ウェルウィッチア 最終節
「ごめーん!待った?」
「ううん、今来たところ」
こんな恋人の甘い会話が耳に入ってくる。駅前の椅子に座り、雑踏を眺めているだけだったが、どうしてだかこの会話だけは鮮明に聞こえてきた。
「嘘つけ。お前三十分以上そこで待ってたろうが」
先の男性に向けた言葉ではあったが、人々の足音や話し声にかき消され、二人に声が届くことはなかった。今の自分と類似した状況にあった男性への同情か、それともあっさりとその現状を許してしまったことへの怒りか、あまりいい気分で無かった。
私も恋人がいたが、同じような状況に陥ったことがある。女性経験は少なく、曰くデリカシーの無かった自分は、先ほどのような甘い返しをできる筈もなく、正直に真実を述べてしまったことを覚えている。そして今も、その時を反省している、なんてこともなく
「はぁ、男の甲斐性だとか、女は度胸だとか。全くこの男女同権の世に、何故こんな前時代的な考え方が横行しているんだ。誰もおかしいとは思わんのかね」
と、やはり文句ばかりを垂れていた。駅前で一人の男がそんなことを口走っているのは普段なら大層おかしな風景だろうが、今はそんなことを気にするものはいない。駅前にいるものはその全てが男女のカップル。十二月二四日という、私からすれば何の変哲もない日だが、世の大半の人間にはそうではないらしい。兎に角、自分たちの幸せで手いっぱいな人間達に、不幸な面を下げている一人の男が視界に映るはずもなかった。
時間を確認すると、十三時を既に回っていた。約束の時間を一時間も超えている。最初も彼女は約束の時間から遅れてきたが、あの時とは事情が違う。今回は私に一辺の非は無く、加えてあの時よりも遥かに遅い。何度ついたかわからない溜息を漏らす。
その時、突然視界が暗くなり、
「だーれだ?」
とどこかで聞き覚えのある声が背後から聞こえてくる。その声は先ほどの恋人たちのそれにも勝るほど甘美な声だった。もしこれが”本当に”恋人のものだとしたら、さぞ嬉しいものだったに違いない、が。
「お待ちしておりました。八坂様。遅かったではありませんか」
無論、わざとだ。相手が期待している答えを二重も三重も裏切り、逆なでするかの如き言葉を発する。
「けっ、可愛げのねえ。それでも男かい」
「ええ、勿論。なんなら私の性別をご確認なさりますか?」
「余計な世話だ。それと、その口調やめろ。言ったろ、今日、お前は俺の……私の恋人なんですよ?しっかりしてくださいな」
口調が聞きなじみのある男口調から、先ほどの甘いものへと戻る。それと同時に私の視界が再び光を取り戻す。
「すみません。約束とはいえ、恋人の真似事は……」
後ろを振り返りながら、八坂氏に話しかけるが、彼女の姿を見た途端、言葉が喉からでなくなる。
風になびき輝く黒い髪、控えめな化粧で最大限に魅力を引き出された顔、そして深い藍色で染まった和の装束。その全てが美しくて、ありていに言えば見惚れていた。
「あらぁ?あららぁ?」
私が言葉に詰まっているのを見て、ニタニタと笑う少女。
「もしかして、私に見惚れているんですか?ふふ、可愛いところもあるんですね」
とわざとらしくからかう。だがこの言葉にさえも上手く返すことが出来ず、再び固まる。
「こういう反応は新鮮です。時間をかけて準備した甲斐がありました。先ほどの無礼も、許してあげます」
口内の唾を飲みこみ、深呼吸。息を整え、軽く咳き込み、必死に紡ぐ言葉を探す、が
「じゃあ、行きましょう、リューベック様!」
と演技とは思えぬほど、自然に破顔して、私の右手に彼女は腕を絡める。思いもよらぬ行為の連続に、思考は再び停止し、彼女に腕を引かれるまま歩き出したのだった。
人ごみの中歩くこと数分、アーケード街へと入り、目的地に到着する。その道程で彼女は何度か声をかけてきたが、私は適当な相槌を打つことしかできなかった。彼女の指示通り、丁寧な言葉遣いをやめているため、妙な気遣いが無く、その点では普段よりも荷が軽い。
