコの力。無機物を有機物に変え、廃棄物をエネルギーに変える。まさに彼女こそ、あり得ないことを可能にする万能の存在だよ」

「つまり、エルが……」

「ほう、君は彼女をエルと呼ぶのか。良い名前じゃないか。ああ、話を戻そう。イェリコ、彼女を我々に譲ってくれれば、命を蘇らせる技術を開発することも可能だ」

 つまりエルを引き換えに、ふゆを蘇らせる。交渉内容は明らかになったものの、それは未だこちらに不利なものと言わざるを得ない。

 そもそもそんなことができる確証はないし、こいつらが約束を守る保証もない。

 当然断るべきだ。


 しかし

 

 しかし、俺は、そのもしもに縋りたくなるほどに、心が衰弱しきっていた。

 またふゆと、一緒に。


 瞼を閉じる。過去を振り返ればその記憶の中の殆どにふゆがいた。食事をするとき、街を歩くとき、寝るとき、テレビを見ているとき。両親を失った後も、ふゆとは寝食を共にした。

 エルとは僅か三か月、その程度の付き合いだ。

 もし、ふゆとこれからも過ごせるなら、俺は、俺は。


「断る」

 最後に過った記憶は、エルが流す涙。共にふゆとの別れを惜しんでくれた彼女の姿。

「ほう。意外な方の答えを出したね」

 テリピヌはさほど動じない。予測通りではあったが、本命の答えではなかったといった程度だろう。その余裕に、思わず消えかかっていた怒りに火が灯る。

「では力づくでいこう」

 その声が俺の鼓膜に届くとほぼ同時に、テリピヌとアリヤの姿が消える。消えたことを認識したと同時に、俺の目の前にエルとアリヤ、そしてテリピヌの三人が組み合っていた。

「堅洋、逃げて!!」

 アリヤの持っていた刃物をエルは左手で握り、そしていつの間にか俺の首元まで伸びていたテリピヌの左腕を、エルは右手で受け止めている。

 この一瞬、認識すらできなかったほどの刹那に行われた攻防を、俺は一つたりとも理解することができなかった。

「しかし、エルを置いて」

「いいから!!」

 エルを守ると言っておきながら一人だけおめおめと逃げるわけにはいかない。ほんの数秒前までは確かに持っていた筈のその信念は、今の一瞬で見事に瓦解した。

「ごめん、ごめんエル」

 あの戦いの渦中に俺がいるのは、足手まといという他ない。恐らく俺は殺されたことも気付けないほどあっさりと殺されるに違いない。いやそれならばまだマシだ。彼らは間違いなく俺を人質に使う。そうすれば命が危ういのはエルの方だ。逃げること、それが間違いなくエルの役に立つ最善の……。


 なんと情けない。この状況に何度も言い訳をする自分が、どれほどみすぼらしい姿なのか、想像するだけで腹が立ってくる。




 堅洋が立ち去るのを確認し、私は目の前の二人に意識を集中させた。

 二人とも力は強い。だが私の敵ではないのは、この組み合いですんなりと理解できた。

「殺されたくなければ、私の言うことを聞け」

「おおー、怖いね。確かにこの力、想像以上だ。私では相手になりそうもないな」

 テリピヌと名乗った男の言葉を合図とするかのように、アリヤがもう一本の刃物を取り出し、それをテリピヌの拳を握る、私の右手首に振り下ろしてきた。

 躱す必要はない。というのも既に私が左手で握りしめる一本目の刃の切れ味は、私の硬化した肌を切り裂くことはできない。

 だがその予想に反し、そのナイフは私の腕を見事に両断した。

「な」

 即座に腕は再生したものの、テリピヌは結果として逃がすことになった。

 ダメージとしては大したことはないが、驚くべきはその切れ味が明らかに変動したことだ。

「アリヤ、武器の無制限使用を許可する」

「承知しました。テリピヌ様」

 武器を使う、と言いながらアリヤはナイフを地面に置く。彼らの言う武器は、また別のものらしい。

「対アラドカルガ兵装、生体兵器、ウルリクムミ、展開」

 その掛け声と共に、ナイフから黒い粘り気のある液体が溢れだし、アリヤの身体に纏わりつく。

 直感で、この準備は止めるべきだと理解した。だが体を動かそうとしたとき、巨大な岩が飛来してきて、咄嗟に回避せざるをえなかった。テリピヌの投げつけた岩は、一瞬とはいえ私のアリヤへの注目が途絶えさせた。

