ノトファグス 第一節
強すぎる空調で、この部屋の室温は相当に低いはず。しかし私の肢体に纏わりつく湿度の高い空気には、まるで沼底の澱みのような不快感を覚える。ここが私の職場だ。
生命を育むための行為を、方や金銭のために、方や快楽のためだけに消費する。そんな背徳的な営みこそが、私の仕事だ。
「今回も良かったです。ありがとうございます」
服を着替えながら、彼は私に礼をする。私にとっては単なる労働に過ぎないのだが、こうして感謝されると中々嬉しいものがある。はっきり言えば行為そのものより、この感謝の方がよっぽど快感を覚えた。
部屋の出入り口まで彼を見送る。私が身に着けているネグリジェは、腰の紐を解き、肩ひもを外せば、あっという間に裸体を晒せるようなもので、とてもではないが人様の前で立てる格好ではない。しかも透けているため、私の恥部はこの衣装越しにでも確認できてしまう。だが、どうせ私は今日一日この部屋を出ないし、この仕事を快適にこなすには、この衣装ほど適当なものはない。
「今日も楽しかったよ!じゃあ、また指名してね」
別れを告げ、一時の休息をソファでとる。とはいえ、あと一時間もしないうちに次の客が来る。ベッドやバスルームの掃除もしないといけないので、本当に休めるのは十数分程度である。次の客もさっきの彼と同じくらい通い詰めてくれる男だが、少し乱暴であまり相手にはしたくないのが本音である。
今日も長い一日になりそうだ。そう思うと軽い嘔気に襲われた。
「お疲れ様でーす。あ、アンちゃん、この後飲みに行かない?」
仕事が終わる時間になり、店の一室から出ると、私の隣室で働いているメイが声をかけてきた。私とメイはこの売春宿で最も仲が良く、しばしば仕事終わりは一杯ひっかけにいく。
「ごめん、明日は朝早くから撮影だからさ、また今度で」
「えー、最近働き過ぎじゃない?体がもたないよー」
メイは頬を膨らませ、可愛く怒りを表している。
「本当ごめんね。明後日の出勤の時は必ず飲みに行くから」
メイに別れを告げ、帰路に就く。陽が沈んで何時間も経っているというのに、未だ街には昼の粘っこい熱気が残ったままである。汗を滴らせながら、行きつけのレストランでサビーフを買い、家に到着した。しかし我が家の前には、一人の見知らぬ男が立っていた。
「ユリア・ゼビアー、だな」
私の本名、長らく用いていなかったそれを呼ばれ、目の前の男の正体を理解する。
「アラドカルガの人?なんか用?」
と言い終わると同時に、あることを思い出す。そういえば今日は彼らが会いに来るのであった。
「あー思い出した。ごめんごめん。そういえば今日だったね。家に入る?」
「ああ、今からでも構わないよ。もう今日は一時間もないが」
彼が皮肉を言っているのを聞き流しながら、家へと入る。
部屋の中は人が来るとは思ってなかったので全く片付けていない。世間には人を招き入れる時だけ家を綺麗にする人がいるそうだが、私はそうではない。狭い家を埋め尽くすように私の服やら下着やらが散乱していて、アラドカルガの彼はそれを避けながら、恐る恐る歩いていた。
「で、今日は身体測定とかじゃないのよね?なんか話があるとかで」
彼をソファに座らせ、私はベッドの上でさっき買ったサビーフを頬張る。
「ああ、そうなんだが、君が食べてるそれは何だい?」