しかし彼女の前では、どうにも口が動かない。脳が働かない。確かに彼女は美しいが、私はそれだけで動揺するほど、女性慣れしていないわけではない。男女の付き合いだって人並みに経験している。私が初心だから、というよりはむしろ、彼女が男の扱いを良く心得ているのだ。そんな私の様子を、彼女が放っておくわけがなかった。
「ねえ、リューベック様?」
「なんですか?八坂様」
「もう!敬語はやめてくださいな!それと私のことはアカリと呼んでくださいませ」
自身は敬体で話しているというのに、私には常体を話せという。まるで得心のいかない要望であるが、反抗する気にもなれず、
「ああ、わかったよ。……アカリ……さん」
と、要求を渋々呑んでしまった。その様子をさらに彼女は面白がり、添えていた右手で隠しきれないほど口角が上がっていた。
「ふふっ。貴方、今の状態の方が面白いですよ?普段からその感じにしてはどうですか?きっと女性には受けがいいと思いますよ?」
などと幾度も揶揄してきた。しかし私は
「……お互い様だ」
と、他愛ない返答しか思い浮かばず、結局それを見て、彼女は愉快そうにくつくつと笑うだけであった。
「さあ、着きましたよ。この映画館、私のお気に入りなんです」
「映画館、ですか」
「もう最近は見かけないでしょ?昔は休日なら、人だかりができたものですが……」
そこで彼女は言いよどむ。その映画館には見事に閑古鳥が鳴いていた。
館内に入り、映画のチケットを二枚購入する。以前のカフェでは、
『勘定は俺が済ませといてやる。気にすんな。どうせお前ら機関から貰った金だ』
と、自分で会計を済ませていたが、今回はどちらも私が購入することになった。ここで文句の一つでもつけてやるのが、私の個性ではあるが、無論、この時も何一つ言い出すことはできなかった。
映画館の外装は、やや古いものだったが、内装は調度品も含め、美しく整っていた。映画館という存在は、すっかりポストモダニズムの典型となっており、この館も例にもれずレトロな空間を装っていた。
映画自体は、とりとめのない恋愛映画といった風だった。それほど映画に精通しているわけでもなく、特にラブロマンスとなると更に知識が希薄となるが、今回の映画はよく言えば王道、悪く言えば紋切り型のものであった。
高校生で付き合った男女の甘酸っぱい恋愛模様、何もかも幸せだと思っているところに、彼女が病に伏すという、唐突な不幸が訪れる。死という永遠の別れで幕が下りる悲恋の物語。
映画を鑑賞している中で、少しは冷静な思考が可能になった。むしろいつもより脳が回転していると言ってもいい。だからこそ、普段は記憶にも留まらないような、興味の対象外であった映画さえも、いろいろと考察をしてしまう。
例えば、八坂アカリは、この映画のヒロインをどう思ったのだろうか。
例えば、他人の死ではなく、自分の死による別れを、彼女はどう思うだろうか。
「ねえ、リューベック様?」
映画館を出たタイミングで、アカリに話しかけられる。彼女の表情は喜色も憂色にも見えない、複雑なものだった。
「どうかしまし……したか?」
「えっと、あの映画、どうでしたか?」
困る質問だった。女性と一緒に見た映画を『つまらない』と言うのは流石に気が引けるが、彼女のこの質問の意図が、私の感性との同意を得るためであるなら、ここは正直に行くべきだ。しかし
「私の趣味には合わなかったが、恋愛映画としては良くできていたんじゃないか?私も決して映画に詳しい訳ではないが、ストーリーも王道で悪くなかったと思う。」
結局私は当たり障りのないことを言っていた。これはある意味何一つ興味がない、と言っているようなものではないか。もう少し上手い弁説でも思い浮かばなかったかと、後になって後悔するほどであった。
「ふーん。そうですか。」
まるで私の興味の無さを反映させたかのような、返答をするアカリ。
「そういう、アカリさんはどうだったんだ?是非、映画をいくつも見てきたであろう貴方の意見を聞いてみたい」
「ええ、私は面白かったです」