 いない。

 あの蠢く黒い物体と共に消えていた。視界からだけではない。熱源による探知も、生体電流も感じ取れない。完全に消えたのだ。

 あたりを見渡していると、突如背中に強い衝撃を受ける。完全に認識外の外の攻撃ではあったが、その衝撃を生み出したモノに、長く伸ばした右腕を巻き付け、拘束する。

 足を地面に突き刺し、ブレーキをかけつつ、後ろを振り返ると、そこには先ほどの黒い液体で全身を包んだアリヤと思わしき存在がいた。

「私に勝てると思っているの?」

 今の攻防で、彼女の力は理解した。この黒い液体は、言うなれば人工の筋肉のようなもの。性質は私によく似ていて、何度も体細胞の再生と分裂を繰り返し、その筋肉量と硬度を理論上無限に拡大し続ける。だが、はっきり言って、私の敵じゃない。再生速度も質量も応用力も私の比ではないのだ。

 私の問いにアリヤは何も答えない。

 彼女は身体を深く沈め、まるで獣のような構えをとる。四肢の筋肉が膨れ上がり、黒い砲弾となって跳ねる。算出されるエネルギーの大きさを考慮すると、通常の人間であれば粉々に砕け散るだろう。

 だが

「弱い」

 これを受け止めるのに両腕を使う必要すらなく、左腕一本で容易く止められた。振るわれた丸太のように太い黒い右腕を掴んだまま、彼女を振り回す。時には樹木をなぎ倒し、時には地面に叩きつけた後、右腕を形状変化させ、刃渡り一メートルほどの剣に変え、勢いよく突き刺す。

 しかしアリヤもまた体の形を変化させる。全身に纏っていた黒い液体を、私が突き刺そうとした胸へと集中させ、剣を受け止める。厚く重なって生まれた漆黒の壁は、私の剣を受け止めるには十分な硬度を誇っていた。

 だがそれ以外の部分の守りは当然薄くなる。全身の守りを放棄した今の彼女は、まさに隙だらけだった。

 左手を形状変化、五本の指をそれぞれ長く伸ばし、黒い壁の横から彼女の脇腹へと突き刺す。指は彼女の肉体を貫通し、鮮血と共に、アリヤの身体は大きく宙を舞った。

 このまま殺しきれる。

 恐らく心臓や重要な内臓器官をズタズタに切り裂いているはずだが、こいつらは体の中にあるナノマシンで、常人では即死の傷も、ある程度は耐えられるようになっている。だから彼女の命を途絶えさせるにはもう一手必要になる。

 だが私はここで攻撃の手をあえて止め、指を引き抜く。彼女の身体は重力に従って地面に叩きつけられる。そしてそれと同時に、私は背中から二本の棘を勢いよく生やした。

 それはアリヤを狙ったものではない。背後から近づいてきた愚か者への罰である。

「おや、やっぱバレてたか」

 振り返ると、そこには体に空いた大穴を抑え、蹲るテリピヌがいた。

 二人とも、殺そうと思えば殺せたが、あえて生かしているのは理由がある。

「お前たち、私の力を使えば、ふゆを蘇らせられると言ったな」

 テリピヌの傷口は、少しづつ修復を始め、そしてアリヤは黒い液体が傷口を覆っていた。彼らがウルリクムミと呼んでいたあの黒い液体は、人体の修復能力を持つらしい。

「ああ、言ったな」

 テリピヌは失血のためかよろめきながらも、ゆらりと立ち上がる。

「死にたくなければ、私にその方法を教えろ」

 テリピヌは、私の言葉に対し、片方の口角だけ吊り上げて、邪悪に笑みを浮かべる。

「そんな方法、あるわけないじゃないか」

「は」

 まさか、じゃあこいつらはあんな虚言で、堅洋を期待させ、堅洋を苦悩させ、そして堅洋を傷つけたのか。

 許せない。

 もはや取引など必要ないのだから、一瞬でこの世から消し去る。

 もうこいつらの顔すら見たくない。

 青白い光が指先から迸る。あの時、私が鉄檻から逃げ出す切欠を生み出した破壊の灼熱。

「おいおい、取引はむしろこっからだぞ、イェリコ。まさか未だに俺たちの目的が真正面から君を倒すことと思っているのかね。私たちの目的は最初からケンヨウ君だよ」

「馬鹿を言うな。堅洋の状況は今も把握している。堅洋の周りには人間はいないぞ」

 彼らと戦っている間も、全く堅洋から集中を外すことはなかった。人間が近づけばすぐに感知できるし、そもそも堅洋を逃がしたのは近くに、彼らの仲間がいないことを確認できていたからだ。

