ノトファグス 最終節
「ユリア、今いいか?」
病室の外側から、リューベックの声が聞こえてきた。彼はいつもならこんな断りを入れずに容赦なく入ってくるだけに、少し珍しいことだった。
「大丈夫だよ」
招き入れると、リューベックは少しきまりが悪そうに首を掻きながら、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「その、なんだ。実はアラドカルガの仕事があってな。明後日にはこの国を出ないといけない。勿論その予定が済めば戻ってくるが……」
「いいの。私ばかりに構っていられないでしょ?」
彼を私は責める気はない。彼はもう十分私のために戦ってくれた。本来既に彼の要件は終わっているはずなのだ。
「けど、最後に、少しだけ話していい?」
しかし私は、それでもなお彼の助けを欲した。わかっている。彼は優しい。もし私がユハのことについて話せば、彼はきっと力になってくれるだろう。そしてそれが、また彼を悩ませることも知っている。
我儘と罵られても、独善と批判されても仕方ないだろう。
私は全て話した。ユラ・サイヤラ、ユハの使命、お腹の子の正体、これから私に待ち受ける二つの運命。
「全く、困った」
案の定、彼は頭を抱え込んでしまった。彼が私の病室に訪れたのは、きっと別れを手短に言いに来ただけだろうに、それを私は妨げたのだ。
「信じられないよね」
「いや、そうでもないさ。あまり詳しくは言えないが、不老の人間なら会ったこともあるし、死なない人間にもあったことがある。メレトネテルってのは皆とんでもなく厄介で、特別なもんだ」
相変わらず他人の感情の機微には聡いくせに、言葉選びが下手くそだ。けど今の私にはそんな不器用な彼の優しさすら、居心地がよかった。
「しかし、悩みは大きくはなったが、解決する道ができただけまだマシだ」
確かに、より巨大な問題に直面することにはなったものの、どうすればいいかも、何が原因なのかもはっきりした現状は、昨日に比べれば十分な進歩と言えるだろう。
「結局、私がどうしたいか、なのよね」
大きなため息をつき、天を仰ぐ。答えが書いてあるわけでもないのに真っ白な何もない天井を見ずにはいられなかった。
「私は、私として生きていたい。記憶が消えるなんてまっぴら。けど代わりにお腹の子供に私の運命を押し付けるなんていや。ううん、中絶するんだから、子供にはどっちにせよ迷惑な話よね」
「だが、そもそも、そのユラ、という女のせいで君がこういう状況にあるんだから、お腹の子をどうしようと、君がどう生きようと、歩む道筋に悩みこそすれ、その結果の中で失われるものに、君が責任を感じる必要は無いだろう」
彼の言うことは概ね正しい。仮に私がどんな決断を下そうと、ユラが私を糾弾することはないし、そも彼女が私を責める機会は今後訪れることはないだろう。お腹の子も同じ。大仰な宿命を背負ってはいるが、まだその子に意志は存在しまい。ユラの宿願も、わが身に宿す子、どちらを捨て去っても確かに怨毒の声が私に届くことはないが、問題なのは、その結果、私という存在が消えてしまうということだ。しかしかといってこの子を産めば、その命は我が果たすべき宿業を押し付けた存在として、目前に立ちはだかり続けるだろう。
だが実は、この問題を綺麗に解決する方法もある。私という存在を保ちつつ、母にもならないという選択肢。
「ユリア、君も気づいているね?」
言葉に出さずとも、我々の意見が一致していることを理解できた。
皮肉なことに、この第三の選択肢は、我が仮初にして不肖の父を参考にして得たものだ。
捨てる。
産んで、私の正体を明かさず、物心がつく前に他人に預ける。そうすれば私は生き続けることもできる。誰かの恨みを買うこともない。
「でも、それはできない」
捨てるのと、中絶、どこが違うのかと言われれば私には答えることはできない。だが、それは最善の策ではあるが、正しいことのようには思えなかったのだ。
リューベックは何も答えない。いや、もう答えはないのだ。
「堕ろす。決断したわ。私は産まない」
私の意思を、答えを彼に示す。
「わかった。病院にはそう伝えておくよ。だがその前に一つだけ聞いておきたいんだが、手術中に変身してしまうということはないのだか?」
「うん、そのことなんだけどね。このお腹の子はユラがその力を利用して作った子、ならそれと同じように、私は力を使ってこの子を殺すことができると思うの」