自分の想像とは異なる見解に少しばかり面を喰らう。正直なところ彼女はこういった月並みなものを、勝手な私感ではあったが、好まないと思っていたからだ。勿論、私の感想に合わせてくれた可能性もあるが、それでも自身の意見を他に合わせるために曲げるような人とは思えなかった。
「ああいう、王道というか、古典的なものは好きです。この映画館しかり、移り行く世の中で、何も変わらないからこそ貴いものもあると、私は思いますよ」
それからも、彼女のこの映画に対する感想は続いた。彼女の感想は実に聞きごたえがあり、成程と、この映画に対する見方さえ変わるほどであった。彼女はかなりの映画好きのようで、時には過去の映画や、監督たちを引用して語ることも多かった。その専門的な知識の濁流の中で、私が理解できたものは恐らく半分ほどしかなかっただろうが、それでもなお、彼女の語る映画論は十二分にこの映画の魅力を引き出していた。
このやり取りの中で、もう一つわかったこともある。彼女の最初の印象は、かなり強気で男勝りな雰囲気であったが、恐らく今こうして女性的に振舞っている姿も、決して人付き合いの為に被っているペルソナなどではなく、本質の一つに他ならないということだ。私が敬語を話す時のような、他人付き合いの為の表情であれば、簡単に見抜ける。嘘を見抜くのは得意だ。そういう外面的な上っ面というのは、例えどれほどに厚かろうと、必ず綻ぶ時が来るものだ。だが彼女の今の表情には一点の曇りもなかった。
つまり、男口調で、自信に溢れる先日の性格も、時代や人間の変化に怯え、庇護欲を掻き立てられるような今日の性格も、どちらも彼女の本質ということだ。
ともすれば多重人格ともとれる、そんな彼女の異様さは、一体どれほどの時間をかけて培われたものなのだろうか。
「ねえ、リューベック様?」
考えにふけっていたせいか、アカリは私が上の空になっていた様子を怪訝な表情で伺っていた。
「あ、ああ。すまない。少し今後の予定について考えていたんだ。これから食事に行こうと思うんだけど、少し早いかな?」
今の時間はまだ十七時。夕食時には少し早いため、一応伺いをたてる。
「ええ、かまいませんわ。私も今日は朝ごはんしか食べていませんから。どこに連れて行ってくれるのですか?」
ただ、コロコロと表情を変えるところは、昨日も今日も変わらないなと、少し安堵した。
夕食に選んだのは、和食で、そこそこに値の張る料亭だった。教えてくれたのは私の同僚たちであったが、どうやら間違いはなかった。
出てきた料理は、よくある懐石料理といった感じではなく、家庭的な和食を突き詰めたようなものが多かった。焼き魚や、味噌汁、煮びたしなど、飾った料理ではなかったが、味に関しては言うことなしであった。どれも味は濃すぎず、絶妙な塩加減を保っており、それに合わせて白米を食べると、どんどん箸が進んだ。全体的に野菜が多めではあったが、どれも決して薄味ということもなく、最後まで飽きることなく食指が動き続けた。
彼女も次々に出てくる家庭の味に、舌つづみを打っていた。
「ああ、美味しかった!ふふ、あんな美味しいきんぴらごぼう、初めて食べました!」
料亭を後にして、川沿いを歩いていた。冬の夜で、川沿いということもあり、肌寒くはあったが、少し酒を飲んでいたため、むしろその寒風が心地よく酔いを覚ましてくれていた。
彼女もまた、手を横一杯に広げて、風を感じているようであった。彼女はお酒を飲んではいなかったはずだが、どうやら寒くはないらしい。
彼女は満面の笑みを浮かべていたが、その表情は今まで見せていたような相手を嘲笑するような邪悪なものではなく、見ているこちらまで多幸感を得るような、素敵なものであった。
「”今日は楽しかったですか?”」
こちらの言葉に反応し振り返る八坂アカリ。一度下をうつむいてから、再びこちらに顔を向けると、その表情は先ほどまでの少女の華やかさを纏ってはおらず、”年相応”の落ち着きを取り戻していた。
「おう、及第点あげてやるよ。間違いなく今日は楽しかった。」
この一通りの会話は、仮初の”男”と”女”の関係に終止符が打たれ、”研究員”と”被験者”に戻った合図であった。
