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人造のアーダム  作者: 猫一世
アイオライト
28/47

アイオライト 最終節

 食事を済ませた私は、視察という名の観光をしていた。昔は観光資源で繁栄していたというのもよくわかる。古い時代の城跡がここの一番の見ものであるが、そこへ行く過程も見事なものだった。自然に囲われながら、不快にならない程度に整備されており、加えて時折木々の隙間からは、辺りの街一体を一望でき、素晴らしい景観であった。

 また道中にはところどころ石碑に見立てた、この地域の歴史を語るスピーカーが備え付けられていた。この地域はある英雄の叙事詩の舞台であり、とある音楽家がその物語を題材に、戯曲を作ったことで、国内外多くの人間が訪れるようになり観光地へと発展していったらしい。

 しかしその発展は決して順調なものではなかった。観光地になれば、土地には多くの余所者が訪れる。当然、そうなれば街から静寂は奪われ、大地は踏みしめられる。ただそれだけでも街の人々からは強く反感を買ったが、トドメとなったのが、鉱山採掘を中止にするように、観光資源で稼いでいる人々から申し出があった。というのも、鉱山採掘で、城がそびえる山が、禿山になりつつあり、観光に訪れた人々の情緒を奪っているというのが、観光協会の主張であった。それを契機に街は大きく二つに分断されることになった。

 鉱山採掘によって職を得ていた下層労働者たちと、余所者に強い反感を抱く地主たちなどの、観光反対派、そして宿や土産屋などを新たに開く余裕のある中産階級以上の、観光賛成派。富豪と労働者、中産階級が真っ向から対立する形になった。前者はこの国で萌芽を見せ始めていたナショナリズムと結びつき、そして後者は欧州を騒がせていた革命思想が追い風となり、その対立には街の純粋な利益に対する論争以上のモノへと発展していった。

 結局その論争は、観光が思った以上に利益をもたらし、労働者にも後々職が回ってくるという事実によって、賛成派の方向へと収束していった。

 ここまで話してきた内容は全て、先ほど見かけた石碑型スピーカーから流れてきた情報を手短に纏めたものだが、最後にこんな言葉が付け加えられていたのが印象的だった。


「我々は、この街を変化によって蘇らせた。しかし変化が常に良き結果をもたらすとは限らない。時には現状維持も必要だろう。だがゆめ忘れるな。変化も保守も、固執してはならぬ。重要なのは流動である。人々が求めるべき答えを、常に求道し続けるその姿勢こそが、かの薄墨の城壁を凛然と輝かせたのだ」


 恐らくこの言葉を私以前に、最後に聞いたのは、ふもとの街の人々ではあるまい。浪漫と神話を求めて訪れた旅行者にしか、この言葉は届いていなかった。皆、誰一人としてこの過去からの訴えに耳を傾けず、山の下で過ごし続けた。

 その憶測の根拠は、今の街の姿そのものだ。時代の変化に取り残され、観光地は廃れ、かつての栄光はもはや面影すらない。勿論、この街は何も手を打たなかったわけではない。調べてみると、この街ではかつて、観光者を再び取り戻すために、観光資源を利用した新たな事業が数多く提案されていた。しかしその全てが却下されていた。


「我々は、この豊かな自然と、あの城を守っていかなければならない」


 皮肉なことに、かつて「変化を恐れなかった者たち」によって、人工的に整備された自然や、廃墟と化していた城跡を尻目に、時代考証さえ行わず再建されたメルヘンな城は、その何百年も後になって現れた「変化を恐れる者たち」にとっての「守るべき伝統」になっていた。


 城跡のある山の頂上まで登って、少しばかり街を見下ろす。空の青は、じわりじわりと橙に染められ始めていた。あまり暗くなっては山道に苦労すると思い、私はそれほど頂上には留まらず、そそくさと下山した。