「これ?サビーフだよ。サンドイッチみたいなもん。ピタの間に揚げた茄子とか野菜がはさまってるの。食べる?」
紙袋の中からもう一つのサビーフを出す。本当は私が食べる分だったが、約束を忘れ、待たせたお詫びだ。
「ありがとう。遠慮なくいただくよ。ああ、それで話なんだが、君の仕事についてだ」
「またー?もう何度も話したじゃん」
薄々、彼の用は理解していた。アラドカルガが私を訪れるのは、身体測定か、それとも仕事についてだけだ。
「もし君が金銭に困っているというのなら」
「おかげさまで困ってない」
「なら、何かその仕事をしなければならない理由が」
「私が好きでやってることよ」
最近彼らの体制が大きく変わったとかで、生活支援についての見直しなどもしているらしい。今までは金銭を一律で送りつけ、メレトネテルの口を封じていたらしいが、これからはこうして一人一人にあった慰謝料を支払っていくらしい。これはそのための慰問だそうだが。
「しかし、何故君はその仕事を続けるんだ。他にも沢山仕事はあるだろう」
しかし説得の文句だけは、前と同じだ。体制が変わろうと、私への目線は従来通りということだろう。
「ねぇ、反対に質問なんだけど、メレトネテルって皆仕事しないの?」
そう述べると、彼は少し困ったように目線を外し、首筋を掻いている。
「いや、やめるものもいるが、元の仕事が好きな人や、世間体を気にして続けるという人はいる」
「なら、私もそれと同じ。単にこの仕事が好きなだけ。私は気持ちよくはないけど、男たちを気持ちよくさせてあげるのが私は意外と好きなの」
この言葉に偽りはない。事実私はあの男たちが絶頂に達した瞬間の、痙攣にも似た姿がたまらなく愛おしいのだ。確かに私は金銭に困ってはいない。アラドカルガから受け取る生活費だけで充分一生遊んで暮らせる。
「それに、売春宿もポルノも別にこの国じゃ違法じゃないし」
「ポルノはそうだが、売春宿は『デザインドのみ』合法なだけだろう」
彼の言う通りだ。私たちのこの仕事は複雑な社会の構造と抑圧が幾重にも絡まっている。
「ユリア、君の言いたいことはわかる。しかしわざわざ自分がデザインドであると明らかにするような状況に身を置くのは危険だ。君の知っての通り、世界には未だデザインドを同じ人間と認められないものも多い」
彼の言葉を聞きながら、サビーフを私は完食し、包み紙を丸めて部屋の隅のゴミ箱へ放り投げる。
「それでも、シャイロックは高利貸しをやるしかないのよ」
「?」
「もういいでしょ。貴方が何と言おうと、私の決意は変わらないわ」
立ち上がり、部屋の扉を開ける。しかし私は部屋の外には出ずに、開け放たれた扉の隣に立ち続け、彼を見つめた。その一連の所作は、ドアマンのそれによく似ている。
「わかった。そこまで言うならな。けど困ったことがあったらいつでも連絡してくれ。我々が君の味方なのは変わらないのだから」
「はいはい。機械の騎士様」
彼は渋りつつ我が家から出ていった。
私はデザインドだ。就職は不利、就学でさえ偏見に満ち、社会では全く息苦しい存在。裕福な一族に仲間入りする者もいれば、生まれてすぐに孤児となるものさえいる。私もまた親を知らぬ貧しきデザインドだった。
しかし私はメレトネテルであることが判明した。一転、私は世界最大の資本を持つアラドカルガ及びドゥアザルルから保証を受け、死ぬまで働かずとも生きていける存在へと転じた。
何が違う?
