セラギネラ 第二節
夢を見た。
過去のような未来のような、夢想のような記憶のような、時間と場所を超越した感覚。
愛する者のせいで、愛する者を失う。
命の選択を迫られる運命の岐路。
粘っこくて不快な、生命の天秤。
そんなこと、俺ができるわけないのに、神は理不尽にもその秤を、俺に押し付けてくるのだ。
「変な、夢だったな」
目を覚ますと、顔が汗でぐっしょりと濡れていた。空調をしっかりと効かせて、適温にしていたにも関わらずだ。一日の始まりからいつもの日常から外れた何かが始まる予感がした。その非日常は、すぐにもう一つあることに気づいた。
「あれ、ふゆ?」
いつも俺と一緒に寝ているはずのふゆが、見当たらないのだ。
「どこ行ったんだよ」
老犬のため、こうして離れるだけでも不安になってしまう。いや、そもそもふゆ自身が俺から離れるとしきりに鳴き続けてうるさいはずなのだ。
寝室兼私室の和室は、空調の都合、リビングに通じる襖は半分開いているので、そちらの方へと行ったのかと襖を開け放つ。
「な」
目の前にふゆはいた。しかしふゆ以外のモノもいた。真っ白な髪に、褐色の肌、とてもではないが同じ人間に思えない美しい容姿をした少女がふゆと寝ていたのだ。
「そう、そうだった……」
恐らくは、空から降ってきたと思われる少女は、昨晩どれだけ体をゆすっても目を覚まさなかった。まるで燃料切れのロボットのように見えたが、その身体はあちこち傷がついていて、目の前のそれが紛うことなく生身の人間であることが確認できた。
病院に連れていくべきだと思い、電話をかける。もし本当に天井を突き破るほどの勢いで落ちてきたのなら、目に見える範囲以外の部分も相当に怪我しているはずだ。
しかし、電話はかからなかった。いや、正確に言えば、手に取った携帯端末はいつのまにか俺の手から離れ、数メートルほど離れた床の上に落ちていた。液晶は蜘蛛の巣のように大きくひび割れていた。
「う……あ」
うめき声のようなものが、少女の方から聞こえたため、その謎の現象のことは一旦保留し、彼女の方へ駆け寄った。
「おい、おい!聞こえるか?」
少女に顔を近づけ呼び掛けるが、彼女は反応しない。心臓マッサージとかするべきか?と思って、目のやり場に困る、という邪念を振り払いつつ、彼女の胸に手を置いた。
心臓は問題なく鼓動しているのを感じる。良かった生きている。
素人の生中な技術に頼る必要がにないことに安堵しつつも、しかし俺はその少女の身体に起きたもう一つの異変に気付く。
傷が無い。
顔や腕、胸、腹、体の至る所に不愉快な鉄の匂いを放つ赤い液体がべったりとついているのにも関わらず、そして天井を突き破るほどの勢いで落ちてきたにもかかわらず、彼女の肉体はどこもおかしなところが見当たらないのだ。
何度も何度も大きく壊れた天井と、彼女の肉体を交互に眺める。どうしたってその二つの現象が結びつかないほどの異常だった。まるで彼女は、初めからここに寝そべっていたかのようである。
とりあえず体を拭いて、服でも着せようと思い、風呂場へと運ぶ。彼女の身体を両腕で抱きかかえる。
「軽い、な」
身体はとても軽かった。そんな彼女がどうやって、あの分厚い天井を突き破ったのだろう。それができるほどの速さ、高さ、それを想像すると、途端その腕の中にいるか弱い少女が、怪物のように見えてきた。
「で、結局その後、目は覚まさなかったから、ここに寝かしたんだったな」
母の古着があったので着せてみたが、小柄だった母の服でも、少し大きいと感じるほどに彼女の身体は幼い子供ほどしかなかった。しかし、彼女のその美しい相貌と、光り輝いているようにさえ感じる肌と髪、その全てがまるで別世界の住民のようであった。ふゆとその少女は、共にすやすやと心地よさそうな寝息を立てている。相も変わらずずっと寝ているが、昨日のどこか苦しそうな表情はもうすっかり消えていた。
俺は少し、ここで改めて迷っていた。きっと、常識で考えれば、警察に通報するべきなのだろう。
しかしなぜか、俺はその判断が間違っていると感じた。いや、はっきりと言えば、少し自信が無かったのだ。昨日空から降ってきた少女、一切傷ついていない肉体、裸体だったという事実、それら全てを、警察に真実だと信じさせるということに。
「いやぁ、無理だろ」
どう考えても無理だ。多分俺は誘拐とかで捕まるに違いない。
しかし、その少女は見れば見るほど違和感だらけだった。普通じゃなさすぎる。髪の毛は銀、この国では珍しい褐色の肌、その姿は、どこかで見たような美しい人形のようであった。それが俺にはたまらなく奇妙だった。いやデザインドには美男美女が多いと聞くし、今の世の中、髪の毛の色や肌の色程度で驚いたりはしない。何故俺にはそれが、人間に見えないのか、はっきりとした答えは出せなかった。
「ちょっと、起こしてみるか」
このままにして置き続けるのも不安に感じ、その少女の身体を揺らす。