 特に難なく下山は出来たが、街に戻るころにはすっかり辺りは暗闇に包まれていた。まだ今日の宿も決めていないというのに……


 ふと、虫の知らせのように、頭の中である言葉が反響した。


『ところで、あんた、この辺り旅行するのは良いけど、夜はやめときなよ』

『いや、最近さ、出るんだよ。連続殺人鬼がさ』


 そう、これは昼のレストランで、店主の女性からの助言。その言葉を完全に思い出した直後、背後から鋭く、血生臭い殺気を感じる。その殺意から逃れるかのように、体を必死に翻す。先ほどまで私が存在していた空間に、常人であれば重傷を負っていたような速度で、何かが飛んできた。暗闇に紛れて最初は何かわからなかった。その”ナニカ”は、まるで野生の虎のように、滑らかに、かつ俊敏に飛び、そして姿勢を整えた。それはまるで、今にも獲物に飛びつかんとしているようであった。

 しかしこちらとしてもその一瞬の間は、好都合であった。眼の暗視機能を作動し、その暗闇に潜む者の正体を確かめんとした。




 ラグナと別れ、僕は黄昏に染まる街に赴いた。今日の獲物はすでに決まっている。僕たち二人の生活を脅かしかねない存在。いつもそうしてきた。僕たち夫婦に仇なす者は決して見逃さない。

 フードを深くかぶり、金色に輝く街を、あの男を探しながら練り歩く。視覚だけでなく、嗅覚も用いて、獣の如く探し回る。不審そうに僕を見る人たちはいたが、彼らはすぐさま目を逸らした。この街では自分から面倒ごとに首を突っ込むものはいない。

 探し回ること数十分。夜の帳が東の空から少しずつ降りてきて、それから逃げるかのように太陽が西に沈み始めていた。すると一瞬、ほのかにだが、昼間に会ったあの男の匂いがした。その匂いを追いかけて行くと、小さなレストランがあった。

「裏手の戸が開いているな」

 その家に、誰にも見られぬよう忍び込む。

 その瞬間、僕の中で、何かが目覚める気がした。




 気が付けば僕は、その店の外にいた。僕が店を去った後、数分後に街に救急車と警察車両のサイレンが鳴り響いた。生贄になった少女の遺体が見つかったのであろう。しかし普段なら一人葬れば、渇望は潤うのだが、どうも今日はまだ魂が血を欲している。理由はわかっている。彼女は僕の求める生贄ではなかった。血を捧げる相手を間違ったのだ。彼女からあの男の匂いがしたせいだ。

 なに、今度は間違えない。ほら匂いが濃くなってきた。今にも胸の裡に潜む、僕の獣が飛び出しそうだ。闇が深くなるにつれ、僕の感覚が鋭敏になる。匂いが強くなるにつれ、全身の筋肉が膨張する。

 太陽は沈み、夜が始まった。ここからは僕の時間だ。

 何人であろうと、僕の牙からは逃れられない。

 対象は数メートル先、僕は家屋の屋根にいて、彼は夜道を歩いている。脚部に力を集中させ、飛翔した。砲弾の如く跳び、右手に持った血まみれのナイフを、その男、アラドカルガのリューベックに振り下ろした。その攻撃は間違いなく、奴の首を落とす勢いであったはずだが、ナイフの刃は空を切った。彼は紙一重で躱し、僕の体は勢いあまって、彼を通りすぎた。体勢を立て直すべく、その勢いを殺さずに、前転で距離をとり、ナイフを構え直す。リューベックもまたこちらの様子をうかがっている。

「な、まさか、君は……?」

 僕の正体に気付いて、彼は目を丸くしている。彼の驚愕は隙を生んだ。僕は改めて身を屈めて、リューベックの方に突進する。ナイフを両手で握り、確実に息の根を止めにかかる。リューベックは首と心臓を守るように、胸の前で腕を十字に交差させる。ナイフは狙っていた喉笛には刺さらず、それを守る腕に深々と刺さる。普通の人間であれば、これだけでも十二分に致命傷だが、機械の肉体を持つ彼には、さしたる脅威ではなかった。

