セラギネラ 第四節
俺とエル、そしてふゆの三人で、車に乗り込み、エンジンをかける。
だがアクセルを踏む決断がどうにもつかない。
「堅洋、早くしないと。奴らがまた来る」
「わかってる」
この混沌とした状況にしては、意外と整理はすぐについた。今襲ってきた男たちはエルを作った者たちと関わりがあるはずだ。恐らくは取り返しに来たのだろう。彼女ほどの強力な能力者だ。さっきのはきっと第一陣に過ぎない。すぐに後続の敵が襲ってくる。
だが、今ここを去れば、二度と家には戻ってこれない気がして。取り返しがつかないことが起きる気がして。
「行こう」
足を踏み込む。その一歩は今までの俺の人生で、一番重い一歩だった。
「こりゃあ酷いな」
イェリコがいたと言われていた家屋、送り込んだエリートの特殊部隊は、全て綺麗に胴体と頭が切り離されていた。見事なもので、彼らにそれ以外の外傷はなく、この虐殺が抵抗する暇さえないほどに一瞬で完結したことがはっきり理解できる。
「なぜ頭を斬った?殺すだけなら頭か心臓に弾丸を撃ち込めばいいだろう。そっちの方が速いし正確だ」
「しかしそれでは強化人間の彼らは死なないでしょう。体内のナノマシンが損傷部を一時的に補完して、戦闘の続行は可能なはずです」
アリヤの言う通り、彼らはただの人間ではない。治療用のナノマシンが全身に流れ、体の損傷を一時的に補うだけでなく、修繕や身体機能の増強をする。部分的な脳や心臓の損傷ならば問題ないはずだ。
「だが他に体に損傷が無いということは、イェリコはこの兵隊たちが『その程度では死なない』ことを事前に知っていて、そして即死する手段を実行したことになる。あの施設でも何人か似たような強化兵と闘っただろうから、その時の経験か」
しかしそれでも腑に落ちない。何かを見落としている気がするのだ。これほど迅速かつ的確な殺害、合理的で実にイェリコらしいのだが、しかしそれと同じくらい「イェリコらしくない」のだ。
「……まあいい。アリヤ、発信機は?」
「はい、正常に機能しています」
この家主の車にはあらかじめ発信機を付けている。所詮あの部隊は、イェリコに殺されるための捨て駒に過ぎない。
「しかし、捨て駒にしては少し、犠牲が多くはありませんか?」
アリヤがこうして私に意見をするのは決して私を疑っているわけではない。彼女ら廷臣はこうして頻繁に幹部らの思慮や計略を詳らかにすることを義務付けられているのだ。
「私はリバーシが好きなのだが、あのゲームのコツを君は知ってるかね?」
アリヤはその問いに対し首を横に振る。
「いえ、残念ながら遊戯の知識は乏しいので」
「相手の選択肢を減らすことだよ。一見沢山石が取れているようでも、徐々に打てる場所が無くなっていき、そして最後には盤面が綺麗にひっくり返るのさ」
「つまりテリピヌ様は、二人が車で逃げられるようにしたのではなく、車で逃げるように仕向けたということですか?」
例えば我々二人が直接赴き、戦うことで捕まえる可能性はあった。能力もある程度把握していたし、「武器」を使ったアリヤであれば、一対一の戦闘でも勝てる確率は十分に高かった。だがしかし現状では、イェリコの選択肢を詰め切れない。
「そうだ。少しずつ、少しずつ、まるで体の四肢が麻痺していくかのように、選択を強いる。そして体が緩慢になっていることに気づいたときには、もう遅い。身動きが取れないまま、自分の終わりを見届けるのさ」
発信機の指す場所は、森の中。予測していた選択肢は二つだった。人目がつかないところに隠れるか、人の中に隠れるか。愚策が前者であることは言うまでもなく、これで一手詰みが早まった。
「さて、では作戦開始だ。アリヤ」