「そうですか、私としては上手くやれているか心配でしたが、どうやら恙なく振舞えていたようですね」
「まぁ、な。けど残念だが、お前に惚れるほどではなかったな」
楽しそうに目を細めていた表情は、双眸が見開かれ、他者を委縮させるか如き睥睨へと変わっていた。
「ええ構いませんとも。貴方が私の検査を許してくれる程度の好意で構いませんから」
「おいおい、どうして私が好意を抱いているって……ああ、そうだったな、あんたらは」
不敵な笑みを伴った慇懃無礼な態度は消え、真摯な姿勢を取っていた。それは先日、喫茶店で”三代目清水”と呼ばれる男性に、私が迫った時に見せた表情とそっくりだった。
「まあ、いいや。それより、アンタ。こういうことは慣れているのか?」
「貴方ほどではありませんけどね」
辛気臭い空気を払しょくするためにも、冗談交じりに返事をする。が、どうやら逆効果だったようで
「ま、色々あったからな」
彼女の黒い瞳は真っすぐに遠くを見つめていた。その視線の先にあるのは黒い空。星なんてものもあるはずもない、都会の夜空。
「ろくでもないのもいたが、全員良い男だったよ」
近くの木製のベンチに座りながら、遠い過去を語る。
「両親が逝った時、俺は三十歳かそこらだった。二人とも俺が生まれた時には五十過ぎだったからな。亡くなるのも早かったさ。オヤジが死んだときは悲しかった、けど」
私も彼女の隣に座る。もはや必要のない恋人のフリではあったが、今は仕事の関係ではない、友人として振舞うべきだと感じたからだ。
「何より悲しかったのは、俺はオヤジの娘として葬式にでることはできなかったことだ」
考えてみれば当然の話だ。八十近い人間の娘が、四つかそこらの幼子であるのは道理にあわない。かといってデザインドと、公の場で言うこともできない。
普通の人間として生きることは許されない。艱難辛苦の数々は想像さえつかない。そのうえで、親子という、自分が普通であることの唯一の証左さえも否定された。
「二人とも逝っちまった後、私を引き取ってくれたのは一人の女中だった、ってのは知ってるよな。いや厳密にいえば元女中か?あの人は当時、既に女中をやめていて、俺を引き取った時にゃ、結婚までして丁度お腹に赤ん坊もいたんだ」
確かに、それは記録に載っていた事項だ。そしてその息子というのは他でもない、
「ああ、最初の旦那だな。あいつが生まれてから十年以上、姉弟のように暮らしてたっていうのに、突然好きだと言われたんだから驚きだよ。その時の俺は見た目五歳くらいだぜ?思えばあいつ、犯罪者みてえなもんだな」
昔語りを始めてから、ぎこちなくも初めて笑顔を見せるアカリ。
「ああ、そうさ。かくいう私も物好きだ。あの年で初恋なんてものにときめいちまったんだからな。ああやだやだ。思い出すだけでも恥ずかしいよ」
初めての結婚。勿論公なものでもなく、法的なだけのものでしかなかった。色々と縛りも多かったのは想像に難くない。だがその思い出を語る彼女の表情は、決して不幸なめぐりあわせを嘆くものではなかった。
「ガキも産めない、夜を満足させることもできない。勿論仕事もできない。家事も……まあ片づけくらいはしたさ。俺はよ、あいつにしてやれることなんてせいぜい、お前たちから貰う金を渡してやるくらいしかなかった。けどあいつは『それは将来の備えのため貯蓄しておけ』ってな、結局何もかも、あいつがしてくれてた」
「いい人だったんですね」
「おう、俺の旦那にはあんまりにも勿体ない器だったよ。ま、結局わかれちまったんだけどな」
再び彼女の記録を思い出す。最初の結婚生活は十八年間と四か月続いた、とある。
アカリは当時七四歳、相手の男性は三六歳。二倍近く離れた年齢ではあるが、見た目だけならアカリは彼の娘にしか見えなかっただろう。彼らが離婚した理由については想像に難くない。むしろ多くの人間はそのストーリーを知れば、「良く続いたものだ」と賞賛さえするだろう。その後、彼もアカリも再婚をしている。どちらも二年以内に。しかしアカリは長続きせず、反対に男性は子も儲け、その後八十歳まで生きたとある。