 ナイフの刺さった左腕を振りかぶり、僕の手から凶器が奪い取られる。右手の裏拳で彼は反撃するが、僕は上半身を逸らして躱し、そのまま両腕を地面につけ、後方転回の要領で足を振り上げ、リューベックの顎を蹴り上げる。

 三百六十度回転して、再び地面に深く伏せ、よろめいたリューベックに向かって駆ける。肘鉄を鳩尾に入れ、右足を彼の首を刈り落とさんと振りぬいた。しかし腕で蹴りは防がれそのまま投げ飛ばされる。足を掴み続けられたままのため、上手く受け身が取れず、体が地面に叩きつけられる。僕も反撃に出んと、体を捻って、掴まれていない方の足で彼に攻撃する。しかし勿論この体勢では大した威力も出るはずもないが、彼の拘束から逃れるには充分であった。

 右拳を彼の顔面に叩きこむが、彼はそれを読んでいたかのように、僕の拳を掌で受け止める。彼は攻撃には出ず、金属製の腕輪を、僕の腕に取り付けた。正体不明の装置に焦って、距離をおこうと飛びのいた。しかしそれも彼の予測範囲であったかようで、彼はすかさず、先ほどと同じ装置を僕の左手首に向けて投げつけた。両手首に付けられた機械の腕輪は、互いに共鳴し合うようにアラーム音を鳴らしたあと、お互いを勢いよく腕ごと引き寄せ合った。どうやらこの装置は非常に強力な磁石のようで、一種の手錠の役割を果たすらしい。

「抵抗はもうよせ」

 アラドカルガは僕に降伏勧告をしてきた。確かに両腕を使わずに彼を倒すのは難しい。だが諦めてなるものか。僕の魂は血に飢えて……

「もうやめるんだ、ラグンヒルデ」

 



「ラグンヒルデ?何を言ってる。僕は夫のハーラルだ」

 いやお前が何を言ってるんだ。目の前にいるのは間違いなく、昼に出会ったラグンヒルデ・ベルクだ。確かに声は男のような低い声で、ラグンヒルデのか細い声と同じ喉から出ているとは思えない。またよく見ると、彼女の蒼く輝く瞳も、少し彩度が落ちて、まるで透明のガラスのような色になっていた。

「まあいい。一体なぜ私を襲った?」

 ハーラルを名乗るラグンヒルデは、腕に電磁拘束具をつけてからは比較的に大人しく、先ほどのような獣の雰囲気もなく、会話もできそうな雰囲気であった。

「簡単さ、君が僕たちの生活を脅かす存在だからだ」

 ダメだ、落ち着いているようだが彼女の論理も破綻している。ともかく今の彼女、いや彼?には私が脅威に見えているらしい。

「僕はただのアラドカルガだ。君の過去は知っている。君が多くの人間に傷つけられたこと、君の夫が死に追いやられたこと。あらゆることに疑心を抱いてしまうのは仕方ないと思うが」

「黙れぇ!さっきから君は僕を何故ラグナと間違えるんだ!!そんなに僕が彼女に見えるのか!?ああ、そうだったな。知らなかったんだな、アラドカルガ。僕は、ハーラルは生きてたんだよ」