デザインドと人間とメレトネテル。
生まれ方か、育った環境か、持ちうる能力か。
一体何がこれほどまで人間の人生を変えるのか。
私はそれに興味があるのだ。しかし人は他人にはなれない。なれないからこそ、どれほど他者の人生に関心を持ち、社会の構造を紐解いても、隣人の人生を変えることはできない。
だが、もし他人になれる力があるなら、話は別だ。
私が生まれたときの名前はユリア・ゼビアー。だがアンというのは決して偽名ではない。これは私が、この力で獲得した人生の一つなのだ。
私の力は、変身。
細胞単位で別人に変じることができ、性別でさえも私は変えることが可能なのだ。だがこの力もそれほど自由が利くわけではない。変身後の姿がどうなるかを私が決定することはできないし、元の姿に戻ることさえできない。変身には途方もない力を使うし、痛みも伴う。
だから私は、変身後の姿で三年、別の人生を歩むことを決めたのだ。
十六歳、能力を自覚してから、自分の意思で行った最初の転身。この時はアフリカ系の女性になった。ここで私は宗教を変え、異なる神に仕えることを決めた。初めはちょっとした気の迷いだった。元より礼拝にすらロクに行ってなかったということもあったが、暮らしている地域を変えたわけでもないのに、わずかこの程度の変化で、周囲の環境は激変した。
十九歳。この時の変身で、私は何と十代前半の北欧系の男の子になった。私は持っていたアラドカルガからの支援金を用いて、有名な高等教育機関へと進学した。頭はもともとよくはなかったが、ここで必死に勉学に励んだ。ちなみにこの姿でも性的指向は変わらなかったため、男性同士の恋愛というものを経験した。不思議なものだった。私自身は姿以外何も変わっていないのに、この時の周囲からの目線は初めて経験する感覚だった。
二十二歳。これが今の姿。真っ黒な美しい髪に、少し褐色がかった健康的な肌。一六〇センチのすらりとした肢体は、手足が長く、それでいて豊かな双丘を持っていた。私の本来の姿とは比べ物にならないほど美しい容姿だった。
この姿になった時、私は複数の人生を思いついた。街を歩くだけで男たちはにこやかに微笑み、女たちは私の後をついてきた。男を囲うのも悪くない。女たちの理想になるのも良い。想像した人生は何もかも万人が憧れるような華々しく、そして充実したものだった。
しかしある日、私はある女性に出会った。人通りの少ない暗い路地で、男に買われ、仕事をこなしていた女性である。彼女こそがメイである。その時から既に今の職場で働いていたが、ああして時折街中で男をひっかけているのだという。後から彼女から直接聞いた話だが、メイは私の顔を見たときに、言葉にならぬほどの怒りと軽蔑を覚えたらしい。
『そりゃね。高価な服を身に着けて、いかにも勝ち組な美人が、誰にでも股を開く私を、まるで美しい遺跡でも見るかのように目を輝かせているんだもの』
メイの言葉はおそらく当時の私の複雑怪奇な感情をうまく言語化している。私の通っていた孤児院の中には、デザインド専門の売春宿で働く先達も多かった。私の面倒をよく見てくれた姉貴分も、男との情事で食いつないでいるという。だからこそ、デザインドがこうした境遇に置かれていることを知らないわけではなかった。だが実際に目にしたとき、私はその世界に異常な魅力を感じたのだ。
この時私は自分の次の人生を決定した。その場でメイに話しかけ、自分もその仕事がしたいことを伝えた。メイは私に対して警戒しながらも売春宿へと導いてくれた。
それからその魔窟の経営者と面接をした。国の法律ゆえにデザインドであることを証明しないといけなかったのだが、彼は特に身分証を提示せずとも、私がデザインドだとあっさり信じていた。この時は気づかなかったが、世の中にはあまりに完成した美男美女はデザインドであると決めつける悪しき習慣が存在するためである。
これと同じように私はお行儀のよいデザインドでは決して経験できぬことと幾度も遭遇した。第四の人生は第二、第三以上に得ることが多い生活だった。アンという人間を取り囲む環境は、私の想像の埒外だった。無論元の私が置かれている環境も特殊に過ぎる。こうして何度も人生を変えられるのはこの能力と、アラドカルガの助けゆえだ。しかしそんな私でさえ、メイを含む同僚たちとの出会いは、まさに未知との遭遇であった。
デザインドは、差別ゆえ、人が忌み嫌うような仕事を仕方なくするしかない。
だがそうして社会に強制された仕事が、デザインドへの偏見を更に加速させる。
偏見の被害者であり、同時に意図せず差別の推進者となる。
その理不尽な社会構造を、私はこの仕事で体感できると信じていた。だがそれは誤りだったのだ。
この宿には、勿論貧困と、仕事が身につかない者たちの最終手段として身を売る者が多い。だが中には純粋に性の営みを楽しむ者、貧困ではないが、大望のため稼ぎの良いこの仕事を選んだものも多い。さらには儲かると思ったが、医療費や薬代が高くついてしまい、結局大して稼げず辞めた者までいる。
この宿で働く者たちは、原因も理由も全く異なっていた。
当然である。
人間にはわかりやすいキャラクターなどなく、理解しやすいストーリーなどないのだ。
その程度のことさえ理解できていなかったことに、私は吐き気を催した。