「まぁ、その後の男はちょっと残念な野郎だったな。見てくれだけはよかったんだが。結局俺もその時は愛に飢えてただけの小娘だったのさ。見た目通りのな。今にしてみれば、そいつに多くのものを奪われたが、少なくとも当時の私はそれで満足だった。そういう意味では感謝してるさ」
二回目にして最後の婚約を結んだ相手は、他ならぬ我々機関の人間であった。彼女を当時担当していたもので、彼は彼女が永遠に若いことを理由に交際関係に至ったそうだ。詳しい話はわからないが、結局彼とも数年で離婚することになる。
「愛に飢える、とは。今の八坂様なら想像がつかないですね」
「くっくっく。そうさな、良い笑いモンだよ。懲りずに何度も男と付き合って、またフラれて。今にして思うと、結局私は最初の一人からずっと、新しい家族を欲してただけなんだろうな。もう一度、あの時に戻りたかった。事情を知らなかったから、その後付き合った男の殆どは、私の中坊みてえな貧相な体が好きな、ロクでもない連中だった。けどよ、あいつらは少なくとも見てくれは気に入ってくれてたんだ。俺はそんなことすらしなかった。中身どころか外面すら見てなかった。全員俺が一番ろくでもないことに気付いて、サッサと逃げちまった、よっ!」
ベンチのそばに落ちていた小石を彼女は拾い、川に思いっきり投げつける。ぼちゃんという音があたりに響き、弱弱しい明かりを放つ街灯に照らされた水面には波紋が広がっていた。その波紋が消える頃に、再び彼女は口を開いた。
「ゆっくりと、第二次性徴が終わって、ようやくまともな女の姿を手に入れたと思った矢先、最初の旦那の訃報が届いた。俺はそん時に気付いた。何度も得ることは、同時に何度も失う事だった。俺はそれから自分がいかに世間知らずのお嬢ちゃんかを思い知ってな。それから三十年くらい、大学をとっかえひっかえしながら勉強の毎日さ」
「それじゃあ」
男が大学に変わっただけではないか、そんな冗談を思いついたが、口には出さなかった。
私は黙って立ち上がり、彼女の手を引き再び歩き出した。
突然の行動に、どうした、と声をかけるアカリ。続けて私は黙りつづけるが、それがかえって彼女に事態を悟らせることになった。
「おいおい、まさかとは思うが」
流石というべきか、彼女はこういうことに慣れているようだ。確かに記録にも何度か経験があると記載されていた。
「一人です。銃火器を持った男。心拍数は早い。物陰からこちらの様子を伺っている。丁度私の背後、二十メートルほど先です。覚られぬよう、何か歓談を続けてください」
「へいへい、わかったよ」
それは周りに聞こえないような小声の対話であった。その後、アカリは私の言いつけ通り、他愛のない話を続けてくれた。私は適当な相槌を打ってはいたが、意識は常に背後の男に向けられていた。
「で、どうすんだ。そいつは襲ってくるのか?」
歓談の合間に、小声で相談を織り交ぜる形がおおよそ二分ほど続いた。
「ええ、多分。正確ではありませんがおそらく五分以内に。本部の方には連絡済みですが、恐らく間に合わない。それに単独の犯行となると、恐らく彼はその筋で活躍している人間かと。手ごわそうです」
「おいおい、この検査の日はお前ら組織が、しっかりと事前に調査しとくんじゃないのかよ。最近はこういう不手際も減ったって聞いていたんだが?」
彼女は私の左腕に両腕を絡めながら、こちらに状況などを聞きただしていた。演技のつもりであるのだろうが、その行動にはわずかながら、彼女の恐怖を感じ取れた。
「人通りの多いところには恐らく出られません。大声は……出すだけ無駄でしょう。ですがちょうどいい。彼は出来れば捕まえたいところです」
周囲は既に人通りが殆ど無い。かといってここから一番近い町は人に賑わう繁華街。男と女二人の悲鳴など、恐らく聞き取れはしまい。
「手ごわいんじゃないのか?」
恋人のフリを再開してから、二人とも前を向くだけであったが、その時初めて顔を合わせた。声色だけでは曖昧であったが、彼女のその表情には間違いなく恐怖の色が出ていた。