 声を荒げるラグンヒルデ。何故彼女は自分をハーラルと思い込んでいるのだろうか。答えを探すべく、彼女たちに起きたことを改めて思い起こす。

 ハーラルの能力、デザインドであるがゆえに悪意を振るわれたラグンヒルデ、そしてその後に起きた悲劇、その悲劇に耐えかねて自ら命を絶ったハーラル……


 ああ、そうか。

 過去を回想する中で、私はあまりに残酷な真実に辿り着いてしまった。この推理が正しいとすれば、今のラグンヒルデを止めるということは……


 いや、迷うべきではない。たとえラグンヒルデに再び愛する人の死を体験させることになろうとも、負の連鎖はここで断ち切るべきだ。

「ラグンヒルデ」

「貴様ぁ、わざとか?何度言えばわかる!!僕は!ハーラルだ!!」

「いや、お前はラグンヒルデだよ」

 繰り返し名を呼ばれて、表情に困惑の色が浮かぶ。

「目を覚ませ、ラグンヒルデ。ハーラルは死んだ」

 トドメとばかりに、小型の端末で、空間に映像を投射する。

 その映像は、ハーラルの遺体。生々しく、そして残酷な死の記録。

「それがどうした。僕は死を偽装したんだ。それは僕が死んだ証拠には」

「なら教えてくれ。どうやって偽装したんだ?」

 沈黙、どうやら私の思惑通り、彼女にそれを答えることはできない。なぜなら

「君のその記憶は偽りだ。捏造されたものなんだよ、ラグンヒルデ」

「うるさい……」

 彼女の心はすでに折れかかっている。あと少し、あと少しで彼女を呪いから解放できる。

「ラグンヒルデ、君がハーラルだと思っているのは、ただのまやかしだ」

「ああ、黙れ……黙れ……、黙れええええ!!!」

 獣の咆哮、心の弱い者であれば聞いただけで意志を折りかねないほどの、けたたましい狂気の奔流 。月光に輝く髪の毛が逆立ち、瞳は透明な光を放つ。そして一瞬、決して目は刹那も離さなかったはずなのに、月下の狂獣は私の視界から消えた。

 消えたラグンヒルデは、私の懐に現れ、首元に牙を立てた。突進の勢いでそのまま押し倒される。首の人工皮膚が引き裂かれ、さらにその奥にある人工筋肉に食らいつく。

 アラドカルガである私には、それほど致命傷ではないが、人工骨格まで破壊されると少しまずい。抵抗を試みるが、まったく彼女の頭が私の首から離れない。

「ああ、くそ。離れろ、離れてくれ!」

 驚くことに、彼女の力は私が抵抗すればするほど、強くなっていった。

 まるで、私の彼女への反発が、そのまま彼女の力になっているかのようだった。

「そうか、そういうことか」

 彼女の力の起源、いや、ハーラルの力を私は理解していなかった。彼女を止めるのに、必要なのは敵対心ではない。

「え」

 彼女を拒絶していた両腕を、ラグンヒルデの背中に回す。抱擁、つまり私は彼女を受け入れた。

「な、なにをしている……?」

 拒絶ではなく、受容、それこそがラグンヒルデとハーラルを止める方法に他ならなかった。

「私は君の敵ではない」

 この言葉こそが、彼女の呪いを完全に解く鍵。いや、見方を変えれば、これこそが呪いの言葉か。

「やめろ……やめて……ハーラル……行かないで」

 顎の力が少しずつ弱まり、それと共に瞳の色も、かつての紺碧の海の如き藍色に戻っていた。私の胸元がわずかに濡れ、先ほどの獣の唸り声はもはや聞こえず、代わりにか細い嗚咽が響いている。

 一分ほど、同じ姿勢で止まっていると、やがてその声も聞こえなくなり、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。

「疲れたのかね。まあ、あれだけ大暴れしたあとだからな」

 ふと、あたりを見渡すと、彼女が蹴りつけた地面の石床が、暴力的にめくれあがっているのが目に入る。

「いや、流石にこりゃ……」

 人間技じゃない、そう言おうとした時、脳裏によぎったのは、音速少女と要塞女。今更人間離れした存在、それほど珍しいことでもないというのに。




 翌日、私はラグンヒルデの家へと見舞いにいった。

 彼女は先日のあの一件から、ずっと眠りこけていたが、どうやら目を覚ましたようなので、本日の観光予定を蹴って、こちらに向かうことにした。

 ラグンヒルデの家に入ると、彼女はリビングのソファの上で、コーヒーを飲んでいた。

「おや、もう動いて大丈夫なのかい?」

「ええ。平気、というわけではありませんが……」

 随分大きな心の傷を負わせてしまったのではないかと心配していたが、彼女は意外と健勝そうであった。

「それより、教えてくださいませんか?私の身に、何が起きたのか」

 彼女はポットからコーヒーをカップに注ぎ、こちらに質問と共に渡してきた。

「ああ、お気遣いどうも。そうさな、君が平気だというなら話しても良いが……」

 その先の言葉はあえて口には出さず、目で訴えかける。彼女もまた、それでも、と静かに頷いた。

「わかった、じゃあ話そうか。君の暴走、君の見ていたハーラルについて」

 