「んっ」
小さな吐息が漏れ、瞼がぴくりと揺れ動く。
「君、聞こえるか?起きられるか?」
目覚めの兆候を察知し、少し揺らす手を強くして、声をかける。すると宝石のような瞳がこちらを向く。紅く美しいが、何故か少しだけ鈍くて暗い。
「あなたは、だれ?」
開いた口からは、たどたどしい発音の幼い声。
「その、えっと、俺は三輪堅洋 って言うんだが、君は?」
「あなたは、敵?」
俺の質問には答えず、彼女は僅かに言葉を変え再び質問を投げかける。
「そう、だな。敵じゃないけど、君の味方になれるかは、君が誰なのかを教えてもらってから決めたいな」
「それなら、これは敵?」
またも俺の言葉は聞いていないように、今度はふゆを指さして同じ問いを投げてくる。
「それも敵じゃないよ。彼女はふゆって言うんだ」
「ふゆ、それは食べちゃダメ?」
「だ、ダメに決まってるじゃないか!!」
いきなり突飛なことを言うもんだから、思わず声を荒げてしまう。
「お腹がすいた」
しかし俺の怒声をよそに、彼女はまた布団に倒れ込んだ。
「腹が減ったのか?ちょっと待ってろ、何か作ってくる」
彼女にはまだ聞きたいことがあるし、それに何だかこのまま餓死してしまいそうな勢いだったので、急いで台所へと赴き、食事を作った。
「ほら、これ、食べていいぞ」
我ながら簡素な食事だ。塩昆布と鰹節を混ぜ込んだおにぎり二つに、インスタントの味噌汁、それだけの安くて手軽なブレックファスト。
「食べていいの?」
「ああ、これは食べて構わない」
そう言ったものの彼女はどうしてだか手を付けない。首を何度もかしげては、おにぎりをつついて転ばしている。もしかして、食べ方がわからないのか……?
「ねえ、これって稲?」
また彼女は質問をする。しかし米、ではなく稲なのか。間違ってはいないが、それは食事の中身を聞くというより、科学の実験のような様子だった。
「そう、だね。それと塩昆布、海藻を干して、塩をまぶしたもの……?それに鰹、えっと魚?その切り身を干して削ったものを、ええいめんどくさい!食べ物だこれは食べ物!」
食べ物を説明するのがこんなに面倒だとは思わず、そのため途中でそれを諦めてしまい、強引にこれが食べ物であることを納得させる。
「わかった。食べる」
ようやく食べる気になったとホッとした。
しかしそれも束の間であった。
まるで枝が折れるかのような、ミキミキという音がどこからともなく鳴っていた。その音の正体を確かめんと、そちらの方を目にすると、彼女の右腕にあり得ない物が生えていた。
大きな口。
狼?ライオン?いやワニ?それは獰猛な肉食獣を思わせる巨大な牙が生えそろった異形の口で、最初はそれが右腕から生えているのではなく、右腕その物であることにすら気づけなかった。
「え」
一瞬だった。目をその口に奪われ、ずっと眺めていたはずなのに、その軌道を全く見ることができなかった。その巨大な口は何か硬い物を咀嚼しているのか、ガリガリという音を立てている。食事を持ってきた盆を見ると、さっきまであったおにぎりと味噌汁は、それを乗せていた皿ごと消え去っていた。
事の全てを観察し終わり、彼女の右腕から顎が消え去ると
「ば、化け物!!」
と声を荒げながら、後ろに飛びのく。
「バケモノって何?」
しかし彼女はすくっと立ち上がると、尻もちをついた私にじりじりと近づきながら、また質問を飛ばしてくる。おかしなものを見せたとは全く思っていないような、さもこれが当たり前だと言わんばかりの無垢な表情。
「ねえ、まだ食べたい」
「ひっ!」
食われる。こいつはプラスチック製の皿も煎餅のように平らげる怪物だ。俺の骨など物ともしないはずだ。右腕をこちらに伸ばしてくる。しかしその腕は俺の頭を通り過ぎて、そのまま彼女は俺の身体に倒れ込んできた。
「稲、まだ、ある?」
そう言うと、また彼女は眠りについてしまった。
「全く、暑い!ここは熱帯だったか?」
「いえ、一応温帯です」
手で顔を扇ぐが、空から降り注ぐ光の熱線の前では、気休め程度にしかならなかった。
「しかし、こんなクソみたいな辺境の国に、いったいなぜ二つも支部があるんだ?それも世界最大の支部と聞くが」
私の廷臣であるアリヤは、この三十八度を超える酷暑の中、黒のスーツに身を包みながら汗一つかいていない。
「この国は経済的にほどほどな発展をしつつ、それでいてアラドカルガの影響も少ないためでしょう。そして何よりこの国の人々の思わぬ特徴のお陰かと思います」
「特徴?何だね、死ぬまで働くところか?」
私の身体は汗でぐっしょりと濡れ、白のYシャツは皮膚に張り付き不快そのものだった。
「いえ、恐怖を煽るとすぐに不安に陥るところです。得体の知れない物質も、高額な機材も、巨大な施設も、何をするにつけても大体『この国の発展のため』『脅威から身を守るため』と言うと何の疑いも持たないのです。それにこの国の政府は、イルルヤンカシュと深く繋がっていますからね」