強い女性だ。
本来なら怯えて震え出してもおかしくはない状況。それでもなお、着丈に振舞い続け、私の助言を守っている。やはり場数を踏んでいるだけはある。
「逃げる方が、勝算は低いです。恐らく動く相手にもあたるタイプの銃だ。それに……」
彼女の不安げな表情とは対照的な、自信ありげな表情を彼女に見せつける。それは単なる自負心の現れだけでなく、彼女を落ち着かせる意味もあった。
「あいつは、人をさらったことも殺したこともあるだろうが、我々を相手にしたことがないようだ」
これは決して彼女のためについた嘘などではなく、純然たる事実だ。
「動くな」
背後からの声。先ほどからついて回った男のものに間違いはない。
「振り返るな。大声も出すな。今お前たちを銃が狙っている。決して外さない。だから逃げようなどとも思うな」
淡々とした事務的な声が響く。必要事項を最低限、それは何度もこなしてきた作業といったようであった。
「そこの男、貴様がアラド・カルガに所属するものであることは調べがついている。私のクライアントは貴様の生死は問わないと言っている。だからもし抵抗したければ存分にしろ。私は貴様の死体を依頼主の下へ届け、報酬を受け取るだけだ」
不幸中の幸いか。この男は私の隣にいる人間が、メレト・ネテルであるとは気づいていないようだった。本来こういった拉致計画などを我々は常に監視しており、大体未然に防げることが多い。今回も例外なく、八坂アカリを対象にした拉致計画などを事前に調べつくしていたはずだった。察知できなかったのは恐らく私を対象としていたからであろう。
「話してもいいか?」
「今の声量なら構わない。続けろ」
交渉には乗ってきた。これなら何とかアカリを遠ざけることもできそうだ。
「隣の彼女。彼女は私とはプライベートな付き合いの関係だ。勿論アラド・カルガなんてものも知らない。だからもし君が仕事以外の無駄をしないのであれば、彼女は逃がしてあげてほしい」
わずかに沈黙、彼は数秒の思案の後、再び口を開く。
「最近の貴様に、女性関係は確認していない。一人で過ごしていることの方が多かったはずだ。その隣の女は本日の計画唯一の不安材料だ。どちらにせよ口封じすることになる。それは叶わない」
ああ、わかっていたとも。そう簡単にはいかないことも。しかし本命はここからだ。今のやり取りは、純粋に彼との会話を続けるための仕込みでしかない。
「わかったよグラント」
「……何?」
八坂氏もきょとんとした目でこちらを見ている。今口にした名前は何だと言わんがごとくに。しかし背後の男性は、唐突なことに声が震えていた。
それはそうだ。なぜなら彼はいきなり隠していたはずの本名を呼ばれたのだから。そしてこれで、彼には大いに付け入るスキができた。
「P-三〇〇五、通称アクケルテ。自動照準機械小銃。人間に銃を向けるだけで、照準を勝手に合わせる優れものだから、本人の技量をそれほど必要としない。しかしDNA照合付きで本人しか撃てないし、撃てば自動的にこの銃を管理している会社に、誰がいつどこでその銃を撃ったかが記録されてしまう。そうした規制を全て解除した非合法品ってところだな。今流行りの奴だ」
勿論未だ彼の顔も、彼が構える銃も見てはいない。ずっと彼に背後を向けたままだ。だが彼は狼狽え続ける。それは何より我々アラド・カルガと一度も対峙したことのないことを証明していた。
「貴様、なんだ?よっぽど殺されたいのか?」
「いやいや、そんなことはないさ。私は死にたくなんてない。うん?君機械義手か?左腕……いや右足もか。そうか、それは都合がいい」
「なぜ……なんだ、なんだお前は」
これで奴は落ちた。もう恐らく彼は私が振り返ってもいきなり撃つことはないだろう。いやそもそも、もうあの銃は使い物にならないが。
「さっき自分で言っていたではないか。これが、アラド・カルガだ」