近隣の森は、道こそ舗装されていなかったものの、僅かに車が通れるだけの道があり、森を突き抜けるつもりで走らせていた。夜明け前に森の中で誰も使っていない休憩所のような木造の小屋を見つけ、一夜をその近くで過ごした。古い自販機があり飲み物を数本買うが、財布の中の現金の量は少し心もとなかった。
勿論電子マネーもあるし、数か月程度なら外泊を繰り返しても問題ないだろう。しかしエルから話を聞く限り、奴らはそうした情報統制に長けているらしく、電子マネーの使用は危険かもしれない。かといってこのままではロクな食事が取れない。ふと隣で少し息苦しそうな寝息を立てているふゆに目をやる。
「全く、酷い誕生日になっちゃったな」
優しく頭を撫でてやると、少しだけ鼻息が整い、穏やかな寝顔へと変わった。昔から犬用の衣服とかが苦手だったふゆだったが、最近は粗相が多くなったので、犬用のおむつを身につけさせているため、それがまた彼女にはストレスなようだ。
「堅洋、ご飯のことなんだけど」
そうしてると、車の扉が開き、辺りの探索をしていたエルが帰ってきた。
「ああ、エルは気にしなくていい。ふゆの餌はいくつか持ってこれたし、俺はこの森を抜けるまで我慢するよ」
「いや、その必要は無い。堅洋、私が食事を作るよ」
エルの提案は少し不可解だった。野生の動物でも狩ってくると言うのだろうか?
「私は体組織を自由に変化させられる。豚肉も鶏肉もその構成は理解してるし、なんなら植物も食したことのある物なら生成可能だ。好きな物を言ってくれ」
「待て待て、それってつまり、エルの身体を食えってことか?」
まるでコンビニにお使いに行くくらいの気楽さで、体を差し出そうとしているエルに俺は久しぶりに頭を眩ませた。
「お前そんなことできるわけないだろう」
「何故だ。私は犬じゃない。人間の肉を出すわけでもない。寸分違わず豚肉を作れるんだ。豚の生姜焼きは君の好物だろう?生姜も作れるし、玉ねぎも出せるぞ。醤油も恐らく大丈夫だ」
エルは何か疑問に突き当たった時は目を大きく見開いて、こちらの顔をじっと見つめてくる。こうなると彼女はテコでも疑問を解決しなければ動かなくなる。彼女は頑固というわけではない。納得しなくても「そういうものはそういうもの」と諦めてくれることも多い(それだけ俺が世間のシステムを全く説明できないということでもあるが)。だがその度に、俺は自分の存在と、持ちうる常識の矮小さを思い知らされるようで、どうにも歯がゆい。
「堅洋は不思議な人間だな」
「不思議って、俺はお前の方が不思議で仕方ないよ」
「わかった。私の身体は使わない。獣でも取ってこようか?」
この目はいつもの「納得していない顔」だ。
「いいよ。それにエルは命を奪いたくないだろう?」
「いや、自分が食べない分には良い。私は私のために命を奪わないが、堅洋は別だろう?」
未だに彼女が動植物を食さなくなった理由は理解できていない。そもそもあの組織の兵士は、容赦なく殺していたことからも、命を奪うことについては禁止しているわけではないらしい。彼女にとって重要なのは奪った命を食らうかどうかであるようだ。
「なぁ、エル。答えずらいかもしれないが、どうしてあの追手は殺せたんだ?」
「それほど難しくはない。腕を変形させて、刃物にする。それを思い切り伸ばすだけだ」
彼女の腕はいつの間にか鈍く光る黒色の刃へと変じていた。
「違う違う。方法を聞きたいんじゃない。その、殺すのと食べるのは、どう違うんだ?」
「うーん。同じことなのか?」
いずれにせよ、どちらも命を奪うことに他ならないわけで、その間にある差異は結局僅かなものだろう。
「それは知らなかった。食べるも殺すも同じなのか。しかしそれは困った。これから堅洋とふゆを守るために、相手を殺せないとなると、少し二人を守り切るのが難しくなる」
「え、いや。それは困るな。えっと」
結局、エルには「誰かが襲ってきた時」に限定して命を奪う行為を許可した。彼女の顔はやはり変わらず「納得がいかない時の表情」だった。