「はぁ、まだ気づかないかね。君、アリヤはご自慢のレーダーで感知できたかね?」

「は、それで目を逸らすと思ったのか。きちんとアリヤがここにいるのは今も確認できている。堅洋を追いかけようとすればすぐにでも……」

「だから、君はウルリクムミをレーダーで探知できるのかね?」

 力の解放を思わず止めてしまう。失念していた。最初の一撃で、このウルリクムミという兵器の強さを理解し、そしてそれへの警戒を僅かに緩めてしまった。だが本当に警戒すべきは、超再生能力でも怪力でもなかった。

 先ほどまで全く動いていなかった堅洋が、人間の移動速度を遥かに超えて、こちらへと近づいてくる。そしてアリヤの近くで制止、堅洋はアリヤの纏う黒い液体と同じもので覆われ、拘束されていた。

「彼を離せ!!」

 堅洋は口元まで粘液で覆われ、声を上げられないようだが確かにまだ意識はあるようで、拘束が緩いためか体を揺らしている。

「さぁ、わかるだろう。これが、ここからが本当の取引だ」

 選択肢は二つ。

 堅洋か、私か。

「ねえ、私があなた達についていったら堅洋が助かる保証はあるの?」

 迷う余地はない。選ぶべきは堅洋の命だ。

 しかし、彼らは既に一度約束を反故にした。容易に信用することはできない。

「まあ、信頼ならんだろうな。だがどちらにせよ君は選ばないといけない」

 天秤にかけられた二つの命、しかしその天秤は全く正確なものではない。だがその不公平に今は目を瞑るしかない。私の足りない頭脳では、それ以外に堅洋を助ける術が思いつかないのだ。

 ふと堅洋の方を見る。目だけが外界に解放されており、彼もまたこちらを見返してくれる。顔のわずか一部しか見えないのにも関わらず、彼がどんな表情をしているかは、その穏やかな瞳から伝わってきた。

 だが私を落ち着けるかのような視線にも関わらず、私は言い知れぬ不安に煽られた。

 するとグッと強く瞼を閉じたかと思うと、再び目を開く。先ほどと同じ穏やかな目にも関わらず、どこかそこに宿る光は弱弱しかった。

 ポタリ。

 黒い粘液の隙間から僅かに漏れ出す赤い液体。

「テリピヌ様、まずいことになりました」

「アリヤ、どうしたんだ」

 一滴、二滴、少しづつ滴り落ちる液体の量は増え、地面には赤色の水溜り。

 アリヤがウルリクムミを堅洋から少しづつ引きはがす。地面に体を預けた堅洋の鳩尾から生えているナニか。そこからドクドクと湧き上がる赤い鮮血が、堅洋の身体を濡らしている。

 それは見たことがある。堅洋がいつの日か、自己防衛のためだと、持ち歩くようになったナイフ。

 少しづつ擦り減る、堅洋の命。

 少しづつ陰っていく、堅洋の光。

 そのナイフは、彼の身体を動かす心にまで突き刺さっていて。

 そして、その灯火は、今。


「あああああああああああああああああああああああああああああ」

 この声は怒り。

 理不尽に私たちの平穏を奪ったイルルヤンカシュへの。

 私がすべき選択を奪った堅洋への。

 そしてなにより、誰も救えなかった私への。


 アリヤは自分の身体に二つのウルリクムミを纏う。だがもう遅い。何もかも無駄だ。

 殺すと決めたからには、お前たちはここで死ぬ。

 迸る光の奔流、それはより一層巨大な肉体を形成したアリヤを、ウルリクムミごと消し去った。

 テリピヌはそれを見て、この場を離脱しよとするが、勿論逃がさない。肉体より生み出した千を超える弾丸。音を超えてテリピヌへと襲い掛かり、彼の身体は一瞬で細切れの肉片へと変貌した。




「堅洋、堅洋……」

 堅洋の身体に寄り添い、体を何度も揺すり、呼び掛ける。

 声は返ってこない。生命に必要な酸素と血液は、既に循環していない。

 彼は死んでいる。

「うう……」

 涙と共に、自分の身体も液状化していた。もう私が人の姿である理由は亡くなった。

 堅洋の赤い血に、私の身体を組織していた細胞が流れ出す。二人の身体が混ざり合う。

 その光景は、どこかで見覚えがあった。

 忌々しいが、体に風穴の空いたアリヤが、それにウルリクムミを流し込み、修復する姿に似ていて……

「まさか」

 閃いた一つの可能性。

 もしかしたら、ひょっとすると。

 いや、できると信じるんだ。

 