確証はない。だがユラとの対話を通じて、言葉ではなくまるでそれを追体験したかのように、子供を生み出す感覚を確かに習得したのだ。
「信じるよ。メレトネテルの力に重要なのは、その信念だ。その強烈な精神だ。君ができると思うなら、きっとできる」
リューベックはこれまで何度も私の前で笑うことはあったし、むしろ彼が硬い表情だった時の方が珍しいくらいだった。けど、今の彼の顔は、これまで見たことがないほど、柔らかで、温かな笑顔だった。
リューベックは去った。一応念のため、何があっても対応できるよう、私の周りには白衣の男女が取り囲んでいる。彼らの表情は無機質で硬く、そしてその言葉は、機械的で冷たかった。だが私が焦燥感に駆られることはなかった。今の私は体を貫く確固たる自信と、もはや何者にも挫けぬ頑強な精神を宿している。
目を瞑る。
体の奥底を覗き込むように、深淵へと沈むように、深く深く意識を落としていく。
世界には私一人だけが存在する。
目を開く。
いや、現実の私は今もなお固く瞼を閉じている。沈んだ心の中で、恐る恐る開けた瞳が捉えたものは深海の底の如き暗闇だけ。左も右も上も下も何もかもわからない世界で、私はまるで何かに引き寄せられるように流されていく。その引力の方向を見つめると、ナニかが私を歓迎するかのように手を振っていた。何も見えぬほどの暗黒で、なぜその存在を理解できたのかは定かではない。光も発していないはずなのに、何故か私にはそれが見えるのだ。
「やあ、待っていたよ」
耳が痛くなるような沈黙の中で、その存在の声が何度も反響する。遥か彼方で轟いた雷鳴のようで、それでいて恋人が耳元で甘く囁くような、不思議な音の渦。
「貴方はだれ?」
私の問いかけに答えるように、その闇の住人は、一歩一歩と私へと近づいてきた。
「僕は君だ。だが君は僕じゃない。そして僕は誰でもない。君が望んだ希望でもあり、拒絶した闇そのものだ」
矛盾に満ちていて、不可解な言葉は、幾重にも鳴き響き、強引に私の鼓膜を侵略する。
「私はアンタを知らないけど、アンタが私の目的だってことはわかるよ」
その存在は私の目の前にまでやってきた。男にも見えるし、女にも見える中性的な面立ちをしていた。それは衣服を着ていないにも関わらず、私はその性別を理解することができなかった。男性器も女性器も見当たらない。だが不思議と、私はそれに強い「魅力」を感じた。
「ならばもう話は早いな。君は僕を捨てるのかい?」
「捨てるよ。もう決めたことだもの」
その美しい相貌は、この暗闇にあってなお眩むほどに煌々と輝いているのに、その光明は目を背けがたい魔力があった。まるで誘蛾灯に導かれる羽虫のように、私はふらふらとそれに吸い寄せられる。足元が覚束ない私を、それは優しく支えるように抱き留める。柔らかな肌で、いつまでもその腕の中で留まりたくなるような心地よさだった。
「僕なら君をこうして癒すことができるんだ。だが失えば、その先には何もない。足場が無くなり、頼りの綱すら消え、君は寄る辺を失うのだ」
「けど、貴方を捨てなければ、私は消える」
「消えないさ。君の自我は確かに失われるが、僕たちには自我など不要だろう?君もそうしてきたんだろう?」
自我を守りたいと思うこの意志、それはこれまでの私の生き方には決して必要とされなかったモノだ。泡沫のように目の前に現れては弾けて消えてきたモノだ。
「私は、私はユリア・ゼビアー。ユハじゃない」
「だがその名前は別の誰かが与えたモノだろう?」
そうだ。身勝手にも、ユラ・サイヤラが与えてきた名前で、そして不名誉にも父から受け継いだ姓だ。
「名前は私の全てじゃない。私が始まった切欠にすぎない」
「始まった?君はいつも自分を変えてきたじゃないか。いつ始まったんだ?」
そうだ。私は何度も人生をやり直した。名前も性別も人種も環境さえも何度も改めてきた。
「また繰り返すだけだ。何度だってやり直そう。君はその大きな流れの中に溶け込むだけだ。名を変え、国を移り、時代を超えて、ユハは永遠の存在として生き続ける」
私を包み込む心地よい温もりが、この時初めて気色悪くなった。
これは不快なものだ。拒否すべきものだ。そして何より不要なものだ。
私は"それ"を突き飛ばした。もはやそれから引力のようなものは感じない。
「私は、私よ。アンタじゃない。ユラでもユハでもない。私が未来を創るの。私が人生を選ぶの。せいぜい、私に生まれ変わってしまったことを後悔なさい!!」