 


 ハーラルの力が影響を及ぼすものと、及ぼさないものがいたのは、何らかの抵抗力があったなどが理由ではない。いやむしろ彼の能力は如何な手段を用いても防げない。ではなぜ、長きにわたり、近くにいたラグンヒルデが全く力の影響を受けなかったか。

 いや、実のところ、彼女は初対面の頃から力の影響下にあった。既にハーラルによって喚起された感情があったために、彼女は怒りや悲しみなどを共感することがなかったのだ。

 彼女が共感した感情、それは愛だ。

 つまりラグンヒルデは、ハーラルと愛を共有していたために、負の感情に左右されなかったのだ!!


 ……なんて綺麗な話ではない。

 ハーラルの力は、感情の方向性をも固定する。つまり、ラグンヒルデがハーラルを愛するようになったということは、ハーラルが愛していたものはラグンヒルデではなく、彼自身に他ならなかった。彼女はつまり、ハーラルの巨大な自己愛に巻き込まれてしまったにすぎない。

 ハーラルという男は、度重なる悲劇の渦中を歩んできたために、自身への過剰なまでの愛を抱いていた。当然といえば当然だろう。彼が精神を安定させるために作り出した防衛本能に近しい感情と言えよう。

 だがその感情に巻き込まれたラグンヒルデは、まるで運命の出会いを錯覚するかのような、強烈な愛情を彼に抱くようになった。

 しかしこの自己愛は、ラグンヒルデの暴走の直接的原因ではない。


 彼女がハーラルの亡霊に憑りつかれ、怒りのまま牙を振るうようになった本当の理由。


 それは、最初で最後のハーラルからラグンヒルデに贈られた、他者愛であった。皮肉なものである。彼は初めて自分以外の人間の不幸を嘆いたのだ。ラグンヒルデに降りかかった度重なる不幸、それはハーラルに彼女への憐憫とも言うべき感情を呼び起こさせた。彼はおそらくこの能力を自覚して、初めて「誰かを愛すること」を覚えた。

 ハーラルの自己愛が消え、ラグンヒルデへの寵愛が生まれたことで、その最期に寄り添ったラグンヒルデは、またもアベコベな愛情を抱いた。

 ハーラルがラグンヒルデを愛する。その感情を共有するということはつまり、ラグンヒルデは、彼女自身を愛するということ。彼女はハーラルの強力な愛を受け止め、自分をかつてより遥かに愛するようになった。


 なるはずだった。


 彼女が見ていたハーラルの幻影。これこそがラグンヒルデの自己愛の正体。自己に否定的な彼女の性格が災いし、彼女は「自分自身を愛すること」ができなかった。だからその代わりに、ハーラルの幻想を作り上げることで、見事自己愛を成立させた。つまりラグンヒルデは、自己愛を行う感情を、ハーラルという別人格を作り出し、切り離すことで成立させたのだ。これにより、ラグンヒルデは仮初のハーラルとの生活を続けることになった。

 しかしその正体は、強力なまでの自己愛である。ゆえにラグンヒルデは自身に降りかかりかねない火の粉を全て振り払う必要があった。もし彼女の前に、彼女の生活を脅かそうとする者、もしくはその可能性のある者が現れれば、彼女はハーラルという人格に身を委ね、その危険因子を消してきたのだ。

 過剰なまでの敵対意識と猜疑心であるが、しかしその呪いを解くのはそれほど難しいことではなかった。ただ、彼女を愛してやること。ハーラルの力によって、怒りを喚起させられた人間が、その対象を殺すことでしか、その暴走を止められなかったように、彼女を制止させるには、他人から愛されるという経験があるだけでよかった。