その後、森を抜けて、小さな町へと到達した。高い建物はほとんどなく、目に見える範囲には民家らしき飾らぬ質素な住宅が並んでいる。結局、食料調達後、さっさと動いて別の町へと行くことにしたのだが、ここで少しだけ問題が起きた。ふゆが食事を積極的にしなくなったのだ。具体的に言えば、食べ物を目にしても口を開いてくれない。少し強引に口を開かせ餌を入れるものの、咀嚼する際に口からぽろぽろと漏れてくるのだ。恐らくだが舌を上手く動かせないのだろう。ここ数か月の間、水を飲む際に鼻ごと突っ込んでいたのも舌の筋力が衰えたためだったのだろう。
「ふゆ、ご飯食べられないのか?」
「ああ、半年前には少し柔らかめのフードに変えたんだが、これはもっと柔らかいのが必要かもな」
しかしこれ以上柔らかくて、食べやすいフードなど、それこそペットショップにでも行かないと買えないのではないだろうか。この逃避行の中で、それをしている余裕ははっきり言って無い。
「なあ。もし必要なら、ふゆのご飯、私が用意しようか?」
エルはまた懲りずに自分の身体から食事を作ることを提案してきた。
「エル、何度言えばわかるんだ。それは」
「堅洋には聞いてない。食べるか食べないかは、ふゆが決めればいい」
俺は少しまごついて言葉に詰まった。彼女の言葉はこれまでの疑問符だらけのものではなく、確固たる意志を持って俺の身体を突き刺したからだ。俺の目を捕えて離さない爛々と輝く二つの紅の瞳は、眼球越しに俺の脳漿を焼き切ってしまいそうで、思わず顔を背けてしまう。
「わかった。俺はもう何も言わんよ」
俺が諦めの言葉を発するとともに、彼女の手から白い液体が滴り、それが先ほどまでふゆの鼻先に出されていた餌用の銀皿に注がれる。
「これは万能食。一日分の小動物が活動に最低限必要なエネルギーと栄養が入っている。フードをこれで柔らかくして、食べやすくする」
銀皿にその液体が満たされると、エルは皿を右手の人差し指で軽くかき混ぜ、その後その指をスプーン上に形状変化させ、ふゆの口に注ぐ。量としては僅かなモノだったが、今のふゆが一度に嚥下できる量としては非常に適切であった。ふゆはそれを飲み込んだ後に、味に気に入ったのか銀皿にむけて舌を伸ばした。
「ふゆは堅洋と違って、難しいこと言わないね」
「うるせぇ」
「テリピヌ様、そろそろ彼らを泳がせて二週間になります。まだお動きになられないのですか?」
ホテルのベッドの上で体を横にしていると、気づけば隣にいきなりアリヤが立っていた。
「んあ。ああ、じゃあ我々も動こうかね」
身体を起こし、寝ぼけた瞼をこする。
「お言葉ですが、これほどの時間は必要だったのでしょうか?」
「いや一週間程度で十分だったな」
寝起きで意識が朦朧していたというのもあり、今私の判断力は頗る鈍っていた。特に「冗談で済むかどうか」という点だ。
その過ちに気づいたのは、右手首に妙な熱気を感じ、そして部屋に散った赤い飛沫を目にした時だ。
「イルルヤンカシュは説明を望んでいます。次は足首より先を切り落としますよ」
遅れてきた激痛に悶えながら、必死に右手首を左手で抑える。
「……ああ、今のはよろしくなかったな。身に染みたよ」
アリヤの左手には、刃渡り五十センチはあろうかという、刃物が握られていた。その柄は黒いタールで塗りたくられたような、血管を思い起こさせるグロテスクな筋がいくつも走り、そこから延びる同じく黒い刀身は時折赤く脈動するかのように光を放っている。
「一週間で十分だったが、二週間、それも今日あたりまで待つのも勿論意味はあった」
「と言いますと?」
ベッドの上に血だまりを作っている右手を手に取りながら、私はアリヤへ、いやイルルヤンカシュへの弁明を続ける。