「全く、げに恐ろしきは兵器でも病気でもなく、平和も自由も安易に手放す衆愚だな」
我々イルルヤンカシュにとって、人間とは不快で劣等で醜悪な存在。進化すべき下等な生物。そんな愚劣な一例が目の前にいる者たちと思うと、この熱気と湿度以上に苛立ちを覚える。
「とはいえ、イェリコは我々の宿願ともいうべき存在。テリピヌ様にしか果たせぬ任務かと思います」
「は、心にもないことを言うなアリヤ。私がどれほど努力と実績を重ねようと、ナルサムの大望が不死である以上、その末席さえ永遠に開かれることはない。奴らは私が『偶然』死ぬことを期待しているだけさ」
古の十王とはよく言ったものだ。奴らの姿は私が稚児の頃から、今に至るまで全く変わらない。メレトネテルの能力とデザインドの研究結果を拝領して、奴らは半ば不死を達成している。私、テリピヌは、次期ナルサムなどと、よく言われるが現実はこここそが私の限界だ。これ以上の階級はナルサムが存命でいる限り望めまい。
「それで、そのイェリコとやらは、一体どんな進化をすれば、こんな芸当ができるんだ?」
立ち入り禁止を示す黄色のテープの先には、迷彩柄の装束に身を包んだ男たちが数名と、真っ二つに裂けたイルルヤンカシュ極東第一支部の施設であった。
「映像を確認したところ、青白い光が炸裂して、施設を爆破、いえ、切り裂いた、と言うべきでしょうか」
「どれどれ」
アリヤの持っている端末で映像を確認すると、本当に彼女の言う通り、まるでどこかの怪獣の熱線のような光の柱が天高く伸びたと思うと、それが巨大な剣のように施設を両断した。
「全く、これだけの騒ぎで、よく山火事で済ませられたな」
「ほとんどのマスコミは私たちの手の中ですからね。口うるさいのも、国民たちが勝手に信用をこけ落として誰も信じていませんし」
つくづくこの世界は地獄だな。正義とか倫理観とか、そういうのを誰も持たないから、責任ある立場から発言する人間たちが牙を抜かれ、甘ったるいことしか言えなくなったのだろう。
「やはりこういう奴らを見ていると、我々の考えの正しさを実感するよ」
「全くですね」
テープをくぐりながら、施設の方へと歩を進める。すると迷彩服を着た人間がこちらへ近づき、声をかけてくる。
「――――」
しかし彼の言葉は何も理解できなかった。私の解する八か国の言語に、この国の言葉は含まれていなかった。
「どうやら、我々の身分の確認をとりたいみたいです」
「はぁ?イルルヤンカシュの来訪は伝わってないのか?」
アリヤはその男とまた話し始める。男の表情はどうにも少し怪訝で、我々を歓迎しているようには見えない。
「困りましたね。彼ら、私たちを知らないみたいです」
「待てよ、現場を管理してるのは我々の支配下のメンバーじゃないのか?」
「手違い、みたいですね」
思わず手のひらを眉間に当ててしまうほどの困惑だった。面倒だが少しだけ頭を捻る必要がある。どうやって切り抜けるか、どうやって施設に入るか。
「待て。アリヤ、イルルヤンカシュの名前は?」
「出しました。軽率でしたね。申し訳ありません」
いや謝るべきことじゃない。むしろおかげで解決手段がすぐに思いついた。
「八人だな。奥の五人を私が殺す。アリヤはコイツを含めた残りの三人を」
「わかりました。武器の使用は?」
「無しだ。この程度の奴らなら素手で充分。ただし五秒以上はかけるな?」
「四秒ちょいか。まあまあだな」
「すみません、一人あたりに一・五秒もかけてしまいました」
私とアリヤは血に濡れた手を拭きながら、施設へと赴いている。
「まあ、気にするな。雑魚とはいえ大男だ。ただ全員首の骨を折って、というのは芸が無かったな」
「はい、精進します」
私たち二人は、赤く染まった大地を踏みしめながら、問題の施設へと足を踏み入れた。
「それで、君の名前は?」
「私、は、えりこって言われてた」
彼女、「えりこ」と名乗った少女は見たこともないような速度で食事をとっていた。右腕の口は怖いからやめろと言ったため、きちんと口を使って食事をしてもらっている。
「えりこ、か。なんというかおばあちゃんみたいな名前だな。何か所縁はあるのか?」
「わからない。最初は『ろくいちにーなな』って呼ばれてた」
口の周りに大量の米粒を付けながら、リスのように口いっぱいに頬張っているため、もごもごと籠った声だった。加えてたどたどしい発音が余計にそれを聞き取りづらくさせる。故に、最初はそれが効き間違いだと思った。六一二七、それは明らかに名前ではない。番号だ。人間としての個性ではなく、個体を識別するだけの記号だ。
「……よし、じゃあエルだ」
「える?」
「そ、君の見た目ならそっちの方が似合ってる。勿論嫌なら言ってくれ?名前というか、ただの愛称みたいなもんだから」
口の中に入ったものをごくりと嚥下すると、黙ってこちらを見つめてくる。少し勝手に決め過ぎたか?