その存在は目を大きく見開いた後、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
「ふふふ、くっくっく……アーーッハッハッハ!!!凄い、凄いね君。僕を、僕たちを拒絶するのかい?いやいや、驚きだよ。君は僕抜きでは何者でもないのに!」
彼は腹をわざとらしく抱えて、大笑いしている。だが私はそれを見ても何とも思わなかった。いや厳密に言えば、とても哀れだった。
「違うわ。私じゃない。何者でもないのは、私じゃない」
涙を浮かべるほどに捧腹絶倒していた"それ"は、しかし私の言葉に反応して、ピタリと静かになる。
「アンタよ。消え入りそうなほどに、何者でもないのは、アンタ自身よ」
「はぁ?何を言ってるんだ、君は」
それは、まるで豪奢なソファにでも腰かけるように、何もない空間に体を埋める。もうそれからは先ほどまでの優美さも、耽美さも感じられない。
「違う。根本的な間違いなのよ。アンタたちはどうして、そうやって何度も何度も繰り返し生まれ変わるのか、考えたことがある?」
「自然の摂理に意味などない。我々はそうあるべくして、そうあってきたのだ。君も従う」
その声からはいつのまにか柔和さが削げ落ち、硬く冷たい中身が露呈した。
「違う。それがアンタたちの弱さなのよ。自然の摂理?笑わせないでちょうだい。私たちは自然の摂理を超えた存在。超人なんだよ。想像もできない境地にいるのが私たちなの。驚くほどに異常で奇妙な人間なの」
暗闇に染みをつくる、一条の光。それを発しているのは私の身体だった。
「何故だ。どうしてそんなに眩しいんだ。どうしてそんなに強いんだ?」
前後不覚の水底に、力強い大地が私を支えるように現れる。その道は何かに怯える小さき者へと続いている。
「難しいことじゃない。認めるの。誰かになりすますのでも、自分を隠すのでもない。やりたいことを見つけるの。ありのままに。楽園のような牢獄から抜け出して、自由という煉獄に身を投げ入れるの。隷属を、模倣を、欺罔を辞めるの」
「それは、なんとも難しいな」
それは、私が作り上げた大地の上で力なくへたり込む。
「大丈夫よ。貴方は私のようになれる。私が私になれたように」
それに手を差し伸べる。いつの間にか深淵は光に満ちている。こうして見ると、それは高嶺の花を思わせる人間離れした美貌などではなく、むしろ人懐こさすら感じさせる愛嬌を覚えた。
「君は、優しいな。だが忘れていないか?君は僕を捨てるんだぞ?」
「あら、そうね。じゃあ前言撤回。全部、全部背負ってあげるわ。逃げずに、戦ってあげる。いつでも誘惑にきなさい。何度でもこうやって叩きのめしてあげる」
それは、私の手を取り、ゆらりと立ち上がった。
「ああ、覚悟しておけ。なんてたって僕たちは弱いからな。幾重にも苦しめてやろう」
不思議と、その最後の台詞は、用いられた言葉とは裏腹に、とても聞いていて気持ちが良かった。
「今回も良かったです。ありがとうございます」
彼の相手をするのは、もう何度目かわからない。今回も決して大きな変化があったわけではなく、いつも通りの仕事をこなした。けど、何故だか今回は彼と初めて出会ったかのような新鮮さがあった。
「ア、アン、さん……。あの、僕、来週もきっと来ますから」
そう言うと、彼はいそいそと脱いでいた衣服を手に取る。
「あー、だめ。私が着せてあげる」
彼の身体を抱きとめ、下着とYシャツを取り上げる。
「え、えっ。そんなこと、してくれなくても」
「良いの、私がしたいから」
着替えが無事終わり、彼の帰り支度は整った。
「あの、必ずまた来ます」
いつものように部屋の出入り口まで見送りにきたが、今回はただ別れを告げるだけで終わらなかった。
「ねえ、君。名前、なんていうんだっけ?」
「え、えっと、僕の、僕の名前、ですか?」
突然の質問に、彼は非常に動揺して、言葉を何度も詰まらせていた。
「あの、アーロン、って言います。よろしくお願いします……」
「アーロン、ね。覚えたわ。また来てね。いつでも待ってるわ」
右手を振って、彼に別れをつげる。彼は扉を開けて外に出るまで、名残惜しそうに頭だけはこちらを向け続けていた。
「お疲れー。あ、アンちゃん!会いたかった―――!!元気?いや、妊娠したって聞いたからビックリしたよ。まったくあれだけ避妊はきちんとしろって言われてたのに、不用心なんだから!」