 身体に穿たれた隙間に、流れ込む私の身体。

 

 彼の肺の代わりに、私が体に酸素を届けよう。

 彼の心臓の代わりに、私が体に血液を流そう。


 命よ蘇れ。



 

 微睡の中、俺を呼ぶ声が何度も聞こえる。霞か、靄か、視界を覆うそれの向こうに、人影が見える。

「戻ってきて」

 その声は、前も後ろもわからない灰色の空間に、一筋の光として、俺が歩むべき道を照らしていた。

 ゆらり、ゆらりと光路を歩む。

 暖かい。

「堅洋、一緒に」

 ああ、一緒に、暮らそう。これからも、今までと同じように。




 目を開けると、白い天井。

「おい、目を覚ましたぞ」

 白衣を着た壮年の男性が、俺の顔を覗き込んでいる。彼の声に呼び寄せられるように、いくつもの足音が聞こえる。

「堅洋!!」

 右手から伝わる気持ちのいい熱。その先には俺の手をぎゅっと握りしめ、瞳に涙を思い浮かべるエルがいた。どうにも記憶が判然としない。どうして俺はここで、色々な人に囲まれているのだろう。

「俺は、一体」

「驚くべきことだが、君の命を、彼女が救ったんだよ」

 白衣の人々の中、一人だけ黒いスーツに身を包んだ男が、俺に話しかける。

 命を救った?

 その言葉で、俺が覚えている最後の記憶が蘇る。

 そうだ、人質にとられて、エルを守るために、自ら命を絶った。

 じゃあ、俺はなぜ生きてるんだ?まさかエルが俺を蘇らせたというのか。

「はは」

 つくづく非常識だ。蘇るなどという経験をしたのは、それこそ著名な救世主様くらいなものだろう。

「ありがとうな、エル」

 感謝を伝えても、エルの表情は僅かに曇ったままで、笑顔を見せてくれない。

「ごめん、ごめんね」

 どうして謝るんだ。エルは俺の命を救ってくれたというのに。

「貴方を助けられたから、きっと助けられるって、思って……」

 身体を少し起こすと、エルの膝の上には、埋葬したはずのふゆが眠っているかのような、安らかな表情をしていた。

「ごめんね。助けられなかった」

 彼女の暗い表情から察するに、どうやらふゆの命は俺のように戻ってはこなかったようだ。

 しかしよく見ると、ふゆの体毛は全身光沢にも似た輝きを放ち、そして骨と皮だけになっていた脚や腰などには、柔軟そうな肉がついていた。その姿は七、八歳ごろのふゆを思い出させるものだった。

「いいんだ、これでふゆをきちんと眠らせてやれる」

 この言葉は、エルを慰めるためのもののはずだった。だがそれは俺の胸を深く抉った。

 ああ、今のは嘘だ。

 ふゆのこの顔を見た時、俺は期待いっぱいに胸を膨らませた。だがその希望は、まるで風船のように一瞬で破裂した。肺は苛烈な呼吸を繰り返し、心臓は耳にまで届くほど大きな鼓動を鳴らしている。目頭は、火が溢れたように熱を帯び、奥歯からは石臼で何かを挽いたような鈍い音が響く。

 割り切れない。諦められない。やりきれない。

「ごめん、ごめんね」

 慰めの言葉も空しく、エルには俺の本当の感情が伝わってしまった。エルも俯き、謝罪の言葉を繰り返す。アラドカルガ、メレトネテル、イルルヤンカシュ、ありとあらゆる非日常的存在が嵐のように舞い込んだこの二週間。硝煙と血、殺意と苦悶、絶望と不安に満ちた逃避行は、希望ある結末を迎えたはずだった。


 しかし、この日、白い病室では歓喜の声は無く、涙と嗚咽が満たし続けるばかりだった。

 



「と、まあ、事の顛末はこんな感じだ」

 三つある大総監(インスペクター)の椅子、二つは空席で、真ん中の一つにどっしりと腰かけるミカエラに、私はイルルヤンカシュによる人造メレトネテル、通称イェリコに関する一連の事件の報告をした。とは言え、この一件について、アラドカルガが嗅ぎつけた時には全てが終わった後だったが。

「わかったわ。それで、そのイェリコ、なんだけど」

 本来の我々であれば、メレトネテルは今後どのような生活を望むかを尋ね、そして極力それが可能になるようサポートをする。しかし今回はイルルヤンカシュによる人造メレトネテルという、前代未聞の存在だ。