「うん。わかった。エルになる」
表情は変わらないため、喜んでいるのか、不服なのかもわからないが、とりあえず彼女の呼称問題については解決した。
次に解決すべきは、
「なぁ、エル、君は一体どこから来たんだ?」
本当の質問は彼女とは誰か、という点だが、少し遠くから攻めることにした。
「森、どこかわからない。最初は別の所にいた。水の中。白い部屋の中」
的を得ない答えだった。森?水?もしや自然の中で育った野生児とでも言うのだろうか。
「私も聞きたいことがある」
エルはそう言うと、また食事を指さしている。
「これは、稲。これは魚。これは海藻。これは大豆。わかる。全部食べたことがある」
次に彼女は腕をそのまま横に動かし、ダイニングのソファの上で寝転ぶふゆに、今度は指を向ける。
「あれは犬。食べたことがある。だから食べ物だと思ってた。けどケンヨーは食べちゃダメって言った。どうして?」
「何故って、ふゆは家族だからだ」
「じゃあふゆは食べちゃダメだけど、他の犬は良いの?」
随分と答えに悩む質問だった。あまり詳しくないが、昔は犬を食べていたこともあったという。動物愛護の法律が世界的に施工され、犬食は俺が生まれる前に禁止された。それならやはり犬を食べることはダメなことのはず。
「うーん、ダメだ。犬は食べ物じゃないって、決まりが……」
そう言いかけて気づく。彼女は犬を食べたことがあると言う。ひょっとしなくても、それは彼女が法律の通用しない世界にいたということ。それにこの小さな口だけでなく、彼女は巨大で破壊的な第二の口を持っている。
「なぁ、エル、人間って食べたことがあるか?」
「あるよ。敵の人間は食べていいって言われた」
ここで合点がいった。エルが俺を見て、一言目に敵かどうか聞いたのは怯えていたためではない。起き抜けの食事を品定めしていただけなのだ。
「人は食べたらダメ?」
「ダメ、だ」
「どうしてダメ?」
彼女のその態度は、先ほどの犬についての問答と全く変わらない。エルにとって犬と人間に大きな違いはないと言わんばかりだ。
「君も人間だろ?同じ人を食べるなんて」
「私には違いがわからない。人と動物、何が違うのか、わからない」
正直、これ以上問答する気になれなかった。彼女の致命的な倫理観の欠如、それをこのまま指摘し続けていけば、何か異質な世界に引きずり込まれそうな予感がしたためだ。
「なんて言うか、食べていいものやダメなものがあるわけじゃなくて、皆が食べているものがあるだけなんだよ。ただそれだけなんだ」
これ以上の言い分は思いつかなかった。だがきっとこれが事実なのだろう。皆が食べているから、俺もこうして食べてる。何故食べてはいけないか、食べてよいか、なんて考えたこともない。
「じゃあ、私は、命を食べない」
そう言うと、エルは食事をする手を止める。
「どうしてだ?君は何でも食べてきたんだろう?」
「私には命の違いがわからない。食べていいものと食べてはいけないものを理解できない。違いを作る理由がわからない。いちいち考えたり聞いたりするのは面倒、だからもう食べない」
そういうとコップの中の水をごくっと飲み干した。
「私は水だけでも生きていける」
「本当に?それで大丈夫なのか?」
こくりと頷き、彼女は席を立ちあがった。
「君は結局何者なんだ?」
彼女は俺の顔を見つめて、こう答えた。
「わからない。けど、こう言われた。『人類の救世主』だって」