「車での移動速度だ。一週間ごろに一日の平均移動速度ががくっと落ちた。これは電子マネーの使用による位置の移動経路の発覚を恐れ、妙な遠回りをしているためだ。徒歩で車からわざわざ動き、離れた町まで買い出しに出ているんだ。実際彼の口座と支払い履歴にその日動きがあったし、間違いない。そしてそれはイェリコとケンヨウ・ミワが別行動をしたことを意味している」
切り離された手首の断面を合わせる。いつもながら見事な切り口だ。ひっつけた手首はその断面が見事に一致している。
「そこで動くのもよかった。ただイェリコはセンサーのようなものを持っている。最初の襲撃が思ったより早く失敗したのもそれが原因だ。ケンヨウを人質に取るのが最も無難な作戦だが、それを実行に移そうとしたとき、興味深いことがわかった」
体内のナノマシンが傷口の断面を繋ぎ始めている。まだ完全には繋がってはいないが、先ほどまでハンカチで拭っても溢れ続けた鮮血は既に止まっていた。
「買ったものの中に、犬用の餌が含まれていた。それも老犬用だ」
「つまり彼らは犬を連れて逃げているのですか?」
修復を確かめるように、手首を何度かぐるぐると動かしながら、首を縦に振る。
「調べればかなりの老犬だ。年齢を考えれば元気でも歩くのが精一杯だろう。そして先日、彼らの車はまた速度を緩めた。買い込んだ食糧は一か月は持つ。現金も下ろしている筈だから態々遠回りの買い出しに行くとは考えられない。そして車の燃料の補給にはあまりに時間がかかりすぎだ」
「つまり、犬に何かあったと?」
私はベッドから立ち上がり、血に濡れたシャツを脱ぎ、久々に戦闘用の衣服に袖を通した。
「その通り。今は絶好の好機だ」
十一月十五日。ほんの少し、俺は離れていただけだった。銀行口座から下ろした現金で、エルと俺の着替えとタオルを買いに行っただけなのだ。ほんの数十分だ。だが車に戻ると、道端に留めていた車の外で、エルが青ざめた表情をしていた。見たことが無い顔だった。俺はその表情が意味することを、何となく察した。
車の中で、段ボール製の小さな簡易ベッドでは、いつものように穏やかな昼寝をしているふゆがいた。昼寝をしているかのようだったのだ。目を瞑り、穏やかに、ただ、いつものどこか苦しそうで、それでいて愛嬌に溢れた鼻息が、聞こえてこないのだ。胸は動いていない。彼女はとても寝相が悪いはずなのに、足も尻尾も動かない。
「私は何もしていないんだ。目を離したら、エルがおむつの中で漏らしていたから、取り換えてあげようと抱えたんだ。そしたら首がぐたりとして、力が入ってなかったんだ。お腹が空いて力が出ないんだと思って、食事を口に入れてあげようとしたんだ。でも口を開いてくれなかった。無理やり開けて食べさせても、飲んでくれないんだ。それから、それから……」
俺はエルの肩を右手で抱き寄せた。そして左手でふゆの頭を、いつものように撫でてやった。
「お疲れ、ふゆ。頑張ったな」
エルは目から涙を流している。初めて見た。感情を発露させることなど滅多になかったはずのエルが、その瞳を悲嘆の象徴で満たしているのだ。
「この気持ちは何だ」
「それは、君がふゆの家族だったという証だ。ふゆへの愛だ」
ふゆを両腕で抱える。こんなに彼女は軽かったかと、驚いてしまう。四本の脚は凄く硬くなっていて、あれほど元気に動いていた尻尾は、鉛の棒のようになっていた。
エルは俺の胸の中のふゆを何度も何度も撫でていた。
「私はふゆと家族になれたのかな?」
「なれたとも。ふゆもエルも、俺の家族だ。大事な大事な家族だ。今までも、これからも」
旅はまだ続くだろう。
死後の世界があるのなら、
どうか、ふゆ、我が最高の友にして、愛しの妹よ、
父と母と一緒に、この旅路の終わりが、どうか明るいものとなるように、
そしてエルが幸せな人生を得られるよう、祈っていてほしい。
今は何より、感謝を。そしてお疲れ様。ゆっくりお休み。