「本人の意思としては、このまま三輪堅洋という青年と二人暮らしを続けたいとのことだが」

「まぁ、そうなのね」

 連日の激務のせいで、身も心も鉄人と形容するに足るミカエラでさえ、表情には疲労が見え隠れし、その言葉には活力を感じない。

「ドゥアザルルの連中は、きっと調査したくて仕方ないだろうね」

「その場合、非人道的な実験も顧みないでしょうね。彼らなら」

 イェリコはメレトネテルの謎を究明する唯一の手掛かりと言っても良い。だとすれば彼らは喉から手が出るほど、彼女の存在を欲するだろう。それこそアラドカルガと袂を分かち、全面戦争を仕掛けることさえ想定の範囲内だ。

「リューベック、貴方、前の恋人とは復縁したの?」

 あまりに突拍子なことをミカエラが言いだすものだから、啜っていたコーヒーを思わず咽てしまう。

「はぁ?いきなり何言って」

「いや、大切な人と一緒に過ごしたいって、どういう感情なのかなって」

 報告にもあった通り、確かにイェリコと堅洋はかなり親密だったようだ。ミカエラはどうやら、その二人の関係に興味を持ったらしい。

「いや、私ももう愛美とは連絡とるぐらいで疎遠だし、何なら君との交際期間の方が長いくらいだぞ」

「て言っても、貴方と私は所詮共犯ってとこでしょ。お互いの傷を舐めあうくらいの関係だったじゃない」

 まあ、確かに、ミカエラと私は恋人、というより、唯一お互いの苦渋を理解できるからこそ、懇ろになれただけだろう。

「しかし、私たちアラドカルガは恋人を作る者は少ないからなぁ。それこそ配偶者がいるのはエアラルフくらいだろ」

「そういえばエアラルフの旦那さんって、メレトネテルでもデザインドでもないのよね」

 ミカエラの言いたいことは何となくわかる。世界の秘密を握り、人体を捨て、いつ命を落としてもおかしくない仕事がアラドカルガ。特にエアラルフは、アラドカルガでも非常に強大な責任と力を持つ。そんな異常で非日常的な存在たる彼を、普通の人間であるエアラルフの恋人がどうして受け入れられたのかは、確かに疑問だ。

「母胎生まれ、デザインド、アラドカルガ、メレトネテル。昔は人間は一種類しかいなかったのに、今や世界には四種類もの人間がいて、もしかしたら他にも沢山いるのかもしれないなんて、昔の人たちには想像もつかないでしょうね」

 強烈な少子高齢化と、格差社会の時代は終わりを告げたが、しかし世界は未だ嘘と断絶、理不尽と怒りに満ちている。もしかしたらその障壁は性急に壊してしまうべきなのかもしれない。あるいはどんどん壁を高くして、お互いの世界に籠る方が良いのかもしれない。

「イェリコと堅洋は引き離した方が、二人にとって幸せかも」

 だが、私は過去にあった人々を思い出すと、どちらも正しいようには思えない。私のような詐欺師ではダメだ。世界を救うのは、イルルヤンカシュのように、急激な変革を企てる者でも、ドゥアザルルのように、欲にまみれた為政者でも、そしてアラドカルガのように、全てを嘘と力で支配する存在でもない。

「けど私は二人は希望通りにさせた方が良いと思うよ」

 結局世界を良き方向へと導くのは、壁を壊す者でもなく、壁を作る者でもない。勇気をもって、その隔絶の象徴を登る勇者だ。冷笑と罵倒を浴びながらも、別の世界の住人と語らおうとする正義漢だ。そしてその姿を形容できる言葉は、私の知る限り一つしかない。

「結局、最後に勝つのは、愛なんじゃないかね」

「なーに、急に。現実主義者の次は、博愛主義者にでもなるつもり?」

「さあね」

 それを最後に、ミカエラと私は本日の業務を終えた。

 明日も来週も来年も、私たちはこれからずっとこの混沌たる世界で足掻き続ける。


 いつか世界が愛に目覚める日を夢見ながら。

本章を持ちまして、この物語は一旦の結末を迎えます。ただ本編執筆前に予定していた全てのメレトネテルの物語を書き終えたものの、今後また、新たなキャラクターを思いつけば、更新するかもしれません。長い道のりでしたが、お付き合いくださり、ありがとうございました。



それではまた、新たな物語でお会いしましょう。

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