その一言は、私とグラントにとって合図となった。グラントは私に銃を構え、引き金を引く。だがその銃口からは鉛の弾丸は飛び出さない。彼は驚いた様子で何度も試すが、火花を散らすことはなかった。私は彼に走って近づき、彼は銃を捨て私に格闘を挑む姿勢を見せる。
勿論、彼と私が殴り合えば、彼の圧勝に終わる。彼の義手義足もまた非合法の品であり、それを暴力に使えば、常人を殺害することなど容易だろう。だがそれも、きちんと機能しなければ、二十キロを超えるただの重りに過ぎない。
構えていた彼の左腕は、突然操り人形の如くだらんと垂れる。体勢を立て直そうとするが右足もまるで地面に根を張ったかのように動かないことに気付く。
そして彼が再び顔を向けた時、私は彼の左頬を思いっきり殴りつけた。
彼はそのまま左、つまり川に向かってよろめき、そして大きな水音を立てて墜落した。
「ぐ、が、は。た、のむ。足が動かないんだ。このままじゃおぼ、れ」
グラントの悲鳴は、耳障りな水音と共に止んだ。それと同時に、近くにパトカーのサイレンが鳴り響く。
「彼のことは警察が助けます。さ、我々はさっさと退散しましょう。あとは本部がなんとかしますので」
私は再びアカリの腕を引き、やや速足で歩みを進めた。
歩くこと十分ほど。私とアカリは最寄りの駅へとたどり着いていた。こじんまりとした駅で、周りには駅員以外の人影はなかった。
「彼がもしただの筋肉ムキムキの男で、武器がマグナムとナイフだけの方が、私は苦戦しただろうな」
電車が来るのを待つ間、私とアカリはホームのベンチで談話を再開していた。
「はあ、まったく。今日は色々ありすぎた。なあ、検査のことなんだが」
「ああ、明日以降でも構わないよ」
よかった、と嘆息をつくように答える彼女は、ベンチの背もたれに体を預け、駅を暗く照らす電灯を仰いでいた。
「なあ、やっぱりよ」
そのまま首だけを右に向けこちらを見つめるアカリ。
「アンタ、その喋り方の方が良いぜ」
「……あ!いや、その」
自分でもいつの間にか敬語を止めていたことに気付いていなかった。何か言い訳を続けようとしたが、それを電車の到着音が遮った。
「もう、着いてこなくていいぜ。あとは一人で帰れるからさ」
「いや、あ、いえ。今日は」
彼女は足で反動をつけ、ベンチから勢いよく立ち上がって、
「大丈夫だ、安心しろよ。お前たち頼りがいのあるアラド・カルガがついてるんだからな」
と言い、こちらににっと眩い笑顔を見せる。
私もそれ以降は何も言わずに電車に乗る彼女を見届けていた。
「アカリ……さん。最後に一つ聞いていいか」
電車の扉はしばらく開いており、出発までの時間を待っていた。
「……ええ、なんですか?」
最後の恋人の真似事。彼女も私に乗っかり、再び可憐な少女の言葉を用いる。
「きっと、皆。君を君以上に愛している。君は魅力的だ。大事な人を作ることに臆病にならないでほしい。得ることのない人生は、それはきっと、失い続ける以上に残酷なことだと、私は思うから」
ともすれば口説き文句ともとれる臭いセリフだった。普段なら絶対に言わないような言葉ではあるが、どうしてか、口をついて出てきたのだ。
「ふふ、私の人生なんて想像もつかないはずなのに。……けど、そうですね。失ったものも多かったかもしれないけど、確かに得たものも多いかもしれません。けど」
ドアが閉まります、機械的なアナウンスが駅構内に響き渡り、空気が抜けるような音が電車から発せられる。その音に負けぬと、アカリは声量を上げて続ける。
「あの人の珈琲は今も飲める。今はそれで充分。時には立ち止まらなきゃ疲れてしまう。だって」
がたんと、大きな音を立て扉が閉まり始める。
「人生はとっても、長いんですから」
扉は完全に締まり、電車は走り始めた。
「コーヒー……そうか、そうだったのか」
駅には一人、私は少し肌寒くなった体をさする。
右こぶしが少し痛み、頭蓋は少し熱量を上げていた。
「そうだな、喋り方は変えようか」
後日、私は期日通りに検査を行わなかったこと、許可を取らずデートをしたこと、そしてグラントの一件があったにも関わらず、一人でアカリを帰したことを、ミカエラにこっぴどく説教された。