 しかし、彼女は夫の死後、ひたすら失意の底に落ち、アラドカルガによって隔離され、他人との交流を絶っていたために、この一年、誰からも愛されることはなかった。

 とはいえ、この社会、完全に人の目から消えて暮らすのは困難なほかない。仮に人里から遠く離れた場所でひっそりと暮らしていようと、それはかえって彼女自身を目立たせかねない。ゆえにアラドカルガは監視もしやすい、街中での暮らしを選ばせたのだが、それが彼女の防衛本能を目覚めさせる切欠となってしまった。

 また誰かに殴られるかもしれない。憎悪の対象になるかもしれない。愛する者を傷つけられるかもしれない。そうした不安と焦燥が、彼女を暴走させた原因であったのだろう。




 ラグンヒルデの身で起きたことを伝え終ると、彼女は言語化しにくい、錯雑な表情をしていた。怒り、悲しみ、後悔……、そのどれともとれない、不思議な形相。

「私ったら、本当ダメですね。ハーラルから愛されているとずっと思っていたら、それは仮初で、そして本当にハーラルから愛されるようになったら、私はその愛で他人を傷つけてたなんて。本当私は何のために生まれてきたんだろ」

 両手で顔を覆い、失意の念を漏らすラグンヒルデ。

「このご時世に、生まれる意味もないだろ」

 ぼそりと、本音に近い言葉を発する。それを聞いた彼女は、少しばかり表情が明るくなって

「そうですね……。けど罪は償わないと」

 と私の顔を真っすぐと見ながら、言葉を返してきた。その語勢は、今まで聞いた中で、最も意志の籠ったものであったように思う。

「アラドカルガであれば、その罪は無かったことにできるがね。君はいわば夢寐の中にあったようなもの。今回の一件には君が負うべき責任はない」

 彼女はかぶりを静かに左右に振る。

「そうか、なら止めはしないがね」

 話は済んだので、私が彼女の家を後にしようとすると

「あ、あの」

 と背後から呼び止められる。その声の主の方へと振り返ると、彼女はこう続けた。

「ありがとうございます」

「はて、恨まれこそすれ、感謝される覚えはないが」

 そもそも彼女の暴走は、ひとえにアラドカルガの不行き届きが招いたこと。もし彼女が反デザインド派から攻撃を受けずに済んでいたら、ハーラルの自殺を阻止出来たら、そしてラグンヒルデの変化にもっと敏感になっていれば。

 アラドカルガは、常にこの負の連鎖を止めることができたはずであった。しかし何もかも後手に回り、何一つ事の重大さを理解できてなかった。

「いえ、違うんです。私はデザインドではあるけど、メレトネテルではありませんから……」

 彼女が言いさした、その先の言葉はよく理解できた。

「昔のアラドカルガなら、そうしたかもしれない。問題を起こしたものを迅速に排除する。それは確かに非常に効率的だ」

 なら、と訴える藍色の瞳にこう続けた。

「ただ、ようやくアラドカルガも気づいたのさ。それは人の不幸を取り除くために、また別の人を不幸にしているだけだとね」

 その言葉を最後に、私は扉をくぐった。




 後日、彼女に刑が執行された。彼女の犯した罪を考えれば、終身刑は免れなかったが、彼女の出自、過去などが鑑みられ、責任能力に対して疑問が浮上し、その罰は比較的軽くなった。彼女の意思通り、その決定にはアラドカルガの影響はなかった、というわけではない。彼女がメレトネテルと関わりのある存在である以上、我々が無視できるはずもない。余罪は他にもあったが、メレトネテルに繋がりかねない要素は、全て秘匿された。

 とはいえ、被害者遺族からの叱責は免れられず、彼女は何度も口汚く罵られた。恐らくラグンヒルデは、これからの人生、こうした怒りの声に付き合い続けなければならない。暴力を振るわれることも容易に想像できる。

 

彼女の贖罪は、始まったばかりである。


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