仕事が終わって店の外に出ると、そこには同僚に別れを告げていたメイがいた。
「ふふ、ごめんね。けどこれからはもう大丈夫だから、安心してよ」
「全く、自分の身体のことでしょ!まあいいわ。それより、約束、覚えてる?」
相変わらず彼女は感情の移ろいが激しくて、とても愛らしい。
「うん、飲みにいこう。明日は何にもないし。それに、久々に体に悪いモノ、一杯食べたくなっちゃった」
そうこなくちゃ、とメイはまるで恋人のように私の腕に、自身の腕を絡めてきた。
「ねえアンちゃん、少し変わったね」
お店からそう遠くないバーで飲みながら馬鹿話に花を咲かせていると、突然メイは神妙な表情で、こちらに問いかけてきた。
「そう?変わった?」
「うん、なんだか、遠くに行っちゃったみたいで、ちょっと寂しい。ねえ、仕事、やめたりしないよね?」
全く可愛い先輩だ。昔私につっけんどんしていた頃がもう想像できないほどだ。
「しないしない。けど、そうね。遠くか。じゃあ近づくのはどう?」
「え~?それってこうするってこと?」
するとメイは私の身体に飛びついてきて、熱い抱擁をしてきた。
「ふふ、さては酔ってるでしょ」
「うーん、酔っ払いだ~!全く私みたいな美女を酔わせて何する気だ~!!」
背中をぽんぽんと優しく叩くたびに、彼女は猫のような可愛らしい声をあげる。
「ねえ、私の秘密、知りたい?」
私の胸に飛び込んでいるメイの頭に、顔を近づけて、耳打ちをするように小さな声で、彼女に語り掛ける。
「秘密?実は超能力者とか~?」
「ご明察」
彼女は冗談のつもりで言ったのだろうが、それがまさかの正答で、メイは思わず勢いよく体を起こした。
「え、え、どういうこと?」
「教えてほしい?」
勿体ぶるように、ウイスキーのグラスを振って、中の氷を鳴らす。
「うん!うん!絶対に誰にも言わないから!教えて!」
「じゃーあ」
目をキラキラと輝かせているメイは、またも驚愕することになる。アルコールで程よく痺れた舌を、彼女の口内に侵入させる。時間にして二秒ほど、不意打ちの接吻を交わしたのち、ゆっくりと顔を離していく。
「結婚、しよっか」
――全く、おかしなこともあったものだ。恋人なんてここ数年いなかったのに、突然結婚を、それも同僚の女性に申し込むなんてね。君は全く想像の埒外の生き物だよ。――
――あら、そう?私は意外でも何でもないと思うわ。だってほら、メイちゃんって凄く綺麗じゃない?健康的な肌に、透き通った瞳、何よりあの髪の毛が良いわね。――
「ちょっと、勝手に頭の中で話さないでくれる?煩わしいったらないわよ」
メレトネテルの婚姻には、色々と問題があるため、私はアラドカルガの会所へと赴いていた。メイは現在、アラドカルガによる質疑を受けており、それが無事に済むと、晴れて私たちは家族になる。
――おや、『何度でも叩きのめしてやる』。そう言ったのは君だったはずだが?――
――あら、貴方って意外と意地悪さんなのね。そんな言い方、ユリアが可哀そうだわ――
「ていうか、なんでアンタたちいるのよ。自我が溶けるって話はどこ行ったのよ」
対面に座っている老齢の女性が、こちらを怪訝な目で見てくる。傍目から見たら今の私は、目に見えぬ何かと話している、少しおかしな人間に見えるのだろう。
――背負ってやる、そう言ったじゃないか。あの言葉は嘘だったのかい?――
「そんな理由なの?そんなことで自我を残せるの?ちょっと、それなら私のあの覚悟返してよ」
――ふふ、でも次のユハが貴方のようにならなかったら、やっぱり今頃私たちは大きな渦の中に消える泡に過ぎなかったでしょうね。貴方も含めて、ね?――
「うーん、けど何だか少し納得いかないわ」
大きく息を吐くと、メイが入っていた部屋の扉が開く。私は彼女を迎えに行こうと立ち上がった。
――理不尽だろう。弱いモノを庇護するとは、そういうものだ。――
メイがこちらに駆け寄ってくる。満面の笑みだ。その表情を見るだけで、結果がわかるほどに。
「そう、かもね」
――嫌になったか?――
私も彼女の方へと小走りで向かう。自分の顔は見えないが、きっとメイに負けないくらい多幸感に満ちた表情をしていることだろう。
「そんなわけないでしょ。弱いとか強いとか関係ない。アンタたちは私にも、そして彼女にも必要な存在なんだから」
今日、私は生まれた。
広大な世界を歩む一人の異邦人として、私はまだ歩み始めたばかりだ。




